作品タイトル不明
第8話 冬白花の香り
エルンスト侯爵夫人が抱えてきた冬白花は、毒ではなく記憶の匂いを運んできた。
薬草院の応接室へ通されたヴァレリア・エルンスト侯爵夫人は、盛夏を前にした陽気には不似合いな白い花束を侍女に持たせていた。小さな花が幾重にも重なり、甘く澄んだ香りを広げる。前の人生で、白塔へ運ばれる薬盆の脇に飾られていた花だ。
花そのものに害があったわけではない。そのことは頭で分かる。けれど、香りは床へこぼれた薬と冬の寒さを連れてくる。
私は応接室の卓へ置かれた紅茶の取っ手に触れ、まだ温かいことを確かめた。今は初夏で、ここは薬草院だ。
「ラングフォード公爵令嬢。ご無沙汰しております」
侯爵夫人は、私が覚えている通り、相手を安心させる微笑みを浮かべていた。薄紫のドレスは控えめだが布地は上質で、慈善事業を預かる貴婦人として非の打ち所がない。
「エルンスト侯爵夫人。本日は薬草院へお越しいただき、ありがとうございます」
私は椅子を立って礼をした。彼女を前に礼節を崩したところで、私の命は守られない。
同席するセルヴァン院長とノエルも挨拶を交わし、侯爵夫人の侍女が花束を差し出した。
「小邸へ移られたとうかがいましたので、お祝いに。冬白花は気持ちを落ち着ける香りだと申しますわ」
私の背後で、ミナがほんのわずかに息を飲んだ。彼女は前の人生を知らない。ただ、私が花束から目を離せないことには気づいたのだろう。
「お気遣いをありがとうございます。薬草を扱う職場ですので、院の規程に従って確認を受けてから持ち帰らせていただきます」
侯爵夫人の笑みは変わらない。
「まあ、慎重でいらっしゃるのね。よいことです。先日の薬の件で、皆さまも神経を張り詰めておられるのでしょう」
まるで、汚染は少し運の悪い事故であり、私の警戒だけが過敏であるかのような言い方だった。
院長が応じる。
「薬を扱う院ですので、贈答の植物も通常通り確認いたします。事故報告については、封印検体とともに基金へ送付しております」
「拝受いたしました。患者のために動いてくださったことは、理事長として感謝しております。ただ、配布が止まったことで困っている方がいるのも事実です。事故の原因が確定するまで、あまり不安を広めないことも慈善には必要ではございませんか」
紅茶の表面へ、花の白がぼんやり映っている。
私はあの時も、不安を広めてはいけないと思った。自分の見つけた色に自信がなく、侯爵夫人の落ち着いた声を、経験ある方の判断だと受け止めた。
「患者の皆さまを不安にさせたいとは考えておりません。ですからこそ、危険の可能性がある薬を安全だとして配ることはできません」
「もちろんですわ。あなたは昔から真面目な方。だから、わたくしは残念に思っておりますの」
侯爵夫人はカップへ指を添え、ゆっくり続けた。
「妃候補への推薦を、あれほど早く辞退なさるとは。あなたなら、王宮に新しい知識をもたらせると思っていました。今からでも、辞退を撤回できる道が全くないとは限りません」
院長の視線が鋭くなる。事故の説明に来たはずの人が、なぜ私の推薦辞退を語るのか。受付係が茶を替えるために扉脇に立っていたが、その手が一瞬止まったのも見えた。
「辞退は私の意思です。撤回を望んでおりません」
「若い時には、目の前の出来事に心を動かされることもありますわ。薬の件で王宮に不信を抱いたのなら、わたくしが力になります。候補として内側にいてくだされば、慈善の改善も進めやすいでしょう」
内側にいれば、報告の窓口は彼女になる。
白百合宮で私が失ったものが、机の下で靴先に絡むような感覚がした。私は膝の上で手を組み、震えを見せないためではなく、きちんと自分の位置を確かめるために指を重ねた。
「私は薬草院の助手として、確認された手順に従って働きます。基金の事故についても、必要な記録と鑑定を提出いたします。それ以上のことは申し上げられません」
