軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 泳がせる理由

第3話 泳がせる理由

七月の終わりだった。

朝から蒸し暑い。

窓の外では蝉がけたたましく鳴いている。

紗季はリビングのテーブルでアイスコーヒーを飲んでいた。

ガラスのコップには細かな水滴がついている。

冷房の効いた部屋は静かだった。

今日は拓也が休日出勤の日だった。

もちろん嘘だ。

もう紗季は知っている。

休日出勤という言葉が、美咲と会うための合言葉になっていることを。

午前十時。

インターホンが鳴った。

宅配便だった。

紗季はサインをして封筒を受け取る。

差出人は興信所。

分厚い封筒だった。

重みがある。

二か月分の調査報告書。

紗季はゆっくり封を切った。

紙の擦れる音が静かな部屋に響く。

一枚目。

ホテルの出入り写真。

拓也と美咲。

仲良く肩を並べて歩いている。

二枚目。

手をつないでいる写真。

三枚目。

駅前のベンチ。

美咲が拓也の肩にもたれている。

四枚目。

キス写真。

紗季は目を細めた。

写真の中の二人は幸せそうだった。

まるで恋人同士だ。

いや。

恋人なのだろう。

夫婦である自分よりも。

「そう」

紗季は静かにつぶやいた。

それだけだった。

怒鳴り声も。

涙も。

出なかった。

二年前なら泣いていた。

一年前なら問い詰めていた。

けれど今は違う。

感情は整理されている。

残っているのは事実だけだ。

紗季は一枚ずつスキャナーに取り込んだ。

日付順に保存する。

ファイル名も丁寧につける。

『ホテル出入り2028-07-12』

『接吻写真2028-07-12』

『手つなぎ写真2028-07-20』

証拠は整理されてこそ価値がある。

感情ではなく記録。

怒りではなく事実。

弁護士がそう言っていた。

昼近くになった。

紗季は台所へ向かう。

そうめんを茹でる。

氷水で締める。

大葉とみょうがを刻む。

トマトを切る。

涼しげな昼食だった。

一人で食べる食事にも慣れてしまった。

結婚して八年。

最近の休日はほとんど一人だった。

食べ終わった頃。

パソコンに新しいメールが届いた。

追加報告だった。

紗季は画面を開く。

そこに書かれていた内容を見て、初めて少しだけ眉が動いた。

高橋美咲。

交際相手。

一名ではない。

三名。

報告書には名前こそ伏せられていたが、年齢と職業が記載されていた。

会社員。

自営業。

既婚男性。

そして拓也。

全員から金銭的援助を受けている可能性が高いという。

ブランドバッグ。

ネックレス。

高級レストラン。

家賃補助。

現金の受け渡し。

記録が並んでいた。

紗季は椅子にもたれた。

そして小さく笑った。

「そういうことだったのね」

胸が痛むより先に納得が来た。

美咲は拓也を愛しているわけではない。

少なくとも最優先ではない。

金だ。

便利な財布。

都合の良い支援者。

拓也はその一人。

特別ですらなかった。

その事実は妙に滑稽だった。

その夜。

午後九時過ぎ。

拓也が帰宅した。

上機嫌だった。

コンビニ袋をぶら下げている。

「ただいまー」

「おかえり」

紗季は夕食の後片付けをしていた。

淡いピンク色の部屋着を着ている。

「今日は暑かったなあ」

「そうね」

「アイス買ってきた」

「ありがとう」

拓也は冷凍庫へアイスを入れる。

どこか浮かれている。

おそらく美咲と会ってきたのだろう。

ソファへ腰掛ける。

「そうだ」

「来月、会社の付き合いで出張があるんだ」

紗季は心の中で笑った。

出張。

また新しい嘘だ。

興信所の予定表にはすでに記録されている。

出張の日。

予約済みの温泉旅館。

宿泊者二名。

高橋美咲。

高橋美咲。

高橋美咲。

何度見ても名前は変わらない。

「そう」

紗季は穏やかに微笑んだ。

「お仕事大変ね」

拓也は安心したように頷いた。

「本当だよ」

「頑張るしかないな」

紗季は麦茶を差し出した。

氷がカランと音を立てる。

拓也は一気に飲み干した。

何も知らない顔。

完全に油断している顔。

紗季は思った。

今なら終わらせられる。

写真もある。

証拠もある。

慰謝料請求だってできる。

離婚も可能だ。

けれど。

まだ足りない。

もっと必要だった。

もっと深く。

もっと確実に。

逃げ道がなくなるまで。

美咲も。

拓也も。

自分たちが勝ったと思い込むところまで。

泳がせる。

十分に。

たっぷりと。

その方が後で大きく沈むからだ。

深夜。

拓也が寝静まった後。

紗季は再びパソコンを開いた。

新しいフォルダを作成する。

『高橋美咲』

その中へ資料を保存する。

ホテル写真。

金銭記録。

調査報告書。

交際相手一覧。

画面の右上には保存件数が表示された。

百二十七件。

数字は増え続けている。

紗季は静かに紅茶を飲んだ。

アールグレイの香りが鼻を抜ける。

窓の外では夜風が木々を揺らしていた。

遠くで救急車のサイレンが聞こえる。

穏やかな夜だった。

だが。

その静けさの下では。

着実に罠が完成しつつあった。

紗季は保存ボタンを押す。

カチッ。

小さな音が響く。

そして微笑んだ。

誰もが見れば優しい妻の笑顔。

けれどその心の奥では。

二人を沈めるための錨が、ゆっくりと海の底へ降ろされていた。