作品タイトル不明
第7話 白樺小邸の鍵
母の小邸の鍵は、候補居館のどの扉よりも軽かった。
もっとも、鍵を受け取った時点では、私はまだその軽さを知っていただけで、扉を開けてもいなかった。
灰紫根の混じった薬を止めてから五日後、セルヴァン院長に呼ばれて院長室へ入ると、机の上に一通の任用通知と薄い給与台帳が置かれていた。窓辺の鉢植えは夏へ向けて葉を増やし、机の隅には事故報告の写しがきちんと綴じられている。
「ラングフォード嬢。仮採用の期間を短くすることに異存はありますか」
「短く、ですか」
何か不備があったのかと、指先が冷えた。
院長は私の顔を見て、少しだけ苦笑する。
「その表情では、解雇を言い渡すように聞こえましたね。反対です。受領補助としての勤務と、汚染発見時の対応を確認しました。あなたを本日付で正式な助手として任用します」
口を開いたまま、すぐに返事ができなかった。
公爵令嬢だから用意された椅子ではない。母の名に免じた奉仕枠でもない。私は助手として働き、危険を止めた。その結果として渡される書面だった。
「ありがとうございます。精一杯務めます」
「精一杯は結構ですが、眠らずに働くという意味にはしないこと。事故調査は続きますが、あなたには暮らしも要ります」
院長の隣で、ノエルが給与台帳を私の方へ向けた。
「初任給の支給日は月末です。助手の職名で職員名簿にも載ります。事故報告のため警戒が必要な間は通勤経路を記録し、必要なら付き添いの手配もできます」
守られると聞けば、以前の私は安堵しただろう。今の私は、誰が何を管理するのかを先に確かめたくなる。
「付き添いは、薬草院の勤務時間内だけでしょうか」
「通勤を含めて希望を聞きます。住居を変える予定があるなら、その後に決めても構いません。あなたをどこかへ留め置くためのものではありません」
私が何を恐れているか知らないはずなのに、必要な境界を言葉にしてくれる。
「住居については、父へ相談したいことがございます」
院長はうなずき、通知書を差し出した。
「では、今日は早めに退勤なさい。助手として初めてすることが引っ越しの相談でも、誰も咎めません」
公爵邸の執務室で、父は任用通知を二度読み返した。
「本当に給与が出るのだね」
「勤務ですから」
「いや、分かっている。分かってはいるのだが、君が自分で給与台帳を持ち帰ってくる日が来るとは想像していなかった」
父の声には寂しさと、少しの戸惑った誇りが混じっていた。机の端には、母の小邸に関する書類がすでに用意されている。辞退の日に父が鍵束を取り出しかけたことを思い出した。
「お父様。母の白樺小邸へ移りたいのです」
父はやはり、すぐには頷かなかった。
「薬草院へ近いからか」
「それもあります。母の乾燥棚と小さな薬草園が残っています。温浸の学びを続けるにも便利です。それに……」
言葉が止まる。白百合宮のように誰かに薬も便りも管理されない場所で暮らしたい、と言えば、父は何が起きたのかと問うだろう。
「それに、自分で働くと決めた以上、暮らす場所も選びたいのです」
父は窓の方へ顔を向けた。庭では、使用人が洗い終えた花瓶を日向へ並べている。日常の音がする室内で、父は母の遺言書の写しを開いた。
「リリアーナは、小邸と付属の薬草園の管理権を、君が十八歳になった時に渡すよう記している。私は、君が嫁ぐまでここで暮らすものと勝手に考えていた」
「急に家を捨てるつもりではありません。ミナにも、望むなら一緒に来てもらいたいと思っています」
「もちろん参ります」
扉際に控えていたミナが、思わず口を挟んだ。父は驚いて彼女を見た後、小さく笑った。
「そのようだね。では、管理移転の書類を整えよう。護衛と馬車については、しばらく公爵家で用意させてほしい。事故調査中の娘を一人きりにするほど、私は聞き分けがよくない」
