作品タイトル不明
第2話 優しい妻の仮面
第2話 優しい妻の仮面
玄関の鍵が回る音で、紗季は目を覚ました。
枕元の時計を見る。
午前五時四十分。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
鳥のさえずりが遠くで聞こえた。
帰ってきたのだ。
紗季は静かに起き上がった。
寝室のドアの向こうから、忍び足の気配がする。
まるで悪いことをした子供のようだ。
少し前なら、その音を聞いただけで胸が苦しくなった。
どこにいたの。
誰といたの。
どうして連絡してくれないの。
そんな言葉が喉まで込み上げてきた。
でも今は違う。
不思議なほど心が静かだった。
紗季は薄い水色のエプロンを身につけ、髪を後ろで一つにまとめた。
台所へ向かう。
冷蔵庫を開く。
昨夜のうちに用意しておいた鮭を取り出した。
魚焼きグリルに並べる。
ジュウッと脂が落ちる音。
香ばしい匂いが広がる。
鍋では豆腐とわかめの味噌汁が湯気を立てている。
だし巻き卵も丁寧に焼いた。
黄色くふっくらと膨らんだ卵から甘い香りが漂う。
炊飯器を開けると、炊きたてのご飯の湯気がふわりと立ち上った。
その頃。
リビングでは拓也がソファに座っていた。
ワイシャツは少し皺だらけ。
目の下には薄い隈。
しかしどこか安心した顔をしている。
家に帰ってきたからだ。
紗季が怒らないと分かっているからだ。
「おはよう」
紗季が声を掛けた。
拓也はびくっと肩を震わせた。
「あ……お、おはよう」
「朝ご飯できてるよ」
「え?」
「お腹空いてるでしょ?」
拓也は目を丸くした。
「怒って……ないのか?」
紗季は首を傾げる。
「どうして?」
「いや、その……」
「美咲さん、大丈夫だった?」
拓也は一瞬言葉に詰まった。
「う、うん」
「熱が高くて」
「そう」
「心配だったね」
拓也はほっとしたように笑う。
「そうなんだよ」
「一人暮らしだから放っておけなくてさ」
「優しいね」
紗季はにこりと微笑んだ。
まるで何も疑っていない妻の顔だった。
食卓に料理を並べる。
焼き鮭。
味噌汁。
だし巻き卵。
ほうれん草のお浸し。
漬物。
白い湯気の立つご飯。
拓也は席についた。
「うまそう」
「いただきます」
鮭を口に入れる。
皮はパリパリで身はふっくらしている。
思わず頬が緩む。
「やっぱり紗季の飯は最高だな」
「ありがとう」
「本当に助かる」
「そう?」
「こんな時間に帰っても怒らないし」
「飯もうまいし」
「最高の嫁だよ」
紗季は笑顔のまま味噌汁をすすった。
最高の嫁。
そう言いながら不倫を続ける。
その矛盾に拓也自身は気付いていない。
だから油断する。
だから沈んでいく。
食事を終えた拓也は満足そうに立ち上がった。
「少し寝るよ」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
寝室のドアが閉まる。
数分後には寝息が聞こえてきた。
紗季は静かに食器を洗った。
蛇口から流れる水の音だけが響く。
洗い終わると、タオルで手を拭く。
そしてノートパソコンを開いた。
画面に現れるフォルダ。
『離婚準備』
慣れた手つきで開く。
家計簿ソフトを起動した。
数字がずらりと並ぶ。
日付。
金額。
用途。
紗季は銀行口座の履歴を確認する。
二日前。
二万三千八百円。
レストラン。
一週間前。
一万九千六百円。
ホテル街近くのバー。
三週間前。
三万五千円。
女性向けブランドショップ。
その全てが見えていた。
拓也は自分が隠しているつもりだった。
だが家計管理は紗季が担当している。
だから分かる。
何に使ったのか。
誰のために使ったのか。
紗季は入力していく。
一円単位で。
丁寧に。
淡々と。
まるで経理担当者のように。
『六月十四日 レストラン代 二三八〇〇円』
『六月七日 バー利用 一九六〇〇円』
『五月二十八日 ブランドバッグ 三五〇〇〇円』
数字が積み上がっていく。
不倫の記録。
裏切りの記録。
夫婦の未来を壊した代金の記録。
画面右上には合計金額が表示されていた。
六十七万四千八百三十二円。
紗季はその数字を見つめた。
二年間で消えた金額。
まだ増えるだろう。
もっと。
もっと。
けれど構わない。
増えれば増えるほど証拠になる。
増えれば増えるほど請求額の根拠になる。
その時だった。
スマホが震えた。
拓也のスマホではない。
紗季自身のスマホ。
メッセージが届いている。
送り主は興信所だった。
『昨夜の調査報告書を送付いたします』
添付ファイル。
写真が数枚。
紗季は開いた。
ホテルの前。
並んで歩く男女。
寄り添う姿。
笑顔。
肩に回された手。
高橋美咲。
そして拓也。
言い逃れのできない写真だった。
紗季はしばらく眺める。
怒りは湧かなかった。
悲しみも。
代わりに静かな確信があった。
終わりは近い。
まだ焦らない。
まだ動かない。
獲物が十分に油断するまで。
十分に沈むまで。
紗季は写真を保存した。
新しいフォルダへ。
『証拠2028-06』
保存完了。
小さな音が鳴る。
その音を聞きながら、紗季は窓の外を見た。
朝日が昇っていた。
柔らかな光が街を照らしている。
まるで何もかも平和な朝のようだった。
寝室では拓也が安心しきって眠っている。
自分が愛されていると思い込み。
許されていると思い込み。
気付いていない。
妻の笑顔の裏側に。
静かに閉じていく檻の存在に。
紗季は紅茶を一口飲んだ。
優しく微笑む。
誰よりも優しい妻の顔で。
そして小さく呟いた。
「まだよ」
「まだ終わらない」
その声は穏やかだった。
けれどその瞳だけは、朝の空より冷たく澄んでいた。