軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 財布を失った女

第9話 財布を失った女

二月の朝だった。

空はどんよりと曇っている。

窓を叩く冷たい雨が、まるで誰かのため息のように響いていた。

高橋美咲は寝起きのままソファに座っていた。

薄手のパジャマの上にカーディガンを羽織っている。

テーブルの上には飲みかけのカフェラテ。

昨日買ったコンビニのサンドイッチ。

洗い物は流しに溜まったままだった。

インターホンが鳴る。

美咲は面倒そうに立ち上がる。

「はーい」

ドアを開ける。

郵便局員だった。

「内容証明郵便です」

嫌な予感がした。

署名をして受け取る。

厚い封筒。

差出人。

三上法律事務所。

美咲の顔色が変わった。

震える指で封を切る。

中から出てきた書類を読む。

一行目。

不貞行為に基づく慰謝料請求。

金額。

三百万円。

「は?」

思わず声が漏れた。

もう一度読む。

三百万円。

見間違いじゃない。

本当に書いてある。

三百万円。

「うそ……」

全身から血の気が引いていく。

手が震える。

呼吸が浅くなる。

そんな大金、払えるわけがない。

テーブルへ崩れるように座った。

紙を握りしめる。

その時。

スマホが鳴った。

拓也だった。

美咲は即座に電話を取る。

「ねえ!」

怒鳴り声だった。

拓也も興奮している。

「お前にも届いたか!」

「届いたわよ!」

「どういうことだ!」

「知らないわよ!」

数秒の沈黙。

そして。

美咲は突然叫んだ。

「全部あなたのせいじゃない!」

拓也が固まる。

「は?」

「あなたがちゃんと離婚しないから!」

「お前が言ったんだろ!」

「私のせいにしないで!」

ヒステリックな声が部屋に響く。

今までの甘えた声はどこにもなかった。

涙ぐむ可愛い女も。

頼りない幼馴染も。

全部消えていた。

そこにいるのは追い詰められた女だった。

「私は被害者なの!」

「ふざけるな!」

拓也も怒鳴り返す。

「お前が誘惑したんだろ!」

「何よそれ!」

「妊娠したって言ったじゃないか!」

その瞬間だった。

美咲は言ってしまった。

「だって仕方ないでしょ!」

「は?」

「離婚させたかったんだから!」

静寂。

電話の向こうで拓也が息を呑む。

美咲も気付いた。

言ってしまった。

絶対に言ってはいけないことを。

「今……なんて?」

低い声だった。

美咲は慌てる。

「ち、違うの」

「妊娠は嘘だったのか」

「聞いて」

「嘘だったのか!」

怒鳴り声が響いた。

美咲は耳を押さえる。

拓也の怒りは本物だった。

今までで一番。

裏切られたのだ。

利用されていたのだ。

初めて理解した。

「拓也」

「ふざけるな!」

電話は切れた。

部屋に静寂が落ちる。

雨音だけが聞こえる。

美咲はソファへ崩れ落ちた。

そして初めて恐怖を感じた。

財布が消えた。

本当に。

完全に。

数日後。

拓也の会社。

会議室には重苦しい空気が流れていた。

向かいに座るのは総務部長。

人事課長。

そしてコンプライアンス担当。

拓也の背中を冷たい汗が流れる。

机の上には資料が置かれていた。

ホテル写真。

SNSの投稿。

社内への匿名通報。

全部揃っている。

部長が言った。

「説明してください」

拓也は唇を噛む。

何も言えない。

言い訳がない。

写真は本物。

録音も本物。

不倫は事実。

「会社の信用に関わる問題です」

課長の声も冷たい。

以前なら笑って話してくれた人たちだった。

今は違う。

誰も味方ではない。

拓也は頭を下げる。

「申し訳ありません」

その姿を見ながら部長は言った。

「処分については後日通知します」

終わった。

そう思った。

全て。

会社も。

家庭も。

恋人も。

何もかも。

その夜。

拓也は美咲のマンションへ向かった。

怒りをぶつけたかった。

説明を求めたかった。

だがドアを開けた瞬間。

美咲も叫んだ。

「帰って!」

「話を聞け!」

「来ないで!」

「お前が嘘をついたんだろ!」

「私だけが悪いの!?」

「そうだろ!」

「あなただって楽しんでたじゃない!」

怒鳴り合い。

罵り合い。

物が落ちる音。

泣き声。

怒声。

かつて愛を囁いた部屋だった。

今は戦場だった。

美咲はブランドバッグを投げる。

拓也は机を叩く。

互いに傷付け合う。

まるで溺れる者同士が首を絞め合うように。

その頃。

紗季は自宅で夕食を食べていた。

鯖の味噌煮。

ほうれん草の胡麻和え。

炊きたてのご飯。

なめこの味噌汁。

湯気が優しく立ち上る。

窓の外には雨。

静かな夜だった。

スマホが震える。

三上からの連絡。

『対象者同士の関係が崩壊したようです』

短い文章。

それだけ。

紗季は画面を閉じる。

そして温かい味噌汁を一口飲んだ。

優しい味だった。

怒りはなかった。

喜びもない。

ただ思う。

なるべくしてなっただけ。

人を踏み台にして立つ幸せは長く続かない。

それだけのことだ。

雨は静かに降り続いている。

どこかで誰かが泣いている。

どこかで誰かが怒鳴っている。

けれど紗季の部屋だけは穏やかだった。

そして崩壊はもう止まらない。

共に夢を見た二人は。

共に奈落へ落ちていく。

互いの手を掴むこともできず。

ただ罵り合いながら。

暗い底へ沈んでいくのだった。