軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 義母の鉄槌

第8話 義母の鉄槌

一月の空気は冷たかった。

吐く息が白い。

街路樹は葉を落とし、冬の風が歩道を吹き抜けていく。

その日、話し合いの場として選ばれたのは三上法律事務所の会議室だった。

白い壁。

長いテーブル。

整然と並べられた椅子。

窓の外には曇り空が広がっている。

午後一時。

最初に到着したのは紗季だった。

淡いグレーのニットに紺色のロングスカート。

首元には白いマフラー。

静かな表情で席に座る。

三上弁護士が資料を確認していた。

「今日は長くなるかもしれません」

「大丈夫です」

紗季は穏やかに答えた。

心は不思議なほど落ち着いていた。

もう覚悟は終わっている。

泣く時期も。

怒る時期も。

とうに過ぎていた。

しばらくしてドアが開く。

拓也だった。

顔色が悪い。

目の下には濃い隈。

以前のような余裕はどこにもない。

続いて美咲が入ってくる。

ベージュのコート。

ブランドバッグ。

だが顔には焦りが見えた。

慰謝料請求書が届いてから眠れていないのだろう。

席に着く。

重苦しい沈黙。

時計の秒針だけが響く。

三上が口を開いた。

「本日は今後の協議について――」

その時だった。

会議室のドアが再び開いた。

全員が振り向く。

入ってきたのは一組の夫婦だった。

拓也の父と母。

義父の正一。

義母の玲子。

拓也の顔が明るくなる。

「母さん!」

助かった。

そう思った。

味方が来た。

そう思った。

だから立ち上がった。

「来てくれたんだな」

玲子は何も言わない。

ゆっくり歩く。

そして。

パァン!

乾いた音が響いた。

拓也の頬が横へ弾かれる。

会議室が静まり返った。

拓也は頬を押さえた。

何が起きたのか理解できない。

玲子の手が震えている。

怒りで。

悲しみで。

震えていた。

「恥知らず」

低い声だった。

拓也は目を見開く。

「か、母さん……」

「黙りなさい」

玲子の声は鋭かった。

拓也が子供の頃から恐れていた声だ。

正一も険しい顔をしている。

「お前」

「何をしたか分かっているのか」

拓也は言葉を失った。

玲子は机の上に積まれた資料を見る。

ホテル写真。

録音記録。

LINEの履歴。

全て読んだ。

全部知った。

その上でここへ来た。

玲子は紗季へ向き直る。

「紗季さん」

「はい」

「本当にごめんなさい」

深々と頭を下げた。

紗季は驚いた。

「お義母さん」

「私たちの育て方が悪かった」

声が震えている。

涙も浮かんでいた。

「あなたにこんな思いをさせて」

「本当に申し訳ない」

紗季は胸が少しだけ痛んだ。

玲子は悪くない。

ずっと優しくしてくれた人だ。

結婚した日から。

本当の娘のように。

だから紗季は首を振る。

「お義母さんは悪くありません」

玲子は涙を拭いた。

そして今度は美咲を見る。

その視線は氷のように冷たかった。

美咲が身を縮める。

「れ、玲子さん……」

玲子は遮った。

「呼ばないで」

美咲の顔が引きつる。

「あなたには失望したわ」

「違うんです」

「何が違うの?」

玲子は一歩前へ出た。

「人の家庭を壊して」

「お金を引き出して」

「嘘の妊娠までした」

美咲の顔から血の気が引く。

録音まで知られている。

その事実に気付いたのだ。

玲子は静かに言った。

「うちの嫁は紗季さんだけです」

その一言は鋭かった。

まるで刃のように。

美咲は俯いた。

何も言えない。

その横で拓也が慌てる。

「母さん!」

「美咲だけが悪いんじゃ――」

「黙れ!」

今度は正一が怒鳴った。

会議室が震えるほどの声だった。

拓也は凍り付く。

「お前は五歳か!」

「全部人のせいか!」

「違う……」

「違わん!」

正一は机を叩いた。

「家庭を捨てたのは誰だ!」

「嘘に騙されたのは誰だ!」

「金を使ったのは誰だ!」

拓也は何も言えなくなる。

全部自分だ。

全部。

自分が選んだ。

その現実だけが残る。

話し合いは続いた。

慰謝料。

財産分与。

婚姻費用。

支払い計画。

現実的な数字が並ぶ。

その度に拓也の顔色が悪くなる。

美咲も青ざめていた。

二人とも理解し始めている。

逃げられない。

本当に。

逃げられない。

夕方近く。

話し合いが終わった。

会議室を出る前。

玲子は紗季の手を握った。

温かい手だった。

「紗季さん」

「はい」

「離婚しても」

「あなたは私の娘よ」

紗季の胸が少し熱くなる。

思わず目を伏せた。

「ありがとうございます」

玲子は微笑んだ。

そして拓也を見る。

その目には失望しかなかった。

「お前は一人で責任を取れ」

「母さん……」

「助けてほしいなら」

玲子は言った。

「最初から裏切るな」

その言葉は重かった。

拓也は俯く。

誰も助けてくれない。

美咲も黙っている。

両親も敵。

妻も敵。

いや。

敵ではない。

自分が全員を裏切ったのだ。

会議室の窓の外では雪が舞い始めていた。

白い雪。

静かな雪。

その雪を見ながら紗季は思う。

終わりが近い。

本当に。

あと少しで。

全てが終わる。

そして拓也は初めて知った。

失ったものの大きさを。

取り返せないほど大切なものを失ったことを。

雪は静かに降り続いていた。