作品タイトル不明
第10話 本当のいってらっしゃい
第10話 本当のいってらっしゃい
四月の朝だった。
窓の外では桜が満開だった。
薄桃色の花びらが風に乗って舞い上がり、青空へ溶けていく。
柔らかな日差しがリビングに差し込み、白いレースのカーテンを優しく揺らしていた。
紗季はキッチンに立っている。
淡いクリーム色のカーディガン。
白いブラウス。
髪は肩の辺りで軽くまとめていた。
穏やかな休日の朝だった。
オーブンから香ばしい香りが漂う。
焼きたてのクロワッサンだ。
こんがりと焼けた表面が黄金色に輝いている。
サラダボウルにはレタス、ミニトマト、アボカド。
ヨーグルトには蜂蜜を少しかけた。
コーヒーメーカーからは深い香りが立ち上る。
新しいマンション。
広すぎない。
けれど明るい。
静かで住み心地がいい。
何より。
ここには誰の嘘もない。
誰の裏切りもない。
紗季は窓辺のテーブルへ朝食を並べた。
クロワッサンを一口かじる。
サクッという軽い音。
バターの香りが口いっぱいに広がる。
美味しい。
本当に美味しい。
離婚成立から三か月。
慰謝料の支払いも終わった。
財産分与も完了。
全てが終わった。
長かった。
本当に長かった。
二年間。
証拠を集め。
記録を残し。
笑顔を作り。
耐え続けた。
その全てがようやく終わったのだ。
コーヒーカップを持ち上げた時だった。
スマホが震える。
テーブルの上で小さく鳴る。
紗季は画面を見る。
その瞬間。
少しだけ目を細めた。
表示された名前。
相沢拓也。
久しぶりだった。
離婚成立後、一度も連絡はなかった。
いや。
何度かあった。
けれど全て無視していた。
今日も同じだと思った。
だが。
着信は鳴り続ける。
一回。
二回。
三回。
しつこいほどに。
紗季は小さく息を吐いた。
そして通話ボタンを押した。
耳元に拓也の声が届く。
かすれた声だった。
疲れ切った声。
以前とは別人のような声。
「紗季……」
紗季は黙っていた。
数秒後。
拓也が言う。
「やり直したい」
その一言だった。
窓の外で鳥が鳴く。
春風がカーテンを揺らす。
遠くで子供たちの笑い声も聞こえた。
平和な朝だった。
拓也だけが違う世界にいる。
「ごめん」
声が震えていた。
「全部俺が悪かった」
紗季は黙って聞く。
怒りは湧かない。
悲しみもない。
ただ遠い昔の話を聞いているような感覚だった。
「美咲とは終わった」
「会社でも居場所がなくなった」
「親父も母さんも冷たい」
「毎日後悔してる」
拓也は泣いていた。
鼻をすする音が聞こえる。
「紗季」
「頼む」
「もう一度だけ」
「やり直せないか」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
拓也は答えを待つ。
昔なら。
あの日の紗季なら。
泣いて喜んだかもしれない。
許したかもしれない。
けれど。
もう違う。
紗季は窓の外を見る。
青空。
桜。
新しい街。
新しい人生。
全部。
自分の力で手に入れた。
そこに拓也の居場所はない。
「拓也」
優しい声だった。
拓也は息を呑む。
「うん」
「覚えてる?」
「何を?」
「二年前の結婚記念日」
電話の向こうが静かになる。
覚えている。
忘れるはずがない。
「すぐ戻る」
そう言った日。
美咲の元へ走った日。
全てが始まった日。
紗季は静かに笑った。
あの日と同じように。
ひまわりのような笑顔で。
「私」
「あの日ね」
「ちゃんと見送ったの」
拓也は言葉を失う。
「いってらっしゃいって」
紗季は続けた。
「あなたが選んだ道だったから」
春風が吹く。
桜の花びらが舞う。
「そして今も同じ」
「紗季……」
「いってらっしゃい」
優しい声だった。
とても。
とても優しい。
だからこそ残酷だった。
「地獄で幸せになってね」
通話終了。
画面が暗くなる。
部屋に静寂が戻った。
紗季は少しだけ目を閉じる。
不思議だった。
何も感じない。
恨みも。
怒りも。
復讐の快感も。
ただ終わったのだ。
本当に。
完全に。
一つの人生が。
そして新しい人生が始まる。
スマホを開く。
着信拒否。
ブロック。
操作は数秒で終わった。
簡単だった。
二年間の苦しみに比べれば。
あまりにも簡単だった。
紗季はコーヒーを飲む。
少し冷めていた。
それでも美味しい。
窓を開ける。
春の風が部屋へ流れ込む。
花の香り。
土の匂い。
新しい季節の匂い。
空はどこまでも青かった。
紗季は微笑む。
本当の笑顔だった。
誰かに見せるためではない。
我慢するためでもない。
自分自身のための笑顔。
その時、スマホが鳴った。
今度は玲子からだった。
「もしもし?」
『紗季さん?』
「はい」
『今日、お花見行かない?』
紗季は思わず笑った。
『お弁当作ったのよ』
『お父さんも待ってるから』
紗季の胸が温かくなる。
失ったものもある。
けれど残ったものもある。
大切なものは。
ちゃんと残っていた。
「行きます」
『よかった』
電話が終わる。
紗季は立ち上がった。
お気に入りのベージュのコートを手に取る。
玄関へ向かう。
外には春が待っている。
青空の向こうには未来が広がっている。
もう振り返らない。
もう待たない。
もう泣かない。
紗季は扉を開けた。
桜の花びらが風に舞う。
そして前を向いて歩き出す。
本当の人生を始めるために。