私も笑えるほどには、まだ肩の力を抜けなかった。それでも、父が「戻れ」と言わず、条件を相談してくれることが嬉しかった。
「お願いいたします。薬草院の警戒手配とも重ならないよう、確認します」
父は鍵束の中から、白樺の葉を刻んだ小さな真鍮の鍵を外した。
「母上が最後まで自分で持っていた鍵だ。君が持ちなさい」
手のひらへ載せられた鍵は、ひんやりとしていた。
家令は管理移転の書類とともに、小邸の支出簿も用意してくれた。屋根の補修費、庭師への手当、冬に必要な薪の見込み。令嬢として家に暮らしている間は意識せずに済んだ数字が、薄い帳面へ並んでいる。
「助手給与だけですぐ全てを賄えるとは申しません。薬草園の収益分はお嬢様の管理益として積み立てられております。必要な使用人費と維持費は、そこから出せます」
私は頁をめくり、初めて自分の暮らしが費用を持つことを知った。自由とは鍵一つで軽々しく手に入るものではない。払うべき費用と、頼るべき助けを確かめることまで含むのだろう。
「まずはこの範囲で暮らします。足りないことが分かれば、その時に相談いたします」
父は少し寂しげに笑った。
「相談してくれるなら、十分だ」
白樺小邸は、公爵邸から馬車で半刻、薬草院からは歩いても通える街路の奥にある。二階建ての壁には蔦が伸び、名前の通り、入口の左右で白樺の木が細い枝を揺らしていた。
「しばらく閉めていた割には、よく保たれていますね」
ミナが鼻先に布を当てながら扉を開ける。家具には白い覆いが掛かり、廊下の角に埃が集まっていたが、母が好んだ明るい木の床は傷んでいなかった。
私はまず、奥の作業室へ向かった。
棚には空の瓶と乾燥網が残されている。窓の外には小さな薬草園があり、手入れを続けていた庭師のおかげで月白草の葉が何株か生きていた。
「お嬢様、先にお部屋を整えませんと。棚を拭くのは明日でも」
「一段だけ。ここが使えると分かれば安心できるから」
ミナはため息をつきながらも、布巾を二枚出した。私が上段を拭き、彼女が下段の埃を払う。手袋に薄灰色の汚れが付いた。こんな汚れを、自分の暮らしが始まる証のように思う日が来るとは知らなかった。
夕食は、台所の設備を確かめるついでにミナが作った簡単な野菜の煮込みになった。公爵邸の食卓より皿は少なく、匙の柄には少し傷がある。窓の外の白樺が風で鳴るたびに、私はつい廊下の足音を待ってしまったが、ここへ無断で入る委員付きの侍女はいない。
寝室の机へ給与台帳と小邸の支出簿を並べる。どちらも、きれいな未来を約束する書類ではなく、働けば増え、暮らせば減る数字の束だった。それが今は、候補推薦の金の封蝋より頼もしく思えた。
夕刻、薬草院へ住居変更を届け出に行くと、職員の前で院長が私を紹介した。
「本日から正式任用となった、オフィーリア助手です。入庫検査と鑑定補助に当たってもらいます」
公爵令嬢ではなく、助手。
リュシーが一番に拍手し、調薬室の者たちが続いた。ノエルは拍手の後に、通勤経路と記録送付の確認票を持ってきた。
「白樺小邸からなら、院までの道に二つの詰所があります。警戒期間中はどちらかへ毎朝立ち寄る形と、同行者を付ける形を選べます」
「立ち寄り記録でお願いします。ミナと通いますし、必要になれば変更を相談いたします」
「承りました。選んだ内容も書面にします」
彼の言葉は、いつも私の選択が消えない形に整えられる。
退出前、来訪簿を抱えた受付係が院長室へ走ってきた。
「院長、明日の面会について確認をお願いいたします。王宮施療基金理事長、エルンスト侯爵夫人が、事故報告の説明を求めてお越しになるとのことです」
新しい鍵を握った手のひらが、ひどく冷たくなった。
けれど、私が今夜帰るのは白百合宮ではない。自分で鍵を開け、自分で閉められる家だった。