作品タイトル不明
第5話 嘘の妊娠
第5話 嘘の妊娠
十月の雨は冷たかった。
窓ガラスを細かな雨粒が流れ落ちていく。
紗季はリビングのソファに座り、温かなミルクティーを飲んでいた。
膝には柔らかなブランケット。
テレビでは天気予報が流れている。
別居して一か月。
家の中は驚くほど静かだった。
最初は寂しかった。
八年間も一緒に暮らした相手だ。
どれほど傷ついていても、いなくなれば空白は残る。
だがその空白にも少しずつ慣れてきていた。
その時、スマホが鳴った。
興信所からの連絡だった。
『本日の調査結果を送付いたします』
紗季はメールを開いた。
添付された写真が数枚。
高級レストラン。
夜景の見える窓際席。
向かい合って座る拓也と美咲。
二人とも笑顔だった。
次の写真。
美咲が泣いている。
拓也が肩を抱いている。
さらに次。
二人はタクシーに乗り込んでいた。
報告書には詳細が記載されている。
その日の会話内容。
調査員が録音に成功したものだった。
紗季は静かにイヤホンを耳へ差し込んだ。
ノイズ混じりの音声が流れる。
レストランのざわめき。
食器の触れ合う音。
そして美咲の声。
「ねえ……」
少し震えた声だった。
「なに?」
拓也が優しく答える。
「私」
間があった。
「妊娠したかもしれない」
紗季は無表情のまま聞いていた。
音声の向こうでは拓也が息を呑んでいる。
「えっ?」
「本当に?」
「まだ分からないけど……」
美咲は泣きそうな声を出した。
「どうしよう」
数秒の沈黙。
そして。
「大丈夫だ」
拓也が言った。
「俺が責任取る」
紗季はイヤホンを外した。
雨音だけが聞こえる。
窓の外は灰色だった。
「そう」
小さく呟く。
ついにここまで来た。
予想していた。
けれど実際に耳にすると妙な感覚だった。
悲しみというより。
呆れに近い。
拓也は完全に信じている。
美咲の言葉を。
その夜。
拓也は美咲のマンションにいた。
ワンルームの部屋。
テーブルの上にはコンビニで買ったパスタとサラダ。
二人で食べる夕食。
美咲はわざと元気がないふりをしていた。
薄いピンク色のニット。
肩まで伸びた髪。
不安そうな顔。
「本当に大丈夫かな」
「病院行ったほうがいいよな」
「うん……」
拓也は手を握った。
「もし本当だったら結婚しよう」
美咲の目が輝く。
ほんの一瞬だけ。
だがすぐに涙ぐんだ顔へ戻る。
「でも奥さんは?」
拓也は顔をしかめた。
「離婚する」
その言葉を聞いて。
美咲は内心で笑った。
やっとだ。
長かった。
何年も引っ張った。
何度も相談。
何度も涙。
何度も電話。
ようやくここまで来た。
財布を手に入れるまであと少し。
そんなことを考えていた。
数日後。
拓也は浮かれていた。
会社でも機嫌が良い。
同僚に言われる。
「なんかいいことあった?」
「まあな」
思わず笑う。
頭の中では未来予想図が出来上がっていた。
美咲と暮らす生活。
子供。
新しい家庭。
紗季との離婚。
全てがうまくいく。
そう信じていた。
一方。
紗季は弁護士事務所を訪れていた。
応接室にはコーヒーの香り。
三上弁護士が資料を見ている。
「録音ですね」
「はい」
「重要な証拠になります」
紗季は頷いた。
「妊娠が事実なら?」
「それでも不倫の事実は変わりません」
三上は冷静だった。
「ただ」
「ただ?」
「この女性」
三上は資料をめくった。
「かなり怪しいですね」
「私もそう思います」
「なぜです?」
紗季は小さく笑った。
「この人は昔から嘘をつく時、少し声が高くなるんです」
三上は驚いた顔をした。
「なるほど」
八年。
いや。
美咲とは十年以上の付き合いだった。
友人として。
夫の幼馴染として。
だから分かる。
あの声は演技だ。
さらに一週間後。
新しい報告書が届いた。
紗季は封筒を開く。
そして目を通した。
数分後。
思わず笑った。
本当に笑ってしまった。
『対象女性、友人との会話を確認』
録音データあり。
再生する。
居酒屋の雑音。
女性同士の笑い声。
そして美咲の声。
「妊娠?」
大笑いしていた。
「してるわけないじゃん」
友人も笑う。
「えっ、嘘だったの?」
「当然でしょ」
「でも拓也、信じてるんだ?」
「信じてる信じてる」
美咲は笑い転げていた。
「男って単純なんだよ」
「離婚させるにはこれが一番早いじゃん」
友人が吹き出す。
「最低」
「でしょ?」
録音はそこで終わった。
部屋が静かになる。
紗季は椅子にもたれた。
窓の外では夕焼けが街を赤く染めている。
長い影が伸びていた。
胸の中にあるのは怒りではない。
確信だった。
終わりが近い。
拓也は何も知らない。
自分が騙されていることも。
利用されていることも。
全部。
知らない。
その夜。
紗季は一人で夕食を作った。
秋鮭のムニエル。
かぼちゃの煮物。
きのこの炊き込みご飯。
湯気の立つコーンスープ。
食卓に並べる。
窓の外には月が見えた。
箸を持ちながら、紗季は録音データの入ったフォルダを見つめる。
『妊娠発言』
『妊娠は嘘発言』
二つ並んでいる。
完璧だった。
誰が聞いても言い逃れできない。
保存。
バックアップ。
保存。
バックアップ。
何重にも。
慎重に。
丁寧に。
そして最後にパソコンを閉じる。
カチッという音がした。
その音はまるで。
罠の最後の部品がはまる音のようだった。
紗季は温かなスープを飲む。
甘いコーンの香りが広がる。
窓の外では秋の風が木々を揺らしていた。
「もう少し」
そう呟く。
誰に聞かせるでもなく。
自分自身に。
拓也はまだ夢の中にいる。
美咲もまだ気付いていない。
けれど。
二人が見ている未来は。
もうすぐ音を立てて崩れ始めるのだった。