作品タイトル不明
第6話 最後の準備
第6話 最後の準備
十一月の空は高かった。
澄み切った青空の下、街路樹の銀杏が鮮やかな黄金色に染まっている。
冷たい風が吹くたびに葉が舞い落ちた。
紗季は濃紺のワンピースにベージュのコートを羽織り、駅前のオフィス街を歩いていた。
足取りは静かだった。
急ぐ必要はない。
慌てる理由もない。
今日という日が来ることは、ずっと前から分かっていた。
高層ビルの八階。
三上法律事務所。
受付を済ませると応接室へ案内される。
温かな照明。
落ち着いた木目のテーブル。
コーヒーの香ばしい香り。
窓の外には晩秋の街並みが広がっていた。
三上はすでに待っていた。
机の上には大量のファイル。
分厚い紙の束。
黒いバインダー。
ノートパソコン。
そして録音データの一覧表。
「お疲れ様です」
「こんにちは」
紗季は微笑みながら席についた。
三上は資料を一つずつ並べていく。
「まずホテルの出入り写真」
写真が広げられる。
寄り添う二人。
腕を組む二人。
同じ部屋へ入る二人。
どれも鮮明だった。
「こちらが録音」
「こちらがLINEのやり取り」
「こちらが送金履歴」
「こちらが婚姻費用の未払い記録」
机の上は証拠で埋め尽くされた。
まるで長い物語の結末が並べられているようだった。
紗季は静かに眺める。
半年以上かけて集めた証拠。
涙の代わりに集めた証拠。
怒りの代わりに積み上げた証拠。
そこには感情ではなく事実だけが並んでいた。
三上がファイルを閉じる。
「勝ちましたね」
穏やかな声だった。
弁護士としての確信。
誰が見ても明らかな状況だった。
不貞行為。
婚姻費用未払い。
悪質な別居。
全て揃っている。
紗季はしばらく黙っていた。
窓の外を見つめる。
青空の向こうを鳥が飛んでいった。
そして小さく微笑む。
「まだです」
三上が首を傾げる。
「まだですか?」
「はい」
紗季は紅茶のカップを持ち上げた。
琥珀色の液体から湯気が立つ。
アールグレイの香り。
落ち着く香りだった。
「相手が自分で崖から落ちるまで待ちます」
三上は思わず笑った。
「なるほど」
「焦る必要はありませんから」
紗季は頷く。
今動いても勝てる。
けれどもっと大きな結果が待っている。
拓也はまだ夢を見ている。
美咲も同じだ。
二人とも、自分たちが幸せになれると信じている。
だからこそ。
もう少しだけ待つ。
その日の夕方。
拓也は美咲とショッピングモールへ来ていた。
クリスマスの飾り付けが始まっている。
大きなツリー。
流れるクリスマスソング。
華やかな照明。
人々の笑い声。
美咲はブランドショップの前で立ち止まった。
「これ可愛い」
ショーウィンドウの中には高級バッグ。
拓也は値札を見る。
十二万円。
思わず顔が引きつる。
「高くない?」
「えー」
美咲は唇を尖らせる。
「私の誕生日だよ?」
「そうだけど」
「嫌なの?」
甘えるような声。
拓也は困ったように笑う。
「分かったよ」
クレジットカードを差し出す。
その瞬間。
財布の中身が減る音が聞こえるようだった。
婚姻費用。
家賃。
生活費。
カードの請求。
最近は金が足りない。
だが美咲を失いたくない。
だから無理をする。
自分でも気付かないまま。
どんどん崖へ近付いていた。
夜。
二人は高級レストランへ入った。
窓際の席。
夜景が綺麗に見える。
ローストビーフ。
オマール海老。
赤ワイン。
美咲は機嫌が良かった。
「ねえ」
「ん?」
「離婚の話は進んでる?」
拓也は少し顔を曇らせた。
「まだだな」
「早くしてよ」
「分かってる」
「私、待ってるんだから」
拓也は頷く。
その顔を見ながら美咲は笑った。
心の中では別のことを考えていた。
離婚が成立したらどうしよう。
結婚してもいい。
しなくてもいい。
その時考えればいい。
大事なのは今。
自分にお金を使ってくれること。
それだけだった。
一方その頃。
紗季は自宅で夕食を作っていた。
鶏肉と根菜の煮物。
ほうれん草のおひたし。
炊き込みご飯。
大根の味噌汁。
部屋には優しい出汁の香りが広がっている。
一人の食卓。
けれど以前より寂しくなかった。
むしろ穏やかだった。
テレビから流れるニュース。
湯気の立つ味噌汁。
温かなご飯。
静かな時間。
紗季は箸を置いた。
そしてスマホを見る。
興信所からメッセージが届いていた。
『本日も対象者二名の接触を確認』
添付写真。
高級レストラン。
笑顔の二人。
紗季は画面を閉じた。
心は不思議なほど穏やかだった。
怒りはもう終わった。
悲しみも終わった。
残っているのは準備だけ。
静かに。
確実に。
全てが整っていく。
食後。
紗季はノートパソコンを開く。
『離婚準備』
フォルダの中には大量の資料。
証拠件数。
二百三十四件。
保存。
バックアップ。
印刷。
全て完了。
最後の資料を閉じる。
カチッ。
小さな音が響いた。
その音を聞きながら紗季は窓を開ける。
夜風が頬を撫でた。
冷たい。
冬が近い。
そして終わりも近い。
遠くの街灯が静かに輝いていた。
「もう少し」
紗季は呟く。
崖の縁まで。
あと少し。
二人はまだ気付いていない。
足元の地面が、すでに崩れ始めていることに。