作品タイトル不明
第19話 慈善の代価
人を救うための金が、侯爵家の燭台と晩餐の銀器に姿を変えていた。
商会の帳簿を押収した翌日、王妃府の臨時法務室には、施療基金から取り寄せた支払控えが積まれていた。窓を開けても紙の乾いた匂いは濃く、書記たちは朝から番号を読み上げ、商会側の実納入控えと照らし合わせている。
私は薬材量の確認役として、ノエルとともに立ち会った。アマーリエは調査の始めに、私が関わる範囲を明確にした。
「ラングフォード公爵令嬢には、薬材名、標準量、単価差に関する専門確認を求めます。基金からどこへ金が流れたかの法的評価は、法務室が行います。負う必要のない判断まで背負わないでください」
「承知いたしました」
言われなければ、私はまた一枚でも多くの紙を自分で確かめようとしていただろう。母の帳面を見つけた喜びも、商会の裏控えを見た怒りも、まだ体内で熱を持っている。
帳面の照合は、派手なものではない。公式には月白草二十樽、実際には月白草十二樽と灰紫根八樽。月白草として基金が支払った金額から、灰紫根を仕入れた額と正規の加工費を差し引く。残る差額の振替票を追う。
一件目は、慈善晩餐会の会場装飾費だった。
二件目は、エルンスト侯爵家の借入返済を扱う金融商への支払い。
三件目は、理事長名義で発注された銀食器の代金の一部。
書記が淡々と読み上げるたび、私の手の中の薬材換算表が重くなる。患者へ届くはずだった月白草の代金が、侯爵家の見栄と負債を覆うために削られ、その不足を埋めるように灰紫根が粉へ混ぜられていた。
「慈善晩餐会は基金への寄付を募るための催しです」
別室から呼ばれたベレス商会主は、額に汗を浮かべながら弁明した。
「装飾費が事業と無関係だとは言い切れないでしょう。侯爵夫人は名望によって寄付を集めておられた」
アマーリエは振替票を一枚持ち上げた。
「寄付を集める費用であるなら、基金の正規会計へ計上されるべきです。この票には、薬材購入費として支払った額を理事長室承認で移した記録があります。薬材の内容を変更した上で差額を生み、その使途を隠した点が問題です」
ベレスは口を閉じ、今度は自分の責任を小さくするために言った。
「納入品の指定は理事長室から来ました。灰紫根を用いるよう指示されなければ、当商会も危険を冒しません」
「指示書はありますか」
「口頭と、承認番号です。理事長の指示がなければ、基金が支払うはずはない」
彼の言葉は侯爵夫人への責任を示す一方、自分が危険を知って納めたことも認めている。私は口を挟まず、実納入控えの灰紫根欄へ確認印を付けた。
ノエルがそばで小声で言った。
「そこまでで十分です。支払の評価は法務官へ」
私が金の流れから目を離せないことに気づいたのだろう。私は少しだけ悔しくなった。守られるばかりではなく、最後まで見届けたい。
「私が確認できる薬材量の欄は、もうありませんか」
「この束の最後に二件あります。そこまで一緒に確認し、休憩にしましょう」
止めろと命じるのではなく、仕事の終わりを区切ってくれた。その区切りを受け入れられる程度には、私は彼を信頼していた。
最後の二件も同じ仕組みだった。
月白草として払われた費用、安価な灰紫根の実納入、理事長室承認番号による差額の移動。偶発的な混入ではないことが、数字の列として積み上がる。
アマーリエは書記に暫定報告の起案を命じた。
「供給経路と資金移動については、理事長室への調査を進めます。あわせて、ラングフォード公爵令嬢への告発は、汚染報告と免除拒否の後に提出されており、報復目的の可能性が高いと記します」
私は思わず顔を上げた。
「私への疑いは、いつ撤回されるのでしょうか」
問いが出てから、急ぎすぎたかと思う。侯爵夫人の最終的な責任がまだ決まらないうちに、自分の名誉だけを求めるように聞こえたかもしれない。
