作品タイトル不明
第6話 配られなかった薬
温浸液が明礬紙を紫に染めたとき、私は今度こそ間に合ったのだと知った。
朝一番に届いた三つの大箱は、鑑定室の長机へ運ばれた。白い麻紐には王宮施療基金の印札が下がり、封蝋も割れていない。箱の脇には、王都施療所へ配る薬包の数と、発熱患者へ向けた薄い説明札が束ねて置かれている。
これが午後には人の手へ渡る。
前の人生では、私は施療基金の奉仕室で同じような粉薬を調べた。異変を見つけたのに、相談すべき相手を間違えた。何人へ薬が届いたのか、拘束された後の私には知らされなかった。
あの時は、混じっているかもしれないと申し上げた私に、侯爵夫人が慈愛に満ちた顔で笑った。「不安を抱えたままではいけません。委員会で確かめますから、あなたは候補としてのお務めに専念なさい」と。帳面を渡した私も、尊い慈善の場で疑いを広げるより正しいと思ってしまった。
今日の机にいるのは、確認を私から取り上げる人ではない。私は温浸用の湯の温度を確かめ、必要な紙片を三箱分、数えて並べた。
「ラングフォード嬢、始められますか」
ノエルの声に、私は長机へ戻った。
「はい。お願いいたします」
立会人はセルヴァン院長、ノエル監督官、入庫担当のリュシー、それに配布係の男性だった。院長が封蝋を確認して記録へ署名し、リュシーが箱の番号を読み上げる。私が勝手に開けたと言われる余地がないよう、ひとつずつ手順が声と紙へ残されていく。
「第一箱、封蝋異常なし。開封します」
麻紐を切り、蓋を上げた。中には同じ大きさの薬包が隙間なく並んでいる。月白草を主材とした解熱粉末、と印字された紙袋は清潔で、見た目には何の不安もない。
院長が無作為に一包を選び、私へ渡した。
私は包みの口を開け、陶器皿へ規定量を出す。乾いた粉を目で見ても、白みのある色しか分からない。匙を取る手に、昨日塗った無香軟膏のしっとりした感触がわずかに残っていた。
湯を注ぐ。
立ちのぼった匂いに、胃の奥が縮んだ。わずかな甘さ。白塔の薬杯に沈んでいたものより薄くても、忘れられるはずがない。
「異常の可能性があります。明礬紙で確認します」
声が震えなかったのは、恐ろしくなかったからではない。隣で院長が記録を取り、ノエルが封の開いた薬包から目を離さずにいてくれたからだ。
明礬紙へ液を落とす。
淡い染みの縁に、紫が現れた。
鑑定室の誰も言葉を発しなかった。配布係が抱えていた説明札の束を、机へそっと下ろす音だけがした。
「灰紫根の反応です」
院長が身を乗り出し、自ら別の明礬紙で同じ液を確かめる。紫の縁は消えない。
「当該箱は隔離。残る二箱も、同じ手順で確認します」
院長の指示は短かった。驚きや怒りを言葉にせず、すぐ次の行動へ移る口調に、私は救われた。
第二箱、第三箱からも同じ反応が出た。
三つの箱はどれも未使用のまま、赤い隔離札を付けられた。リュシーは箱番号を二部の記録へ写し、院長とノエルが署名する。私も検査実施者として、名前を書いた。インクは滲まず、紙の上に自分の名が残った。
ノエルは封印用の布袋をその場で開き、検体瓶の口を私たち全員へ見える向きに揃えた。院長が蝋を落とし、リュシーが印の形を記録へ写す。細かくて、時間のかかる作業だった。待つ患者がいると知っているだけに、焦りは刺すように痛い。それでも誰一人、ここを省こうとは言わなかった。
「施療所への便は、あと一刻で出る予定です」
配布係の男性が青ざめた顔で言った。
「別の在庫から出せますか」
院長は在庫簿を確かめ、首を横に振った。
「同じ商会、同じ供給系列のものは一時停止します。安全が確認された代替薬が届くまでは、配布を延期してください。発熱の重い患者については、院内備蓄の単材を調薬して優先対応します」
