軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

本編 ~『差し出された手』~

翌日の午後、伯爵家に思いがけない客が訪れた。

グランヴィル辺境伯のアレクシスだ。

国境警備の功績を称える夜会以来、王都で名を聞くことはあっても、ヴィオラが直接言葉を交わす機会はなかった相手である。

その彼が、正式な訪問の礼を尽くして伯爵家の応接室に通されたと聞き、屋敷の空気はにわかに慌ただしくなっていた。

「グランヴィル辺境伯が、なぜ今……」

父はそう呟きながらも、すぐに外向きの顔を整えた。母も慌てて身支度を確認し、ノエルとヴィオラにまで応接室へ出るよう促している。

ヴィオラは少し離れた場所で、その様子を見ていた。

誰も、ヴィオラの意見を求めてはいない。だが、呼ばれた以上、同席しないわけにはいかなかった。

応接室へ入ると、アレクシスはすでに席に着いていた。

黒に近い深い紺の上着は華美ではない。だが、生地も仕立ても一目で上質だと分かる。背筋の伸びた姿勢は、戦場に立つ者の気配があった。

彼はヴィオラを見ると、優雅に立ち上がった。

「ヴィオラ。久しぶりだな」

「ご無沙汰しております、アレクシス様」

半年前の夜会で、銀の短剣を受け取った時と同じ目だった。

言葉の奥にあるものまで確かめようとする誠実な瞳。ヴィオラがその視線を受け止めていると、横から父の咳払いが入った。

「辺境伯閣下、ようこそお越しくださいました。それで、本日はどういったご用件でしょうか」

「急な訪問となり、申し訳ない」

アレクシスは父へ向き直る。

「ヴィオラとセドリックとの婚約が解消されたと聞いた」

「ええ、まあ……若い者同士の事情がありましてな。幸い、セドリック公爵子息とはノエルが改めて良いご縁を結ぶことになりました」

「そのようだな」

アレクシスの声は低く落ち着いている。責める響きはない。だが、父の言葉をそのまま信じているわけでもなさそうだった。

「ヴィオラとの婚約を破棄してから、セドリックは、評価を落としている。それは知っているな?」

「まだ婚約が変わったばかりでして、至らぬところもあるかもしれません。ですが、セドリック公爵子息は有望なお人です」

「有望か……」

「……閣下?」

「失礼。王都では、少し違う見方も出ているようだったのでな」

その一言で驚きが広がる。昨日の夜会で、セドリックの評判が揺らいだことは分かっていたが、それをアレクシスの口から聞くことになるとは思っていなかったからだ。

「セドリックは、以前ほど気配りのできる人物とは見られていない。会話は一方的で、場の空気を読まない。贈り物も相手に合わず、服装も場にそぐわない。公爵家の名に頼った若者という評価が、少しずつ広がっている」

「そ、それは……一時的なものです。若さ故に慣れぬこともあるでしょう」

「慣れぬことを補っていた人物を失ったからでは?」

父は言葉を失う。アレクシスの視線が、今度はノエルへ向く。

「そして、ノエルもまた、その彼を支えきれていない。昨日の夜会では、彼女まで見る目がない令嬢として扱われていたそうだな」

「ノエルは悪くありません!」

母が思わず声を上げる。だがアレクシスの余裕は崩れない。

「悪いかどうかの話ではない。社交界の評価は、本人の望みよりも早く広がる。伯爵家は、有望株を迎えたつもりだったのだろうが、今はその縁談が、家の評判を下げるものになりつつある」

