軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 ひまわりのような笑顔で

第1話 ひまわりのような笑顔で

六月の夜だった。

窓の外では、雨上がりのアスファルトが街灯の光を反射していた。

駅前の小さなイタリアンレストラン。

店内には静かなジャズが流れ、オリーブオイルと焼きたてのパンの香ばしい香りが漂っている。

紗季は白いブラウスに淡いベージュのスカートを合わせていた。

結婚記念日のために新しく買った服だった。

胸元には小さなパールのネックレス。

派手ではないが、鏡の前で何度も確認した。

拓也が好きだと言ってくれた格好だから。

テーブルの中央には小さなキャンドル。

揺れる炎がワイングラスに映り込む。

「もう八年か」

拓也がグラスを持ち上げた。

「早いな」

紗季は微笑んだ。

「本当ね」

「結婚したのが昨日みたい」

二人は乾杯した。

軽くグラスが触れ合う音がした。

前菜のカルパッチョ。

色鮮やかなサラダ。

魚介のパスタ。

今日は少し贅沢をした。

結婚記念日だから。

紗季は楽しみにしていた。

ここ数年、夫婦でゆっくり食事をする機会は減っていた。

だから今日は嬉しかった。

本当に。

「来年は旅行でも行くか」

拓也が言った。

「温泉とか」

「いいわね」

「箱根?」

「それとも伊豆?」

二人で笑う。

幸せな夫婦に見えただろう。

少なくとも周囲には。

その時だった。

ブブッ。

テーブルの上のスマートフォンが震えた。

拓也の顔色が変わる。

紗季は気付いた。

相手を見る前から分かった。

美咲だ。

案の定だった。

画面にはその名前が表示されていた。

高橋美咲。

拓也の幼馴染。

「ごめん」

拓也は慌てて席を立った。

「ちょっと電話」

紗季は黙ってうなずく。

拓也は店の外へ出ていった。

ガラス越しに背中が見える。

深刻そうな顔。

心配そうな表情。

優しい声。

数分後。

戻ってきた拓也は上着を手に取った。

「紗季」

「うん?」

「美咲が体調崩したらしい」

紗季はフォークを置いた。

「そう」

「一人でいるみたいで」

「大変ね」

拓也は申し訳なさそうな顔を作った。

「すぐ戻るから」

その言葉を聞いた瞬間。

紗季の胸の奥で何かが完全に冷え切った。

すぐ戻る。

何度聞いただろう。

風邪を引いた。

落ち込んでいる。

相談がある。

怖い夢を見た。

眠れない。

毎回同じだった。

そして毎回戻らない。

深夜。

朝方。

あるいは翌日。

それでも拓也は毎回同じ言葉を繰り返した。

すぐ戻るから。

紗季は笑った。

まるでひまわりみたいに。

誰が見ても優しい妻の笑顔で。

「いってらっしゃい」

拓也は安心したように息を吐く。

「ごめんな」

「気にしないで」

「本当にすぐだから」

「うん」

拓也は急いで店を出ていった。

ドアベルが鳴る。

雨上がりの夜へ消えていく。

紗季は窓から見送った。

走っていく背中。

もう振り返らない背中。

それを見ながらワインを一口飲む。

赤ワインの苦味が舌に残った。

しばらくして店員が近付いてきた。

「お連れ様は?」

「急用だそうです」

「そうでしたか」

「大丈夫です」

紗季は笑った。

慣れている。

もう何度も経験した。

目の前には二人分の料理。

冷めていくパスタ。

食べられないままのメインディッシュ。

牛ほほ肉の赤ワイン煮。

柔らかく煮込まれた肉から湯気が立っている。

紗季は一人で食べた。

ゆっくり。

静かに。

最後のデザートまで。

予約していた記念日のケーキも。

一人で。

店を出る頃には夜風が少し冷たかった。

マンションへ帰る。

玄関を開ける。

当然ながら誰もいない。

静かな部屋だった。

時計の秒針だけが聞こえる。

紗季は着替えた。

柔らかな部屋着に袖を通す。

髪をまとめる。

そしてリビングの片隅に置かれたノートパソコンを開いた。

青白い光が顔を照らす。

デスクトップには一つのフォルダがあった。

『離婚準備』

紗季はそれをクリックする。

フォルダが開いた。

ホテルの領収書。

写真。

送金履歴。

スクリーンショット。

録音データ。

日付ごとに整理された証拠。

二年間。

一つ一つ積み上げてきた記録。

そこには夫婦の終わりが詰まっていた。

紗季は最新のファイルを追加する。

今日の日付を入力する。

『結婚記念日。午後七時四十二分。美咲から着信。食事途中で退席。帰宅予定不明。』

保存。

カチッ。

小さな音がした。

まるで何かのカウントダウンが始まる音のようだった。

紗季は画面を見つめる。

怒りはなかった。

涙もなかった。

二年前なら泣いていたかもしれない。

問い詰めたかもしれない。

だが今は違う。

静かな湖面のように心は凪いでいた。

そしてその静けさの底には。

冷たい決意だけが沈んでいた。

時計は午後十一時を指していた。

拓也から連絡はない。

紗季は小さく微笑む。

「いってらっしゃい」

誰もいない部屋で呟く。

その声は優しかった。

だがその言葉の本当の意味を。

まだ拓也は知らなかった。