軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 静かな朝

第10話 静かな朝

春の朝だった。

薄いカーテン越しに、柔らかな光が差し込んでいる。

窓の外では小鳥の声が聞こえ、遠くを走る電車の音が小さく響いていた。

桃子はゆっくり目を開ける。

白い天井。

小さなワンルーム。

けれどその景色にも、もうすっかり慣れていた。

ベッド脇の時計を見る。

午前六時四十分。

休日にしては早い。

けれど最近は自然とこの時間に起きるようになった。

桃子は毛布を肩へ掛けたまま、少しだけ窓を見つめた。

春先の朝日が、床へ細長く伸びている。

静かだった。

本当に静かだ。

以前のマンションより狭い部屋なのに、不思議と圧迫感がない。

必要なものだけがある生活。

白い丸テーブル。

グレーのソファ。

背の低い本棚。

小さな観葉植物。

それだけだった。

桃子はベッドから降り、薄手のカーディガンを羽織る。

淡いグレーの部屋着は柔らかく、洗剤の匂いが少し残っていた。

キッチンへ向かう。

床はまだ少し冷たい。

コーヒーミルへ豆を入れ、ゆっくり回す。

ガリガリ、と静かな音が部屋へ広がる。

桃子はその時間が好きだった。

誰にも急かされない朝。

誰の顔色も見なくていい時間。

湯気が立ち上る。

深い香りが鼻へ抜けた。

桃子は目を細める。

以前なら休日の朝は、徹から電話が来ることが多かった。

『今日何する?』

『昼どっか行く?』

それは楽しかった。

ちゃんと。

好きだった。

でも同時に、どこかでずっと気を張っていたのだと思う。

義母との関係。

結婚準備。

共有されていく未来。

気づかないふりをしていただけで、ずっと呼吸が浅かった。

コーヒーをマグカップへ注ぎ、トースターへパンを入れる。

バターと蜂蜜も用意する。

冷蔵庫にはヨーグルトと苺。

以前より食事は簡単になった。

でも、自分がちゃんと食べたいと思うものを選べるようになった。

それだけで少し楽だった。

スマートフォンが震える。

画面を見る。

『黒木 梨沙』

桃子は少し笑い、通話ボタンを押した。

「おはよ」

『早。起きてたの?』

「コーヒー淹れてた」

『意識高』

梨沙の笑い声が聞こえる。

桃子はトーストを皿へ乗せながら、

「そっちは?」

と聞く。

『今起きた。むくんでる』

「休日っぽい」

『で、どう? 一人暮らし満喫してる?』

桃子は少し考えた。

窓の外では、向かいのマンションのベランダに洗濯物が揺れている。

「……うん」

『顔、前より柔らかくなったよね』

「そう?」

『会社でもわかる。なんか呼吸してる顔してる』

桃子は思わず笑った。

「何その表現」

『いや本当に。前ずっと息止めてるみたいだった』

桃子はマグカップを両手で包む。

温かい。

「そうかも」

『徹から連絡まだ来る?』

「たまに」

梨沙が少し黙る。

『戻りたいとか言われない?』

「言われた」

『うわ』

「でも無理」

自分でも驚くほど迷いがなかった。

好きとか嫌いじゃない。

もう戻れない。

価値観が違う。

ただそれだけだった。

『まあねぇ』

梨沙がため息混じりに言う。

『でも桃子、ちゃんと切れてよかったよ』

「うん」

『ああいうのって結婚してから地獄になるから』

桃子は静かに窓の外を見る。

もしあのまま結婚していたら。

義母は合鍵を持っただろう。

徹は笑って、

『家族だから』

と言っただろう。

桃子の家も。

時間も。

生活も。

少しずつ共有されていった。

その未来を思うと、今でも息が苦しくなる。

「梨沙」

『ん?』

「私ね」

桃子は小さく笑う。

「一人のほうが向いてるのかも」

『いや、相手によるでしょ』

「そうかな」

『桃子は悪くないよ』

その言葉に、桃子は少しだけ目を伏せた。

悪いとか、正しいとか。

もうあまり考えていなかった。

ただ、自分が安心して帰れる場所を守りたかった。

それだけだ。

『あ、そうだ』

梨沙が急に声を上げる。

『今度飲み行こうよ』

「いいね」

『新しい店できたんだって』

「調べといて」

『任せろ』

通話が切れる。

部屋がまた静かになる。

桃子はトーストを一口かじった。

バターがじゅわりと広がる。

窓の外から春風が吹き込んできた。

桃子は立ち上がり、窓を開ける。

柔らかな空気が部屋へ流れ込む。

遠くで子供の笑い声。

どこかの家の朝食の匂い。

街がゆっくり目を覚ましていく。

桃子は目を細めた。

静かだ。

でもその静けさは、孤独じゃない。

ようやく、自分の足で立っている感覚だった。

「……自分で立ってるほうが、楽だな」

小さく呟く。

誰もいない部屋へ、その声だけが静かに溶けていった。

春の朝だった。