作品タイトル不明
第9話 二冊の受領帳
一冊しかない帳面は、正しい記録であるほど、奪われれば脆い。
私は薬草院の記録室で、汚染ロットの受領票を前にそのことを考えていた。
窓の外では、初夏の日差しが石畳を白く照らしている。開け放した窓から風が入るたび、机の上の薄紙が持ち上がりかけ、リュシーが文鎮を一つ追加した。真鍮の文鎮には小さな傷が多く、長い間、薬草院の書類が飛ばないよう押さえてきたらしい。
「こちらが、ベレス商会から届いた三箱の受領票。箱番号と封蝋確認、重量まではいつもの帳面に記載してあるわ」
リュシーが指で行を示した。
「そして、こちらが汚染が判明した後に作った採取記録。院の証拠庫に原本があって、中央記録庫へ写しを送った分ね」
事故後の記録は整っている。誰が箱を開け、誰が検体を取り、どの紙が紫に変わったのか。署名も封印番号も揃っており、私一人が何かを混ぜたと言われても、この箱については否定できる。
けれど、その箱が届くまでの支払や発注については、薬草院の受領帳一冊に依存していた。
「前年の同じ時期のものも拝見できますか」
「ええ。ただし、去年の分は受領帳が一冊だけで、箱番号も今ほど細かく記していないの。事故がなかった薬の記録は、荷札と量を確認できれば足りると思われていたから」
棚から下ろされた帳面は、革表紙の角が丸く擦れていた。頁を繰ると、施療基金指定の月白草粉末が、同じベレス商会から何度も納められている。記載は整然としており、何も問題がないように見える。
それがかえって怖かった。
「これを持ち出せる人は、どの範囲にいますか」
「記録係、院長、監督官。それから、基金との照合が必要な場合は担当者に閲覧を許可することもあるわ。持ち出す時は署名が必要だけれど、閲覧中に頁を書き換えられないとまでは……」
リュシーは言い淀み、帳面をそっと閉じた。
「ごめんなさい。今まで、そんなことをする人がいる前提で考えていなかった」
「謝らないでください。私も、信頼する方へ帳面を渡してしまったことがあります」
口にしてから、余計なことを言ったと気づいた。リュシーが問いかけるように顔を上げる。私は机の端を揃える動作に逃げ、説明はしなかった。
「今からでも、今後の記録を二か所に残すことはできますか」
「写しを毎日作るの? 入庫が多い日は大変よ」
「全頁の複写ではなく、基金指定薬材と検査対象の箱について、薄紙を重ねた転記帳を使えないでしょうか。受領時に同じ筆圧で控えを作り、一日の終わりに中央記録庫へ移送するのです。検体を採った場合は封印番号も併記します」
紙を重ねて書けば、同時に二枚ができる。もちろん手間はかかるし、紙代も増える。けれど後から誰かが一冊を差し替えても、別の場所に同じ日付の記録が残る。
リュシーは机の薄紙を一枚取って、指で厚みを確かめた。
「記録係は文句を言うでしょうね。でも、最初の数日は私も手伝う。院長へ出すなら、手間と紙代の見込みも書きましょう」
一人で考えた案が、誰かの手を借りて実務の形になっていく。そのことが思いがけず嬉しかった。
記録係の執務机へ相談に行くと、予想通り、髭の濃い主任は複写帳の案を聞いて顔をしかめた。
「紙が増える。乾かす場所も要る。何より、受領の列が詰まれば現場から苦情が来ますよ」
「はい。ですから、初めは基金指定の粉末だけに限り、記録係の方が無理なく続けられる順序を教えていただきたいのです」
反対される覚悟でいたが、主任は私の用意した書式を取り、欄を一つ指で叩いた。
「この並びでは駄目です。封印番号は箱番号の真横に置かなければ、照合する人間が見落とす。送付時刻は下欄にまとめましょう」
リュシーが私の横で肩を震わせる。断られたのではない。より面倒の少ない形へ直されているのだ。
