作品タイトル不明
57 別荘地のお茶飲み スペード夫人目線
57 別荘地のお茶飲み スペード夫人目線
避暑地の冬は静かだった。
静かすぎる、と言ってもいい。
王都ならば馬車の音が聞こえた。訪問客もいた。噂も届いた。嫌でも人と会った。
けれど、ここには何もない。
窓の外には白く積もった雪。パイプの中をスチームが通る音がかすかに聞こえる。
夫は書類を見ているふりをしている。最近は本当に仕事が減ったらしい。娘婿に少しずつ商会を取り上げられているのだ。
情けないこと。
いや、自業自得なのかもしれない。だが、それを認めるほど素直でもない。
「暇ね」
口に出すと、夫が顔を上げた。
「散歩でもしてきたらどうだ」と夫が言った。
「寒いわ。この雪だもの。いやよ」
「そうか」
これで終わり。
なんなの、これ会話とは言わない。
昔なら「今夜どこどこの夜会が」だの、「誰々夫人が」だの話題があった。今はなにもない。
わたくしは椅子に座りなおし、大きなため息をついた。
すると使用人が遠慮がちに言った。「あの……ご近所の方から」
「ご近所?」
紙を差し出される。
『お茶飲みに来ませんか? 暇そうだから』
最後の一文に目を疑った。
「暇そうだから?」
「はい……そのまま言われまして」と使用人が答えた。
平民よね。なんて失礼なのかしら。
だが、暇だった。ものすごく暇だった。
だから、翌日、わたくしは結局、その家の前に立っていた。
大きな家。目立って豪華。だけど珍しく暖炉の煙突がある。煙突から煙が出ている。
本当にここ?
と思っているうちに門が開いて招き入れられた。
「あ、来た」と中年女性がにやりと笑う。
「スペード夫人?」
「ええ」
「入って入って。寒いから」
あまりに気軽だった。当然のように招き入れられる。
玄関の暖かさに驚いた。うちでもここまで贅沢にしてない。
居間に入ると、女たちがいた。
「来たわ」
「ほんとだ」
「綺麗ねぇ」
「顔ちっちゃ」
「でも顔色悪い」
なんて無作法なの。おまけに最後は余計だわ。
「はじめまして。わたくし——」
「あ、自己紹介はあと。紅茶冷める」
席に座らされた。お茶と焼き菓子が置かれる。甘い匂い。美味しそうだ。
そして、唐突に始まった。
「旦那さん愛人いるんだって?」
ぶっ。
危うく紅茶を吹きそうになった。
「な、なぜそれを!?」思わず答えてしまった。
「噂よ」
「聞いた」
「避暑地狭い」
「あと顔」
「幸薄そう」
「疲れてる」
「怒ってそう」
好き勝手言われる。失礼極まりない。なのに、なぜか、少しだけ笑いそうになる。
なんなの、この人たち。
「で、いるの?」
ドロシーという女が身を乗り出す。その目が妙に真剣だった。
わたくしは少し黙って、そして言った。「いるわ」
一斉に顔が歪んだ。
「最低」
「腹立つ」
「財産あるのに?」
「愛人持つ男ほんと嫌」
驚いた。皆本気で怒ってる。馬鹿にされなかった。
「あなた、怒っていいわよ?」とぽつりと言われる。
言葉が喉に詰まった。
怒るって? そんなこと、考えたこともなかった。耐えるものだと思っていた。妻とはそういうものだと。
「そういうものでは」
「違う違う。我慢しないの」
全力で打ち消された。
「嫌なら嫌って言っていいの」
「あと甘いもの食べる」
「腹立つ時は糖分」
「これ美味しいから」
皿に菓子が追加された。思わず笑って、言ってしまった。
「変な人たちね」
「よく言われる」
「褒め言葉」
「ところで夫人」と一人が紅茶を飲みながら言った。「髪、綺麗ね」
「え?」
「どうやって巻いてるの?」
一斉に身を乗り出された。
「それ!」
「気になってた!」
「教えて!」
なんなの、本当に。なんなの、この人たち!
