作品タイトル不明
エピローグ 境界線の向こう側
エピローグ 境界線の向こう側
秋の風が吹いていた。
駅前の並木道は少し色づき始めていて、乾いた落ち葉が歩道を転がっていく。
桃子は紙袋を片手に、ゆっくり坂道を上っていた。
今日は仕事が早く終わった。
外資とのオンライン会議が珍しく短く終わり、定時前に退勤できたのだ。
薄いベージュのコートの下には、黒のニットワンピース。歩くたび細いピアスが小さく揺れる。
紙袋の中からは、焼きたてのパンの香りがしていた。
最近お気に入りのベーカリーで買ったバゲットと、栗のデニッシュ。
それだけで少し気分が良かった。
マンションのエントランスへ入る。
新しい部屋へ引っ越して、もう半年が過ぎていた。
最初は狭く感じたワンルームも、今ではちゃんと「自分の家」になっている。
エレベーターの鏡へ自分の姿が映る。
疲れてはいる。
でも以前より表情が柔らかい気がした。
部屋へ入ると、ふわりと柔軟剤の匂いがした。
静かだ。
誰もいない。
でもその静けさは、もう寂しくなかった。
桃子は靴を脱ぎ、ソファへバッグを置く。
窓際の観葉植物は少し大きくなっていた。
「おかえり」
小さく呟いて、自分で笑う。
以前はそんなことをしなかった。
冷蔵庫から白ワインを取り出し、グラスへ少しだけ注ぐ。
窓の外は夕暮れだった。
ビルの隙間からオレンジ色の光が差し込み、部屋の床へ長く伸びている。
桃子はバゲットを切りながら、ふと思い出す。
あの日。
新居を売った、と徹に告げられた夜。
あの瞬間、自分の中で何かが終わった。
でも同時に、何かが始まった気もする。
スマートフォンが震えた。
梨沙からだった。
『今週土曜空いてる?』
桃子は笑う。
『空いてる』
すぐ返信する。
『じゃあ飲み!』
『了解』
短いやり取り。
でもそれだけで少し温かい。
桃子はキッチンへ立ち、スープを温め始めた。
玉ねぎとベーコンの簡単なコンソメスープ。
鍋から立ち上る湯気が、部屋へ柔らかく広がる。
以前は「ちゃんとしなきゃ」と思っていた。
結婚。
家庭。
妻らしさ。
義母とうまくやること。
誰かに合わせること。
でも今は違う。
疲れた日は簡単な食事でいい。
静かに眠れる夜のほうが大事だ。
桃子は窓を少し開けた。
冷たい秋風が頬を撫でる。
そのとき、インターホンが鳴った。
宅配便だった。
「ありがとうございます」
受け取った小さな箱には、祖母の古い友人の名前が書かれていた。
部屋へ戻り、そっと開ける。
中には一枚の封筒と、小さなキーホルダー。
祖母が昔使っていた鍵だった。
手紙には、丸みのある字でこう書かれている。
『整理していたら出てきました。桃子ちゃんに持っていてほしくて』
桃子はしばらく鍵を見つめた。
銀色の、小さな鍵。
祖母が昔住んでいた家のものだろう。
少し傷がついている。
でも大切に使われていたことがわかる。
桃子は指先でそっと撫でた。
祖母はよく言っていた。
『家ってね、安心して帰れる場所じゃないと駄目なの』
あの言葉を、今ならちゃんと理解できる。
家は、誰かに奪われる場所じゃない。
我慢して居続ける場所でもない。
帰って、息を吐ける場所だ。
スマートフォンがもう一度震える。
今度は知らない番号だった。
一瞬だけ迷い、通話へ出る。
「もしもし」
『……桃子?』
徹だった。
桃子は静かに目を閉じる。
久しぶりに聞く声だった。
『突然ごめん』
「うん」
『今、大丈夫?』
「少しだけなら」
短い沈黙。
徹の向こう側で、電車の音がした。
『元気?』
「元気」
『そっか』
それきり言葉が途切れる。
以前なら、この沈黙に耐えられなかった。
でも今は違う。
無理に埋めなくていい。
『……俺さ』
徹が低く言った。
『やっとわかった気がする』
桃子は何も言わなかった。
『桃子が嫌だったこと』
秋風がカーテンを揺らす。
徹は少し笑った。
疲れたみたいな声だった。
『遅いよな』
桃子は窓の外を見る。
夕焼けが少しずつ夜へ変わっていく。
「そうだね」
『……ごめん』
静かな謝罪だった。
言い訳もない。
たぶん初めて、本当に理解したのだろう。
桃子は少しだけ目を伏せる。
好きだった気持ちが、全部消えたわけじゃない。
でももう戻らない。
それでいいと思った。
「徹」
『うん』
「ちゃんと、自分の家見つけてね」
電話の向こうで、徹が黙る。
その沈黙は、以前よりずっと大人だった。
『……うん』
通話が切れる。
部屋へ静けさが戻る。
桃子は小さく息を吐き、テーブルへスープを置いた。
湯気がゆっくり立ち上る。
窓の外には、秋の夜。
温かな部屋。
誰にも踏み込まれない空間。
桃子は静かに笑う。
ようやく、自分の人生へ帰ってきた気がした。