作品タイトル不明
第9話 帰る場所
第9話 帰る場所
実家の最寄り駅に降りた瞬間、徹は少しだけ後悔した。
雨上がりの夕方だった。
湿った風が古い商店街を抜けていく。昔から変わらない焼き鳥屋の煙が漂い、遠くで小学生の笑い声が聞こえた。
子供の頃、毎日歩いた道だ。
なのに今日は妙に居心地が悪い。
徹は肩へ掛けたボストンバッグを持ち直した。
荷物は少ない。
本当に必要なものだけを会社近くのビジネスホテルへ移して、残りはとりあえず実家へ送った。
桃子との話し合いから一週間。
まともに眠れていない。
仕事中も何度もスマートフォンを見た。
だが桃子から連絡は来なかった。
電話も出ない。
LINEも既読がつかない。
あんな終わり方があるのかと、徹はまだ現実感を持てずにいた。
実家の前へ着く。
二階建ての古い一軒家。
だが見慣れたはずの外観は、どこか違っていた。
足場が組まれている。
玄関横には工事車両。
窓には養生シート。
「……何これ」
玄関を開けると、木材と塗料の匂いが鼻を刺した。
床にはブルーシート。
工具の音が奥から響いている。
「ただいま」
声をかける。
すると奥から母・和代が顔を出した。
「あら徹!」
明るい声。
エプロン姿のまま近づいてくる。
「急に帰ってくるなら連絡しなさいよ」
「いや、しただろ」
「見てなかったわ」
和代は笑う。
その後ろでは職人らしい男性が脚立を運んでいた。
「何これ、工事?」
「リフォームよ」
「は?」
徹は眉をひそめる。
「聞いてないんだけど」
「言ってなかったかしら」
悪びれない口調だった。
「弟夫婦と同居するから、部屋増やしてるの」
徹は数秒黙った。
「……同居?」
「そうよ。子供できたし、あの子たち賃貸手狭でしょう?」
和代は当然みたいに言う。
徹は靴も脱がないまま立ち尽くした。
「ちょっと待って」
「何?」
「俺の部屋は?」
和代がきょとんとする。
「え?」
「いや、俺の部屋」
「ああ」
和代は軽く笑った。
「もうなくなるわよ」
徹は言葉を失った。
「……は?」
「壁壊して広げるの」
「いやいや待てよ」
徹はようやく靴を脱ぎ、リビングへ入る。
家具の位置も変わっていた。
ソファは端へ寄せられ、ダイニングテーブルの上には設計図が広げられている。
味噌汁の匂いが漂っていた。
昔と同じ匂いなのに、妙に落ち着かない。
「俺、今日からしばらく帰るって言ったよな?」
「だから?」
「だからって……」
徹は言葉に詰まる。
和代は不思議そうに首を傾げた。
「ホテルあるでしょう?」
「は?」
「会社近くにビジネスホテルいっぱいあるじゃない」
「いや、そういう話じゃなくて!」
思わず声が大きくなる。
職人がちらりとこちらを見た。
和代が小さく眉をひそめる。
「大きい声出さないの」
「俺、家ないんだけど」
「何言ってるの。実家あるじゃない」
「でも部屋ないだろ!」
「少し我慢しなさい」
その瞬間だった。
徹は言葉を失った。
少し我慢しなさい。
その台詞が、妙に胸へ刺さる。
和代は続ける。
「家族なんだから、助け合わないと」
徹はゆっくり顔を上げた。
その言葉。
どこかで聞いた。
いや。
自分が何度も使っていた。
「弟夫婦だって大変なのよ?」
「……」
「赤ちゃんいるし、将来のこともあるでしょう?」
和代は冷蔵庫から麦茶を出す。
「徹も大人なんだから、それくらい理解しなさい」
徹は何も言えなかった。
リビングの隅には、見覚えのある段ボールが積まれている。
自分の荷物だった。
雑に置かれたゲーム機。
学生時代の本。
もう置き場所すら決まっていない。
「ご飯食べる?」
和代が味噌汁をよそいながら言う。
「今日は肉じゃがよ」
昔から変わらない夕飯だった。
食卓へ座る。
父は新聞を読みながら、
「おう」
とだけ言った。
弟夫婦も来ていた。
弟の妻はお腹が少し大きい。
「お義兄さん、お久しぶりです」
「ああ……」
徹は曖昧に返事をする。
食卓には湯気の立つ肉じゃが、焼き鮭、ほうれん草のお浸し。
いつもなら落ち着くはずの光景。
なのに今日は居場所がなかった。
「徹くん、あっちの部屋使っていいですよ」
弟の妻が気を遣って言う。
「あ、でも荷物あるか」
和代が笑う。
「そのうち片付けるから」
「……そのうちって」
「しばらくはリビングで寝たら?」
徹は箸を止めた。
リビング。
この歳で。
和代は悪気なく続ける。
「家族なんだから、そのくらい平気でしょう?」
徹の胸の奥で、何かがずるりと崩れた。
桃子の顔が浮かぶ。
『共有って、勝手に始まるものじゃないよ』
静かな声。
『相手が“いいよ”って言って、初めて成立するの』
徹は初めて理解した。
自分はずっと、
「家族だから」
を理由に、人の境界線へ入っていたのだ。
桃子の家も。
気持ちも。
未来も。
全部。
自分では優しさのつもりだった。
でも違った。
相手の許可を、一度もちゃんと聞いていなかった。
「徹?」
和代が不思議そうに見る。
「食べないの?」
徹はゆっくり味噌汁を飲んだ。
熱かった。
懐かしい味だった。
でも、もうここは自分の場所じゃない気がした。
食後、徹は一人で玄関の外へ出た。
夜風が冷たい。
工事用の足場が軋む音がする。
空を見上げる。
黒い夜空。
どこにも帰る場所がない。
その事実だけが、静かに胸へ沈んでいった。