父の顔色が変わる。

セドリックをノエルに譲らせた時、彼はそれを損失とは考えていなかったはずだ。公爵家との縁が手に入る。ノエルは満たされる。ヴィオラは姉として譲ればいい。

そう計算していたのだろう。

だが、肝心のセドリックの評価が落ち始めれば、話は違う。父は初めて、ノエルの涙ではなく、家の損得として物事を捉え始めていた。

「……それで、閣下は何をお望みでしょうか」

「本音を言えば、もう一度、ヴィオラに婚約を申し込みたい」

応接室が凍りつく。

母が目を見開き、ノエルが顔を上げる。父は一瞬、言葉を理解できなかったように動きを止めた。

ヴィオラ自身も、すぐには返事ができなかった。

かつて断った縁談を、もう一度申し込まれる。その事実を受け止めるには、わずかな時間が必要だったからだ。

アレクシスは、その沈黙を急かさなかった。

「もちろん、婚約解消から日が浅いことは分かっている。ヴィオラがすぐに次の婚約へ進みたいとは思っていないことも、分かっているつもりだ。だからこそ、提案がある」

アレクシスは真っ直ぐにヴィオラを見る。

「私の下で働かないか?」

「……働く、ですか?」

「グランヴィル辺境伯家で、私の補佐をしてほしい」

父が慌てて身を乗り出す。

「お待ちください、閣下。ヴィオラは伯爵家の令嬢です。働くなど……」

「令嬢であることと、能力を生かすことは矛盾しない」

アレクシスは父を見た。

「少なくとも私は、彼女の能力を高く評価している」

「能力、でございますか」

母が戸惑ったように呟くと、アレクシスは頷いた。

「半年前、私が国境警備の功績で王都に呼ばれた時、セドリックから銀の短剣を贈られた。あれを選んだのは、ヴィオラだな?」

「はい、セドリック様が最初に選ばれた品は、少し華美でしたので……」

「あの銀の短剣には、グランヴィル領の鉱石が使われていた。しかも、意匠は、私の祖父が愛用していたものに似せていた」

アレクシスの声が、ほんの少しだけ和らぐ。

「祖父は私にとって、剣を教えてくれた師であり、領主としての在り方を教えてくれた恩人でもある。相手をよく調べ、敬意を持っていなければ、贈呈品にここまでのことはできない」

ヴィオラは膝の上で指を重ねた。

あの銀の短剣を選んだ時、そこまで大げさなことをしたつもりはなかった。

だが、そのさりげない気遣いを受け取ってくれた人がいた。それが嬉しくて、無自覚なままに、ヴィオラの頬は緩んでいた。

「私は、ヴィオラの観察眼と調整力が欲しい。どうか、私の右腕になってくれ」

父が息を呑んだ。

母は困惑したようにヴィオラを見る。ノエルはハンカチを握ったまま、もう涙を浮かべることすら忘れていた。

ヴィオラは、自分の胸の内を確かめる。

この家にいても、未来はない。

両親はヴィオラを、家の都合に合わせて動かせる駒として扱っている。ノエルは、困ればまた姉を頼るだろう。セドリックの評判が落ちれば、再びヴィオラに支えろと命じてくるかもしれない。

それならば、価値を見てくれる人のそばに行く方がいい。

「お父様、以前、お約束いただきましたね。次の婚約相手は、私自身が選ぶと」

「あ、ああ……だが、これは婚約では……」

「はい。ですから、アレクシス様、私と婚約してください」

応接室の空気が止まった。

父は目を見開き、母は息を呑む。ノエルはハンカチを握ったまま、声も出せずにヴィオラを見ていた。

アレクシスだけが、すぐには答えなかった。

「ヴィオラ。本当に、今ここで決めてよいのか?」

「はい。私を正当に見てくださったあなたを、信じてみたいと思いました」

「そうか……なら、ヴィオラ・アステリアス。改めて申し込む。私の婚約者となり、グランヴィル辺境伯家で手腕を発揮してもらいたい」

「喜んで、お受けいたします」

ヴィオラは差し出された手に、自分の手を重ねた。父も母も、ノエルも何か言いたげな顔をしていたが、ヴィオラは、もう彼らの顔色を読んで場を整えることはしない。

これから自分が立つ場所は、この家ではない。ヴィオラはアレクシスの隣に立ち、まっすぐ前を向くのだった。