けれど、悪くなかった。少なくとも、窓辺で一人座っているより、ずっと。
避暑地の冬は長い。
長くて、静かで、時々息が詰まるほど白い。
なのに最近、決まった曜日になると少しだけ気持ちが軽くなる。
今日もまた、あの家だった。
「来たわね」とドロシーが当然のように迎える。
「遅い」
「雪だったのよ」
「歩いた?」
「歩いてない」
「だめ」
「運動しなさい」
玄関の暖かさに、この人たちの騒がしさに、なぜかほっとする。
「今日は新作の焼き菓子がある」とアビーが得意げに皿を差し出した。
甘い香りと暖炉。集中暖房は快適だけど、暖炉の暖かさが好きだから作ってもらったそう。(ほんと、暖炉はいいわね。うちも作ってもらおうかしら)
雑多なおしゃべりが続いて、笑い声は決して上品ではない。だけど、不思議と耳に心地よかった。
最初は耐えられないと思っていたこの空間が、今では大好きだ。認めたくないけれど。
「で?」
席に座った瞬間、マーシーが紅茶を注ぎながら言った。「今日は何かあったの?」
「顔が暗い」
「なんかあった顔」
「旦那?」
「愛人?」
「違うわ!」
けれど今日は、否定する元気もなかった。ため息が漏れる。
「主人がミネルバに連絡を取りたがっているの」
ぴたりと空気が止まる。
「あら」
「娘さん」
「好きな人」
「違うわ!」
なんなの、その顔。にやにやしている。
「で?」とマーシーが紅茶を置く。
逃げられない空気に負けて、仕方なく話し始めた。
暖炉がぱちりと鳴った。言葉が勝手に出た。
「わたくし、ミネルバが嫌いだったのよ」
静かになった。責められると思った。最低だ、母親失格だと。そう言われる覚悟をしていた。
「でしょうね」とマーシーがあっさりと言った。「社交界ではそう見てるでしょ」
「そうよね」
「叩かれてるわよね」
全員うなずいた。
「え?」
なんなの、この反応。いつものことだけど、少しは取り繕って欲しいわ。
戸惑っていると、ドロシーが焼き菓子を齧りながら言った。「でも理由あるでしょ」
言葉に詰まる。理由は、そうね。たくさんある。
「あの子は、いつも静かだった」
気づけば口にしていた。
「泣かないし、怒らないし、反抗もしない」
ミネルバ。灰色のドレス。静かな顔。なにも言わない娘。
「何を考えてるかわからなくて……腹が立ったの」
誰にも言ったことがない。
「フローラはわかりやすかった。笑うし、甘えるし、怒るし。でもミネルバは違った。成績はいいけど、友だちもいなかった。だけど使用人からは慕われた」
少し苦く笑う。
「わたくし、きっと……嫉妬していたのね」
「へぇ」とマーシーが紅茶を飲む。「親が嫉妬するって、出来が良いってこと?」
「多分ね」
「親が嫉妬するかな?」
「人間だしね」
「ありそうかな?」
「完璧な子ほど腹立つやつ」
軽い。驚くほど軽い。
「最低でしょう?」
ぽつりとこぼれる。誰かに言ってほしかったのかもしれない。「違うよ」って。
するとドロシーが首を傾げた。「最低ではないかな」
「近いけど」
「それぐらい隠せばよかったかな」
「馬鹿ではある」
「それは言える」
「でも人間っぽい」
「うるさい!」
笑いが起きる。気づけば、自分も少し笑っていた。
その時、マーシーが何気なく聞いた。「で?」
カップを置く音。「ミネルバさんって有名でしょ?」
「えぇ、有名よね。幸せが集まっている」
「えぇ、本当にそうね」
暖炉の音だけが響く。
「それを見るとね」
喉が熱くなる。
「安心するのに、苦しいの」
ぽろりと涙が落ちた。慌てて顔を逸らす。しまった。泣くつもりなんて。
すると、皿が差し出された。
「食べな」
「泣くと腹減る」
「糖分」
「甘いの正義」
もう少し、繊細に扱ってほしい。
それなのに、笑ってしまった。
「なんなのよ、あなたたち……」
涙が出るのに、笑いも出る。
「今、好きなんでしょ」とマーシーが静かに言った。
返事ができなかった。だって好きじゃない。今でも嫌い。
でも、長い沈黙のあと。
「たぶん」
そう言うしかなかった。
すると「よかった」「間に合った」と笑いあっている。「娘さん偉い」「夫人も、まぁ頑張った」
気づいたら、ミネルバのことを許しかけている自分がいた。
笑い声が暖炉の火に混ざった。
少なくとも、一人で泣くより、ずっと良かった。