軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話 二枚の請求書

第7話 二枚の請求書

十二月二十四日。

街はクリスマス一色だった。

駅前の広場には巨大なイルミネーション。

青や金の光が夜空にきらめいている。

恋人たちが腕を組みながら歩いていた。

笑い声。

音楽。

ケーキの甘い香り。

どこも幸せそうだった。

その日の夕方。

紗季は鏡の前に立っていた。

淡いワインレッドのワンピース。

胸元には小さなパールのネックレス。

髪は丁寧に整えられている。

八年前。

結婚記念日に拓也が贈ってくれたネックレスだった。

「これで最後ね」

小さく呟く。

そして微笑んだ。

ひまわりのような笑顔だった。

一年前の結婚記念日。

拓也は美咲の元へ走った。

あの日から全てが動き始めた。

そして今日。

終わる。

全てが。

午後六時。

インターホンが鳴った。

拓也だった。

久しぶりに家へ来た。

灰色のコート。

少し疲れた顔。

けれどどこか決意を固めた表情をしている。

「入って」

「ああ」

玄関へ入る。

懐かしい匂いがした。

紗季の作る料理の匂い。

柔軟剤の香り。

かつて自分の家だった場所。

リビングへ案内される。

テーブルには料理が並んでいた。

ローストチキン。

ビーフシチュー。

サラダ。

ガーリックトースト。

そして小さなクリスマスケーキ。

湯気が立ち上る。

温かな食卓だった。

拓也は少し驚く。

「作ったのか」

「うん」

「結婚記念日だから」

胸が少し痛んだ。

それでも拓也は席に着く。

食事は静かに進んだ。

ビーフシチューは柔らかく煮込まれている。

赤ワインの香りが豊かだった。

ローストチキンも美味しい。

何度も食べた味。

紗季の味。

もうすぐ失う味。

食後。

コーヒーが運ばれてくる。

部屋の中は静かだった。

時計の音だけが聞こえる。

そして拓也が口を開いた。

「紗季」

「なに?」

「話がある」

来た。

紗季はカップを置いた。

「うん」

拓也は息を吸う。

緊張している。

それでも言った。

「俺たち別れよう」

静寂。

数秒。

いや。

もっと長く感じた。

拓也は続ける。

「もう無理なんだ」

「俺は」

「美咲を愛してる」

ついに言った。

全部。

正直に。

言ってしまった。

紗季は黙って聞いていた。

怒らない。

泣かない。

叫ばない。

ただ微笑んでいる。

その笑顔が妙に怖かった。

「そう」

紗季は静かに頷く。

「奇遇ね」

「え?」

「私も話があったの」

拓也は首を傾げた。

紗季は立ち上がる。

サイドボードから二つの封筒を取り出した。

白い封筒。

厚みがある。

そして拓也の前へ置いた。

「なにこれ」

「開けて」

拓也は封筒を開く。

中から書類が出てきた。

何枚も。

何枚も。

そして最初の一行を読んだ瞬間。

顔色が変わった。

『不貞行為に基づく慰謝料請求書』

「は……?」

手が震えた。

読み進める。

慰謝料三百万円。

婚姻費用未払い請求。

遅延損害金。

財産分与資料。

別居期間の生活費計算。

ホテル写真一覧。

証拠一覧。

録音データ目録。

「なんだよこれ」

声が裏返る。

「どういうことだよ」

紗季は微笑んだ。

「書いてある通りよ」

「ふざけるな!」

拓也が立ち上がった。

「俺が慰謝料払うのか!?」

「不倫したから」

「そんな……」

「証拠もあるし」

紗季は二冊のファイルを机に置く。

分厚い。

ずっしり重い。

ホテル写真。

LINE。

送金履歴。

録音。

全部。

拓也の顔から血の気が引いていく。

ページをめくる。

めくるたびに自分の罪が出てくる。

逃げ場がない。

言い逃れもできない。

「なんで……」

「どうしてこんな……」

「二年間集めたの」

紗季は穏やかに言った。

「二年間?」

「そう」

拓也の喉が鳴る。

二年。

二年間。

自分は監視されていたのか。

違う。

証拠を残していたのだ。

自分自身で。

毎日。

愚かにも。

その時だった。

紗季がもう一つの封筒を差し出した。

「それと」

「これ」

「なに?」

「美咲さんの分」

拓也は固まった。

封筒の表には名前が書かれている。

高橋美咲様。

中身を見る。

慰謝料請求書。

三百万円。

拓也の頭が真っ白になった。

「嘘だろ……」

「嘘じゃない」

「美咲にも?」

「当然でしょう?」

紗季は微笑む。

優しい笑顔。

だがその言葉は冷たかった。

「不倫は一人じゃできないもの」

拓也は椅子に崩れ落ちた。

全身から力が抜ける。

計算する。

三百万円。

三百万円。

婚姻費用。

遅延金。

弁護士費用。

頭の中で数字が暴れ回る。

払えない。

そんな金はない。

美咲に使った。

ブランドバッグ。

旅行。

レストラン。

プレゼント。

全部使った。

残っていない。

何も。

その時。

紗季のスマホが鳴った。

メッセージだった。

三上弁護士。

『本日付で高橋美咲氏にも発送完了』

紗季は画面を見て微笑む。

「今頃届いてるわね」

拓也は顔を上げた。

目の前の妻を見る。

穏やかな笑顔。

優しい声。

柔らかな表情。

なのに。

今まで見た誰よりも恐ろしかった。

紗季は最後にコーヒーを一口飲む。

香ばしい香りが広がる。

そして静かに言った。

「結婚記念日おめでとう」

拓也は何も言えなかった。

窓の外ではイルミネーションが輝いている。

街は幸せそうだった。

けれど。

拓也の世界だけは。

今まさに音を立てて崩れ始めていた。