作品タイトル不明
第5話 初めての受領印
初めて押した受領印は、紙の上で少しだけ斜めになった。
「読めるから大丈夫よ。次は印床の端へ手首を置くと安定するわ」
先輩助手のリュシーが、朱肉の蓋を閉じながら教えてくれた。栗色の髪を首の後ろで短く結んだ彼女は、私より二つ年上で、入庫室の帳面を任されている。
王立薬草院へ仮採用されて一週間。私は毎朝、公爵邸から馬車で通い、乾燥棚の湿度記録、鑑定器具の洗浄、薬材の受領補助を教わっていた。爵位を知って妙に遠慮する人もいたが、リュシーは二日目には私が結び紐を左右逆に締めたことを遠慮なく指摘した。
その方が助かる。私は何も知らないまま褒められるより、間違った箱を正しく閉じられるようになりたかった。
初日は、乾燥棚の網を張るだけで半刻を費やした。公爵邸で薬草を扱った時には、庭師や侍女が道具を揃えてくれていたのだと、網紐を絡ませてから気づいた。リュシーは笑いをこらえる代わりに、自分の結び目を一つほどいて見せてくれた。私もほどき、結び直した。働くとは、できることを披露するより、できない作業を覚えていく時間の方が長いらしい。
受領印の赤い朱肉が、手袋を外した指先に少し付いている。ミナならすぐ拭こうとするだろうが、私はそのまま帳面の次の行へ視線を下ろした。
「こちらが仕入れ元、こちらが薬材名、納入量、封蝋の状態、それから重量。合っていれば受領印を押し、異常があれば院長か担当薬師を呼ぶ」
リュシーが指で項目を追う。今日届いたのは香草の束と包帯用の麻、それに乾燥した解熱葉で、どれも外から確認できるものだった。
「粉末の薬材は、どう確認するのですか」
「封が破れていないかと、荷札と重量ね。実際に調合へ回す前は薬師が見るけれど、慈善用の施療薬はすでに一定量ずつ混ぜて包んであるから、入庫時に一包ずつ開けるわけにはいかないの」
「温浸の抜き取り検査は?」
リュシーは少し考えてから首を振った。
「高価な単材の受領ならすることがあるけれど、施療用の粉末は数が多いし、配布が決まっているでしょう。荷札と封蝋が基金指定なら、急いで仕分けるのが普通よ」
リュシーは帳面をめくり、前月分の施療薬の頁を見せた。王都の三つの施療所へ、熱の流行る時期には週に二度も箱が出ている。確認欄には、荷札、重量、封蝋の三つだけが几帳面に埋まっていた。
「院長も不足を感じているの。ただ、抜き取りを増やせば費用も人手も必要になる。基金は、慈善薬の費用を少しでも抑えたいと言うし」
悪意がなくても、省かれた手順の先で飲むのは患者だ。私は帳面の整った文字が、かえって頼りなく見えることに戸惑った。
普通。
その言葉を責めるつもりはなかった。棚には今週だけでも何百人分もの薬包が入り、施療所ではそれを待つ人たちがいる。入庫室の職員が怠けているわけではない。むしろ、限られた時間で途切れなく薬を運ぶために、決められた確認をこなしている。
だからこそ、その決まりの隙間へ灰紫根が入り込めたのだ。
私は受領帳を閉じずに、指先で欄外を押さえた。
「慈善用粉末でも、箱ごとに一包を抜き取り、温浸確認を加えることは難しいでしょうか。少なくとも月白草を含む解熱薬だけでも」
リュシーは驚いたように私を見たが、すぐに笑うことはしなかった。
「手間は増えるわ。袋を開けた分の廃棄記録も要るし、配布前に間に合わない日があるかもしれない。けれど、提案するなら監督官へ話してみればいい。仮採用の助手が言ってはいけない規則はないから」
私は少しだけ肩の力を抜いた。
昼過ぎ、入庫室から監督官室へ向かう。手洗いに使う石鹸が強かったせいか、指の付け根が乾いて白くなっていた。手袋をきちんとはめて扉を叩く。
「どうぞ」
ノエルは机いっぱいの報告票に目を通していた。窓辺には冷めかけた茶が置かれ、彼も仕事を後回しにして飲み物を忘れる人なのだと、少し妙なところへ目が向いた。
