軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

エピローグ ひまわりが向く場所

エピローグ ひまわりが向く場所

離婚から一年が過ぎていた。

六月。

空はどこまでも青く、高く広がっている。

紗季は休日の朝、ベランダの鉢植えに水をやっていた。

ひまわりだった。

まだ背は高くない。

それでも太陽の方を向いて真っすぐ伸びている。

ジョウロから流れ落ちる水が土を濡らし、夏の匂いがふわりと立ち上った。

「元気ね」

紗季は微笑む。

白いブラウスに淡い水色のロングスカート。

髪は肩の辺りで軽くまとめていた。

新しいマンションにもすっかり慣れた。

以前より少し狭い。

けれど窓が大きくて日当たりがいい。

何より静かだった。

無理に笑う必要もない。

誰かの帰りを待つ必要もない。

そのことが、こんなにも心を軽くするとは思わなかった。

部屋へ戻る。

キッチンには焼きたてのパンの香りが漂っていた。

朝食はクロワッサン。

スクランブルエッグ。

ベーコン。

サラダ。

オレンジ。

コーヒー。

窓際のテーブルに並べる。

一人分だ。

けれど寂しくない。

以前は一人で食べる食事が嫌だった。

今は違う。

穏やかな時間だった。

その時、インターホンが鳴った。

「はーい」

モニターを見る。

玲子と正一だった。

思わず笑う。

「お義母さんたち」

玄関を開ける。

玲子は大きな保冷バッグを抱えていた。

白い花柄のブラウスにベージュのパンツ。

相変わらず元気そうだ。

「おはよう」

「おはようございます」

「お弁当作りすぎちゃったの」

正一が後ろで苦笑している。

「作りすぎじゃなくて最初から持ってくるつもりだっただろ」

「うるさいですよ」

二人のやり取りに紗季は笑った。

リビングへ通す。

保冷バッグから次々と料理が出てくる。

煮物。

卵焼き。

鶏の唐揚げ。

きんぴらごぼう。

おにぎり。

「すごい」

「昨日から張り切っちゃって」

玲子が嬉しそうに言う。

三人で昼食を囲むことになった。

賑やかな時間だった。

笑い声が絶えない。

一年前では考えられなかった光景だ。

食後。

玲子が急に真面目な顔になる。

「紗季さん」

「はい」

「今でも時々思うの」

「何をですか?」

玲子は窓の外を見た。

ひまわりが風に揺れている。

「あの子がどうしてあんなことをしたのか」

紗季は黙った。

正一も俯く。

親としての痛みなのだろう。

いくつになっても。

子供が間違えば苦しい。

玲子は続ける。

「でもね」

「はい」

「もしあのことがなかったら」

玲子は笑った。

少し寂しそうに。

そして優しく。

「今の紗季さんはいなかった気もするの」

紗季は驚いた。

玲子は紗季の手を握る。

「前よりずっといい顔してる」

その言葉に胸が温かくなった。

嘘ではない。

本当にそうだった。

昔の自分はいつも誰かの顔色を見ていた。

嫌われたくなくて。

捨てられたくなくて。

必死だった。

今は違う。

ようやく自分の人生を生きている。

夕方。

二人を見送る。

エレベーターの扉が閉まる。

静かな廊下。

紗季は窓の外を見る。

夕焼けが街を赤く染めていた。

その時。

ふと一階の駐車場に目が止まる。

見覚えのある後ろ姿だった。

拓也だった。

紗季は息を呑む。

けれど胸は驚くほど静かだった。

拓也は痩せていた。

以前よりずっと。

背中も丸い。

スーツもくたびれて見える。

何かを見上げている。

このマンションを。

紗季はしばらく見つめた。

拓也もこちらに気付いた。

目が合う。

ほんの数秒。

長い時間のようだった。

拓也は何か言いたそうだった。

けれど言わない。

言えない。

紗季も何も言わない。

もう終わったことだから。

やがて拓也は小さく頭を下げた。

そして背を向ける。

ゆっくり歩き出す。

夕日の中へ。

その姿を見ながら紗季は思った。

あの人もきっと生きていくのだろう。

後悔を抱えながら。

失ったものを知りながら。

それでも。

生きていくしかない。

それが人生だから。

スマホも鳴らない。

追いかけることもない。

恨みもない。

ただ終わったのだ。

本当に。

完全に。

紗季は窓を閉めた。

部屋へ戻る。

ひまわりが夕日に照らされている。

真っすぐだった。

太陽の方を向いて。

迷わずに。

紗季はその花に触れる。

柔らかな葉の感触。

そして小さく微笑んだ。

もう「いってらっしゃい」と誰かを見送るために生きる必要はない。

これからは違う。

自分の行きたい場所へ。

自分の足で歩いていく。

夕焼けの光が部屋を包む。

窓の外には夏の始まりの空。

その向こうには、まだ見ぬ未来がどこまでも広がっていた。

そして紗季は前を向く。

ひまわりのように。

真っすぐに。