作品タイトル不明
本編 ~『崩れ始めた評判』~
それから数日が経過した頃、ヴィオラは王宮の夜会に出席した。
婚約解消後、初めての大きな場だった。家の都合上、欠席するわけにはいかない。父母はノエルとセドリックを伴い、ヴィオラとは少し距離を置いて広間へ入ってくる。
ヴィオラは会場の端で、挨拶に来た伯爵夫人と会話を交わす。
「ヴィオラ、お加減はいかが?」
「お気遣いありがとうございます。変わりなく過ごしております」
「そう。それならよかったわ。いろいろあったでしょうから」
夫人の視線が、広間の中央へ向く。
そこではセドリックがノエルを連れて、侯爵家の令嬢に話しかけていた。ヴィオラは会話の内容までは聞こえなかったが、令嬢の表情がすぐに曇ったのは見えた。
セドリックは話し続けている。
身振りから察するに、自分が最近どれほど忙しいか、ロックウェル公爵家の跡取りとしてどれほど期待されているかを語っているのだろう。
以前なら、ヴィオラが『あの令嬢には、演奏会の話をするべきだ』と事前に伝えていたはずだ。
彼女は自分の話を聞いてくれる相手を好む。それだけで印象はよくなるのに、今のセドリックには誰の助言も受けていないため、一方的に自慢話を捲し立てている。
令嬢は扇で口元を隠し、わずかに身を引く。隣にいた兄らしき青年が、妹をかばうように一歩前へ出た。
だがセドリックは空気を読めず、さらに話を続けた。
ノエルは横で笑顔を保っているが、指先が扇の骨を何度もなぞっている。不満がある時の癖だった。
「セドリック様、今日は少し張り切っていらっしゃるのね」
伯爵夫人の言葉は柔らかい。
だが、その裏にある評価をヴィオラは感じ取る。
話が長く、相手を見ていない。さらに服装も悪い。
セドリックの上着は華やかすぎた。王宮夜会とはいえ、今夜の主役は遠征から戻った騎士団だ。公爵家の嫡男が必要以上に目立つ装いをすれば、祝われる側を押しのけているように見える。
以前のヴィオラなら、出発前に別の上着を勧めていた。
だが今夜、彼の胸元は目を引く飾りで輝いている。
周囲の視線が、少しずつ変わっていくのが分かった。
あれほど気配りのできる方だったのに。そんな囁きが、広間のあちこちで交わされている。
「では、私はこれで」
伯爵夫人が去っていく姿を見送ると、ヴィオラは周囲を見渡す。そこでノエルと目が合った。
彼女はセドリックを残して、ヴィオラの元に歩み寄ってくる。その様子からは、いつものような計算した可憐さが消えていた。
「お姉様。少しだけ、お話しできますでしょうか?」
断ることは簡単だが姉妹である以上、逃げ切ることはできない。ヴィオラは短く視線を伏せ、壁際へ移る。
柱の近くなら、声を荒げなければ会話は周囲に届きにくい。ノエルは何度か唇を開きかけたあと、ようやく声を絞り出した。
「セドリック様が……以前と違いますの。前は、もっと私のことを分かってくださいました。疲れないお店を見つけてくださったし、好きな花も、似合う宝石も、ちゃんと選んでくださいました。夜会でも、私が困らないように話題を変えてくださって……」
ヴィオラは黙って耳を傾ける。
ノエルの瞳は潤んでいたが、その涙は姉への罪悪感から来るものではない。思っていた現実と違ったことへの焦りが、目元に滲んでいた。
「でも、今は違います。先日は香りの強いお店に連れていかれて、食事もほとんどできませんでした……贈ってくださった耳飾りも、高価なのは分かりますけれど、私には少し重くて……」
ノエルはハンカチを胸元へ引き寄せた。
「今日だって、皆様が退屈しているのに、セドリック様は気づいてくださいません。私まで、笑われている気がして……」
そこで彼女は、広間の中央にいるセドリックを見た。
セドリックは別の相手に話しかけようとしていたが、その相手は別の夫人へ挨拶するふりをして離れていく。
その様子を横目に見ていたノエルの指が、ハンカチをさらに強く握る。
「こんなはずではありませんでした」
その一言で、ヴィオラはすべて理解した。
ノエルが欲しかったのは、セドリック本人ではなかったのだ。
気配りのできる公爵家嫡男。
自分の好みを理解し、周囲から羨ましがられる贈り物を用意し、夜会で自分を美しく見せてくれる理想の殿方。
それを作っていたのが誰なのか、ノエルは今さらながら気づき始めていた。
「セドリック様にほんの少しだけ助言してくださればいいのです」
「前にも言ったはずです。サポートは終了したと」
「そんな言い方をなさらなくても……私たちは姉妹ですわ」
「その姉の婚約者を奪ったのは、あなたの方ですよ」
ノエルの唇が止まる。彼女の手の中で、白いハンカチがくしゃりと歪んだ。
「でも、セドリック様は、お姉様の助言がないと……」
「セドリック様なら、お一人でできます。あなたはそうおっしゃいました」
「それは……」
「ならば、信じて差し上げてください」
ノエルの目元が赤くなる。
「本当に、助けてくださらないのですか?」
「はい」
「少しだけでも?」
「承れません」
ヴィオラの返事は変わらない。
ノエルはしばらくその場に立っていたが、やがて広間の中央へ視線を戻した。セドリックはまだ次の会話の相手を見つけられず、所在なげに立っている。
自分で選んだ場所なのだから、ノエルはそこへ戻るしかない。
やがてノエルは小さく礼をし、セドリックの元へ戻っていく。広間の灯りを受ける白いドレスは美しかったが、その足取りに、婚約解消を勝ち取った日の軽やかさはなかった。
ヴィオラはその背中を見送ると、侯爵夫人が戻ってくる。
「お話はお済みになりまして?」
「はい」
「では、こちらへいらっしゃって。私のお友達の公爵夫人が、あなたにぜひご挨拶したいとおっしゃっているの」
「光栄です」
ヴィオラは一礼し、侯爵夫人と共に新しい交友の輪へと歩み出す。もう彼らのために、自分の時間を差し出すつもりはなかった。