「ありがとうございます。修正いたします」
「感謝は、三日続いてからにしてください。立派な提案でも、続かなければ紙屑です」
厳しい言葉だったが、母も似たようなことを言った。美しい薬草札より、毎日水をやる手の方が庭を守ると。
午後、私たちは院長室へ改善案を持ち込んだ。
セルヴァン院長は、予想通り紙代の欄から読み始めた。
「中央記録庫へ毎日運ぶとなると、使者の負担が増えます。事故調査中だけに限定しますか」
「基金指定の調薬済み粉末と、異常が起きた供給系列については継続すべきだと考えます。全納入に広げるかは、試行後に費用を見て決めていただければ」
「現実的ですね」
院長はノエルへ案を回した。彼は導入の理由を読んだ後、別紙へ何かを書き込む。
「中央記録庫の受領時刻も併記すれば、院内記録が変更される前に控えが存在したことを示せます。差配の手間は監督官室で負います」
「監督官の改善案として提出なさいますか」
院長の問いに、ノエルは首を横に振った。
「発案と試行担当はオフィーリア助手です。私の追加は送達手順のみですから、提案者名を変える理由はありません」
あまりに当然のように言われて、私は返事の前に帳面へ視線を落とした。白塔で失った帳面は、誰かが私の功績を奪うためのものでもあったのかもしれない。今は、自分の名で提案した記録が残る。
「では、オフィーリア助手の提案として三か月試行を認めます。リュシー、記録係へ説明を。紙代は事故対応費から出します」
「承知しました」
リュシーは少し誇らしそうに返事をした。
私は院長へ礼をし、薄紙の束を抱えて記録室へ戻った。廊下ですれ違った調薬師が「新しい帳面を始めるそうですね」と声を掛け、面倒そうな顔をしつつも、必要な箱番号の欄を増やした方がいいと助言してくれた。
最初の受領作業は、やはり普段より遅れた。薄紙がずれて文字が二重になり、私は一枚を無駄にした。主任は渋い顔で紙を見た後、「失敗分も破棄記録へ入れる。紛れ込んだ一枚が一番厄介です」と言う。私が謝ると、リュシーが横から「明日は私も一枚無駄にする予定なので、おあいこです」と口を挟んだ。
完璧に始めなくても、残すべきものを残せばよい。その日、中央記録庫へ運ばれた最初の控えには、小さな書き損じの訂正印まで揃っていた。
爵位で命じたのでは、こうはならなかっただろう。汚染薬を見た人たちが、手間を増やしてでも二度と同じ危険を通したくないと感じているのだ。
夕刻、最初の複写帳を作るため、前年の支払控えと今年の納入票を並べた。
前年に届いた月白草粉末の記載を写し取ろうとして、私は薬匙を置くようにペンを止めた。
「リュシー。この金額は、薬価の改定前ですよね」
「ええ。去年は今年より安いはずよ」
「ですが、こちらは今年の一箱あたりより高額です。しかも、納入量の欄は少ない」
彼女が椅子を寄せる。二人で計算し直しても、数字は変わらなかった。月白草は高価だが、同じ品質のものなら価格が一季で逆転する理由はない。少ない量に、多い支払い。
記録室の時計が、乾いた音で時を告げた。
リュシーが小声で言う。
「これは、監督官へ知らせた方がいいわ」
私は数字の差をもう一度書き写し、その横に推測を書き込むことはしなかった。高い支払いと少ない納入が並んでいる。それ以上は、支払元の帳面がなければ言えない。疑わしいからこそ、先走らずに残す必要がある。
私は新しい複写帳の一頁目を開いた。まだ乾かないインクの匂いがする。
消されないようにするために作った帳面へ、初めて写すべき不自然な数字が現れていた。
新しい帳面の頁を閉じる前に、私は発見時刻と同席者の名を記した。過去を変えられなくても、今見つけた疑問がいつ生まれたかは、消されないようにできる。
インクが乾くまで、私は頁から手を離さなかった。