作品タイトル不明
58 王都の雪
57 王都の雪
王都の冬は冷える。
だから、暖炉の火は絶やさない。
特に母は寒いのを嫌っていた。
だが、その母も今は王都にいない。
社交界で立場を失ってから、ひどく塞ぎ込むようになった。
だから夫は言ったのだ。
「静養されたほうがいいでしょう」
穏やかな声音だった。
「避暑地の別荘なら空気もいい。今は鉄道もありますから、不便もありません」
そうして、父と母は避暑地へ移った。
アレクサンダーが開発している、新興勢力向けの別荘地。
昔ながらの大貴族ではない。
新しい産業で財を築いた者。
鉄道に投資した者。
商売でのし上がった者。
そんな者たちが、次々と別荘を建てている土地だった。
避暑地だ。冬は寒い。
けれど、新式の暖房設備を備えた建物は驚くほど快適らしい。
母は最近、その別荘から手紙を送ってくる。
「雪景色が綺麗なの」
「今度あなたもいらっしゃい」
丸くなった文字。
昔の母なら考えられないほど穏やかな文面だった。
なんでも避暑地で気の置けない友人ができたらしい。
フローラは手紙を閉じる。
そして、静かな部屋を見回した。
花が飾られている。
彼が毎週取り寄せている花だ。
季節ごとに変わる美しい花々。
フローラの名にふさわしいようにと。
暖炉では火が赤々と燃えていた。
ぱちり、と薪がはぜる。
けれど、侍女が静かに頭を下げた。
「奥様、旦那様よりご伝言です。本日はお戻りが遅くなるとのことです」
フローラが問いかける。
「仕事?」
一瞬だけ、侍女が言葉を詰まらせた。
「はい」
いつもの嘘だ。
フローラはすぐに分かった。
使用人たちは隠しているつもりだ。
けれど、隠しきれていない。
夫には愛人がいる。
王都の別宅に住まわせている女。
昔、固く手を握り合って別れた恋人だった。
家の都合で引き裂かれた相手。
夫は最初、父を立てていた。
「義父上のご判断を待ちましょう」
「経験がおありですから」
丁寧で、穏やかで、誠実だった。
けれど父の決断は遅かった。
迷っている間に商機を逃がした。
先方は別の相手と先に行く。
逃した機会は戻ってこない。
夫は少しずつ、仕事を自分へ移していった。
「この案件はこちらで、進めています」
父の意見を求めなくなった。
「それはもう進めてあります」
書類も見せなくなった。
「今日は関係者の顔合わせです」
父は事務所へも行けなくなった。
気付けば、商会の顔は完全に夫になっていた。
アレクサンダーに目をかけられていることも大きい。
ローハン家の後ろ盾を持っている、やる気のある若い経営者。
そのおかげで、没落しかけていたスペード家は息を吹き返した。
だから、夫は堂々と愛人を囲った。
反対する者はいない。
いや、反対できない。
フローラはゆっくりと視線を落とした。
白い指先が、わずかに震えている。
侍女が気遣わしげに尋ねる。
「お食事はいかがなさいますか?」
同情なんて「いらないわ」
「ですが……」
「下げて」だから、いらないのよ、憐れみなんて。
侍女は困ったようにうなずき、部屋を出ていった。
静かだった。
暖炉の火の音だけが響く。
暖かいはずなのに。
上質な絨毯、柔らかなソファ。
厚いカーテン、目に優しい照明。贅沢な部屋。
全部あるのに、何不自由ないのに、それなのに。
「寒い……」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
窓の外では、王都の雪が静かに降っていた。