しかしアマーリエは淡々と答えた。
「あなたへの告発に根拠がないと判断することと、相手の全責任を確定することは別です。前者は、必要な確認が済み次第、暫定裁定へ先に盛り込みます。潔白な者の名誉を、処分審査が長引くために保留してはなりません」
視界が一瞬、ぼやけた。
私の名は、侯爵夫人が落ちる日まで汚れたままにされるのではない。事実が揃ったところから、戻してもらえる。
ノエルが机の向こうから、紙の端へ視線を落とした。私が泣くかどうかを見定めるのではなく、こちらが顔を整える時間を見ないふりで与えてくれたようだった。
「ありがとうございます。必要な確認には協力いたします」
声を戻し、私は礼をした。
その時、法務室の扉の外が騒がしくなり、侯爵夫人の代理人が新しい弁明書を持参した。ヴァレリアは、侯爵家への支払いは慈善晩餐会を維持するための立替精算であり、灰紫根の混入については商会が勝手に品質を落としたのだと主張している。
「書面をお読みになりますか」
アマーリエが私に尋ねた。
以前の私は、相手の言葉を全て知らなければ自分を守れないと思っただろう。けれど今日の私が確認できるのは、薬材の量と種類だ。
「私の専門確認が必要な箇所があれば拝見します。侯爵夫人の弁明全体は、法務室の判断にお任せします」
ノエルが隣で、表情を変えないまま息を吐いた。安心したのだと決めつけるほど、私はまだ彼のことを知らない。それでも、私自身は少しだけ、全てを抱えずに済んだ。
アマーリエは弁明書を受け取り、商会の実納入控えと矛盾する部分のみ追加照会へ回した。侯爵夫人がどれほど高潔な言葉を重ねても、薬箱の中身と支払票の金額は変わらない。
昼過ぎ、薬草院へ戻ると、庭の乾燥網が空のまま風に揺れていた。汚染が確認された系列の粉末は止まり、代替の単材は調薬へすぐ回るため、網で乾かす余裕がないのだという。
配布係がこちらへ気づき、手を挙げる。
「明日から代替の解熱薬を通常数の半分まで増やせそうです。施療所の方々も、遅くても安全な方がいいと言ってくださいました」
相手を罰するためではなく、これを戻すために調べている。その事実が、疲れた背筋を立て直してくれた。
ノエルが院庭のベンチへ資料を置く。
「今日、よく続けられました。ですが、午後の記録整理はリュシーへ任せられます」
「一つだけ、確認してもよろしいですか」
「何でしょう」
「暫定報告へ、配布を再開できる見込みも記していただけますか。危険を止めただけで、慈善そのものが止まったように見せたくありません」
彼は、ほんの少し驚いた後に頷いた。
「法務官へ伝えます。あなたの希望として」
その時、受付からミナが急いで歩いてきた。手に、見慣れない細い封筒を持っている。
庭の端では、代替薬を積んだ小さな荷車が出発していった。まだ十分な数ではないが、箱には薬草院の鑑定印と施療所別の配布札が結ばれている。私はその荷車を見送り、自分の名誉を戻してもらうことを、初めて患者への安全と矛盾しない願いとして受け取れた。
「お嬢様、エルンスト侯爵令嬢とおっしゃる方から、面会を願う書状が届いております」
封筒の表には、震える筆でセシリア・エルンストと記されていた。
中の一文が、私の目を離させなかった。
叔母から受け取った命令書を、お持ちいたします。
封筒を受け取った指に、紙の薄さが伝わる。これまでの証拠箱に比べれば、あまりに軽い一通だった。それでも、選定委員としての侯爵夫人が私の告発へ関わったのなら、金の流れとは別の扉を開く。
私はミナへ面会の返事を書くための紙を頼んだ。相手が侯爵夫人の姪であるから会うのではない。自分の意思で書状を寄越した令嬢の言葉を、今度こそ誰かの許可を待たずに聞くためだった。