配布係は唇を噛んだ。待っている患者へ薬が遅れる重さは、彼の肩にものしかかるのだろう。私は思わず口を開いた。
「鑑定室の補助でできる作業があれば、私も手伝います。単材の確認なら、立会いのもとで」
彼は私を見ると、悔しそうな顔のまま一礼した。
「ありがとうございます。遅れる説明は必要ですが、危険な薬を渡さずに済みます」
その言葉が胸へ落ちた。
危険な薬を、渡さずに済んだ。
前の人生で私が最初に望んだはずのことは、誰かを裁くことではなく、それだけだった。
ノエルが事故報告書の雛形を取り出した。
「発見日時、箱番号、封蝋確認者、採取者、鑑定実施者を記録します。検体は二組封印し、一組を院の証拠庫へ、もう一組を中央記録庫への送付分とします」
「中央記録庫へも送るのですか」
「事故報告を一か所に留める理由はありません。同じ系列の供給が他施設へ向かっていれば、照会に必要です」
白塔の外で、記録を残してほしいと求めた声を思い出した。
彼は今、私を救うためだけに言っているのではない。薬を飲むかもしれない人を守るための、当たり前の手順を進めている。だから信じられる。
「私が検査した経緯も、すべて記載してください。仮採用の助手が提案した試行であることも」
ノエルは一度、私を見た。
「そのつもりです。発見者欄はあなたの名義です。責任を負わせるためではなく、手順を行った者を消さないために」
院長がその会話を聞き、報告票の一部を指で叩いた。
「そして、止める判断の責任は院長である私が負います。あなたは見つけ、正しく報告した。助手に全てを背負わせる院なら、薬草院の看板を下ろした方がましです」
前の人生で、私は一人で疑われた。一人で説明し、一人で薬を飲まされた。その記憶に重なる言葉が見つからず、私は深く礼をした。
手袋の中で、指先が少し熱くなった。
私は報告書へ署名した。白塔で奪われた帳面を取り戻すことはできない。けれど今、私が見た色は複数の目の前で記され、二つの場所へ保管される。
午後には、薬草院の調薬室が急きょ開かれた。院内備蓄の月白草は粉末ではなく乾燥葉で保管されており、薬師たちは必要量を計りながら、重症者へ向けた薬を作っていた。
私はリュシーと一緒に、単材の荷札と保管番号を読み上げた。疲れはあったが、手を止めたいとは思わない。配布用に結ばれていた薄い説明札は、汚染箱の横に残ったままだ。その白さを目にするたびに、誰かがあの粉を口に入れずに済んだのだと思えた。
夕刻、ノエルが封をした書類を院長へ差し出した。
重症者向けの最初の薬包が完成すると、配布係の男性は荷を積む前に鑑定印と調薬印を何度も確かめた。朝には焦りを隠せなかった彼が、出発前に私へ小さく頭を下げる。
「遅くなったと叱られるでしょう。それでも、胸を張って渡せます」
その一言で、膝の奥から力が抜けそうになった。止めることは、届けないことではない。安全な形に直して届けるための、必要な遅れだった。
「予備監査の申請書です。ベレス薬材商会由来の該当系列は、回答があるまで全施設へ一時停止を通達します」
院長が署名し、使者へ渡す。
「施療基金にも事故報告を送らねばなりません。供給契約の窓口は、基金理事長ですから」
記録係が宛名を書き始めた。私は必要以上に見ないつもりだったが、筆先が記した名から目を逸らせなかった。
王宮施療基金理事長
ヴァレリア・エルンスト侯爵夫人。
私を白塔へ送った人に、私が生きて止めた薬の報告が届く。
怖くないわけではなかった。報告書を読んだ彼女が、次に何をするのか私は知り得ない。前の人生と同じ手を使うとも限らない。それでも、机の上には私一人の記憶ではなく、封印された瓶と署名の並ぶ記録がある。
窓の外では、配布が延期された馬車がまだ院の裏庭に停まっていた。空の荷台へ夕陽が差している。
今度は、薬は出ていかなかった。