「アシュフォード監督官、入庫検査について申し出がございます」
彼はペンを置き、私が立ったまま話し始める前に向かいの椅子を示した。
「座って説明してください。手順に関する提案なら、記録します」
私は受領票の控えと、母の帳面から写した簡易な検査手順を机へ置いた。温浸の時間、必要な明礬紙の量、一箱から一包を検体とした場合に追加で必要になる時間。昨夜、紙片へ計算したものだ。
「施療用の解熱粉末は、外観確認だけでは灰紫根の混入を見逃す可能性があります。全品でなくても、箱単位の抜き取り検査を試行できないでしょうか。配布まで猶予のある納入日を選べば、遅れは最小限にできます」
ノエルは帳面の写しを読んだ後、私の顔ではなく、追加時間の計算へ視線を戻した。
「灰紫根の混入を疑う理由は、試験で扱ったからですか」
「それもあります。ですが、粉末状態で見分けにくい薬材を、荷札だけで受け取る運用が危険だと思いました。危険がないと確認できれば、その記録も意味を持ちます」
白塔で死んだ話はできない。けれど、今ここで改善を求める理由は、前世がなくとも成立する。
彼はしばらく黙って計算を確認し、呼び鈴で職員を呼んだ。
「試行が認められても、結果が問題なしで終わる可能性の方が高い。それでも行う理由は変わりませんか」
「変わりません。問題がないと確かめられる薬なら、安心して届けられます」
自分でも、思っていたよりまっすぐに答えられた。灰紫根を見つけるためではない。安全な薬を安全だと言うための検査でもあるのだ。
「次回の施療薬納入はいつですか」
入ってきたリュシーが帳面をめくる。
「明日の朝、王宮施療基金指定の解熱粉末が三箱です。王都施療所への配布は午後の便になります」
「一箱につき一包の抜き取りを試行します。セルヴァン院長の許可を得て、私か担当薬師の立会いを付けます。ラングフォード嬢、検査準備を担当できますか」
「はい」
返事が少し早すぎた。ノエルが一瞬、私の手元へ目を落とす。
「結果を急がないでください。異常が出ても、あなた一人で扱わず、必ず立会人を呼ぶこと」
「承知いたしました」
命じられているのに、息がしやすくなる。危険を見つけても、私一人の帳面にだけ残るのではない。
鑑定室へ戻ると、器具棚の端に見慣れない小さな陶器壺が置かれていた。札には、無香軟膏・薬材作業後の手荒れ用、と簡素な字で記されている。
リュシーがそれを見て笑った。
「監督官、こういうところだけ早いのよね。香りのある軟膏は鑑定の邪魔になるから、ずっと欲しかったの」
「以前からなかったのですか」
「請求を後回しにしていたの。あなたの指を見て思い出したのかも」
皆の備品だ。そう思う方が自然だし、ありがたい。私は軟膏を少しだけ借り、乾いた指へ薄く伸ばした。香りがしないことに安心してしまうのは、私だけの事情だった。
昼食時にミナが持たせてくれた小さな焼き菓子は、忙しさのあまり布包みに入ったままだった。帰りの馬車で開けば、表面の粉が受領票へこぼれそうになり、私は慌てて紙を避ける。薬材の粉だったなら笑い事ではない。公爵邸では気にも留めなかった細かな汚れまで、この一週間で目に付くようになっていた。
夕方、明日の検査用に陶器皿と明礬紙を揃えていると、荷物受領の予告票が届けられた。
白い紙の中央に、納入元が記されている。
王宮施療基金指定。
ベレス薬材商会。
その名前は、前の人生で帳面を奪われる直前に見た荷札と同じだった。
リュシーが明日の集合時刻を書き込んでくれる。私はその字の隣に、湯差しの洗浄と紙片の予備を小さく追記した。怯えたまま待つ代わりに、用意できるものがある。それだけで、帰りの馬車へ向かう足が止まらなかった。
私は受領票の端へ指を置き、紙が震えないよう押さえた。
明日の箱を、誰の口にも入る前に確かめる。