軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 婚姻費用請求という鎖

第4話 婚姻費用請求という鎖

九月になった。

夏の名残はまだ強いが、朝晩の風には少しだけ秋の匂いが混じり始めていた。

その日の夕食は肉じゃがだった。

じゃがいもはほくほくに煮えている。

甘辛い醤油の香りが部屋に広がり、湯気の向こうで拓也が箸を動かしていた。

他にも、ほうれん草の胡麻和え。

豆腐とわかめの味噌汁。

炊きたてのご飯。

いつも通りの食卓。

少なくとも見た目は。

「うまいなあ」

拓也が肉じゃがを口に運ぶ。

「紗季の料理は本当に飽きない」

「ありがとう」

紗季は微笑んだ。

白いカーディガンを羽織り、髪を後ろでまとめている。

穏やかな妻。

優しい妻。

誰が見てもそう見える。

拓也は少しだけ視線を泳がせた。

何か言いたいことがある時の癖だった。

紗季は知っている。

結婚して八年。

嫌というほど見てきた。

「どうかした?」

「いや……」

拓也は箸を置いた。

そして水を一口飲む。

グラスの中の氷が小さく鳴った。

「話があるんだ」

ついに来た。

紗季は心の中でそう思った。

だが表情は変えない。

「なあに?」

拓也はしばらく黙っていた。

そして決意したように言った。

「少し距離を置きたい」

肉じゃがの湯気がゆらりと揺れた。

「距離?」

「うん」

「最近、お互い疲れてるだろ」

「そうかしら」

「だから別居して冷静になりたい」

冷静になりたい。

ずいぶん便利な言葉だ。

本当は違う。

美咲と自由に会いたいだけだ。

興信所の報告書にはすでに書かれている。

二人で物件探しをしていることも。

週末ごとに内見へ行っていることも。

全部知っている。

それでも紗季は優しく聞いた。

「どのくらい?」

「数か月かな」

「そう」

「ごめんな」

拓也は申し訳なさそうな顔を作った。

だがその瞳の奥には安堵が見えた。

断られない。

揉めない。

そう確信している顔だ。

紗季は少し考えるふりをした。

そして静かに微笑む。

「分かったわ」

拓也は驚いた。

「え?」

「いいのか?」

「あなたがそうしたいなら」

拍子抜けした顔だった。

もっと泣かれると思ったのだろう。

怒鳴られると思ったのだろう。

だが紗季は違う。

「ありがとう」

拓也はほっとしたように笑った。

その笑顔を見ながら、紗季は心の中で時計の針が一つ進んだのを感じた。

翌週。

拓也は本当に出て行った。

ダンボールが数箱。

スーツ。

私物。

最低限の荷物だけ。

玄関先で靴を履く。

「じゃあ」

「うん」

「また連絡する」

「分かった」

拓也は最後まで罪悪感の薄い顔をしていた。

ドアが閉まる。

静寂が訪れる。

紗季はしばらく玄関を見つめていた。

それから小さく息を吐く。

ようやくだ。

ここから始まる。

その日の夜。

紗季は弁護士事務所を訪れた。

オフィス街の一角。

高層ビルの八階。

応接室にはコーヒーの香りが漂っていた。

向かいに座るのは三上誠。

四十五歳。

離婚案件を数多く扱ってきた弁護士だ。

「別居されましたか」

「はい」

「では進めましょう」

三上は書類を取り出した。

「婚姻費用請求です」

紗季は頷く。

「よろしくお願いします」

婚姻費用。

結婚生活を維持するためのお金。

夫婦である以上、別居しても生活費を負担する義務がある。

離婚が成立するまで消えない義務だ。

「ご主人はご存じなさそうですね」

三上が苦笑する。

「そうみたいです」

「不倫される方は意外と知らないんですよ」

「別居したら自由になれると思っている」

紗季は静かに紅茶を飲んだ。

窓の外には夜景が広がっている。

「自由じゃないんですね」

「ええ」

三上は微笑んだ。

「むしろ鎖はまだ繋がっています」

数日後。

拓也の勤務先近くのカフェ。

美咲は嬉しそうだった。

新しいネイル。

高そうなバッグ。

アイスラテを飲みながら笑っている。

「やっと二人になれたね」

「そうだな」

拓也も機嫌が良かった。

肩の荷が下りた気分だった。

妻と距離を置いた。

これで自由だ。

これからは美咲との時間を楽しめる。

そう思っていた。

そこへスマホが鳴る。

メールだった。

差出人。

法律事務所。

拓也は眉をひそめた。

「なんだこれ」

メールを開く。

添付ファイル。

通知書。

婚姻費用請求。

月額十二万円。

支払い開始日。

振込先。

法的根拠。

細かな数字。

拓也の顔色が変わった。

「え?」

美咲が首を傾げる。

「どうしたの?」

「いや……」

「なに?」

拓也は紙を見つめた。

何度も。

何度も。

意味が理解できない。

別居した。

なのに。

生活費を払う?

毎月?

十二万円?

「嘘だろ……」

思わず声が漏れた。

美咲が書類を覗き込む。

そして顔をしかめた。

「なにこれ」

「分かんない」

「なんでお金払うの?」

拓也は答えられなかった。

知らなかったからだ。

何も。

その夜。

一人で借りたマンションへ戻る。

ワンルーム。

狭い部屋。

コンビニ弁当の匂い。

散らかった床。

家とは違う。

紗季のいる家とは。

拓也は通知書をテーブルに置いた。

月額十二万円。

その数字が重くのしかかる。

家賃。

光熱費。

車のローン。

スマホ代。

そして美咲との交際費。

そこへ婚姻費用。

計算するほど苦しくなる。

その頃。

紗季は自宅で栗ご飯を炊いていた。

秋の香りが台所に広がる。

鮭の塩焼き。

きのこの味噌汁。

梨のデザート。

一人分の夕食。

静かな食卓。

窓から虫の声が聞こえる。

スマホが震えた。

弁護士からの連絡だった。

『通知書、受領確認済みです』

紗季は画面を見つめる。

そして微笑んだ。

怒りではない。

復讐でもない。

ただ当然の権利。

当然の責任。

夫婦である以上。

別居しただけでは逃げられない。

鎖はまだ繋がっている。

紗季は栗ご飯を一口食べた。

ほのかな甘みが口の中に広がる。

美味しい。

とても美味しい。

そして遠く離れた場所で。

初めて現実に気付いた男は、青ざめた顔で通知書を握りしめていた。