侯爵夫人は初めて、笑みをほんの少し薄くした。
「お父様も、そのような働き方をお許しになったのかしら」
「許しを乞う形ではなく、私が望む道としてお伝えしました。父は確認書に署名してくださいました」
侯爵夫人の指が、ソーサーの縁をゆっくり撫でる。推薦の際には、父の善意と私の遠慮を用いれば十分だと思っていたのだろう。今の返答が彼女にとってどれほど予想外だったのか、表情からは読み取れない。それでも、私がもう同じ仕方で連れ戻せる娘ではないことは伝わったはずだ。
「公爵令嬢が、助手としての立場をそれほど大切になさるとは。立派なことですわ」
褒める形なのに、手袋の下へ細い針を差し込まれたようだった。
ノエルが書類を一枚、卓へ出した。
「事故報告に関するお問い合わせでしたら、提出済み記録の範囲で説明いたします。職員の進路に関するお話は、勤務時間外にご本人の同意を得てお願いいたします」
侯爵夫人の視線が彼へ向いた。
「監督官は、ずいぶん職員をお守りになるのですね」
「職員の意思と職務を区別しております」
強い決め台詞ではない。声も高くない。それでも私には、扉の鍵がこちら側にあると知らせる言葉だった。
侯爵夫人は紅茶を一口も召し上がらないまま立ち上がった。
「では、配布の遅れについては、近く開かれる緊急供給会議で話し合いましょう。救いを待つ方々のため、現実的な判断が必要ですもの」
去り際、彼女は花束へ一度目を落とした。
「お花は、どうかお受け取りになって。新しいお住まいに白い花があれば、気持ちも和らぎますでしょう」
彼女にとっては、穏やかさを装うのに都合のよい花なのだろう。私は礼だけを返し、花束には触れなかった。
面会が終わると、院長はすぐに鑑定室へ花束を運ばせた。花弁も茎も、抽出液にも異常はない。ごく普通の冬白花だった。
「無害です。贈答記録へその旨を記し、希望がなければ処分して構いません」
院長の判断に、私は肩の力を抜いた。花が毒でないなら、毒の証拠にしてはいけない。怖かったというだけで、事実を曲げれば、私も記録を奪った人と同じになってしまう。
「処分をお願いします。家へは持ち帰りません」
紅茶は冷めていた。一口飲むと苦味が強く、花の香りはまだ鼻の奥に残っていた。
鑑定記録へ署名する時、私は花の欄に無害確認済みと書かれた文字をじっと見た。怖かったという事実と、害がないという事実は両方とも本当で、どちらかを消す必要はない。前者は私の暮らしで扱い、後者は公の記録に残せばよい。
「香りが残るようなら、応接室の換気をします」
リュシーがさりげなく窓へ向かった。侯爵夫人の意図まで知るはずのない彼女が、事情を問いたださず空気だけを入れ替えてくれる。その手つきの自然さに、私は何とか礼を言えた。
ノエルが尋ねた。
「本日の勤務を続けますか。それとも帰宅なさいますか。どちらでも記録上の不利益はありません」
一方的に休ませるのでも、無理を求めるのでもない問いだった。
「書類の整理だけ行い、早めに帰ります。今ここで何もできなくなる方が、私にはつらいので」
「承知しました。では、作業は一刻までにしましょう」
彼は時刻を決めただけで、隣に残って監視するような真似はしなかった。机の端へ、新しい水と無香の布を置いてから監督官室へ戻る。香りの残った手袋を外し、自分で布へ包んだ時、ようやく面会が終わったと思えた。
受付係が、面会中に届いた書類を持ってきた。花束から視線を逸らしていた彼女の顔は、少し固い。
「基金から、緊急供給会議の通知です。停止中の商会についても議題になるとのことでした」
院長が封を開き、紙を読む。私にも見える位置へ広げられた供給候補の一覧に、黒い文字が残っていた。
ベレス薬材商会。
汚染の報告を受けた後でも、侯爵夫人はその名を外していなかった。