作品タイトル不明
第107話「よそのお屋敷のごちそう」
夕食会が始まる少し前。
僕は自室でシンプルな正装に着替え終わったところだった。
『ナビ、ネクタイ曲がってない?』
《はい。右に三ミリずれていますので、修正を推奨します》
『3ミリって……!そこまで細かく見なくていいよ!誰も気づかないって!』
《誤差の範囲内ですが、第一印象における完璧なシンメトリーは、相手に無意識の信頼感を与えます。バルカス卿との関係構築において、最適解を推奨します》
『……分かったよ、直せばいいんでしょ』
ナビの指示通りにネクタイの位置を直していると、コンコンと扉がノックされ母様が部屋を覗きに来た。
「まあ、メル。ちゃんと一人で着替えられたのね。えらいわ」
母様は優しい笑顔で近づくと、完璧にしたはずのネクタイにそっと手を伸ばした。
(あっ……結局、母様に直されたよ……)
「よし、これで完璧ですわ」
「あっありがとう、母様」
母様は「ふふっ」と微笑むと、僕の手を引いて部屋を出た。
「さあ、イリスは準備ができたかしら?」
隣のイリ姉の部屋のドアを、コンコンと優しくノックする。
するとドアの奥から、イリ姉の大きな声がかすかに聞こえてきた。
「ねえ、リディア!この髪飾りと、こっちのネックレス、どっちが似合うと思う!?」
「……」
「もう、リディアも悩まないでよー!」
(まだ悩んでるよ……)
母様が半分呆れたようにドア越しに声をかけた。
「イリス。もうお時間ですわよ。皆様をお待たせしてしまいますわ」
「はーい!今、最後の一個を決めるところよ!」
母様と二人顔を見合わせる。
しばらくしてガチャリとドアが開き、イリ姉が少し慌てた様子で顔を出した。
「お待たせ!リディアが完璧なのを選んでくれたの!」
僕がやれやれと思っていると、ちょうど向かいの部屋から父様も出てきた。
「おお、皆揃ったか。さあ、時間だ。バルトール卿をお待たせしないように」
「はい、父様!早く行きましょう!」
(いったい誰を待ってたと思ってるんだ……)
バルカス家の侍女さんに導かれて、僕たちは廊下を歩き、食堂へと向かった。
◇
そうして案内されたバルカス邸の食堂は、やっぱり広かった。
長いテーブルの上には、ぴかぴかの銀食器と磁器のお皿が並んでいる。
きれいに磨かれた 燭台(しょくだい) の光が、部屋を明るく照らしていた。
(うわあ……。緊張するなあ……)
ぞろぞろと席に着くと、さっそく料理が運ばれてきた。
前菜は、薄切りの魚の燻製だ。
香草油が一滴だけかけられていて、すごくいい匂いがする。
(ああ、これは絶対おいしいやつだ!)
僕はごくりと唾を飲んだ。
目の前には、スプーンも合わせて何本も銀食器が並んでいる。
右手側の一番外側にある小さなナイフに、そっと手を伸ばそうとした、その瞬間。
《メル、右手側の一番外側のナイフを使用してください》
『それくらい言われなくても分かってるって』
ナビに文句を言いながら、燻製を一口分だけ切って口に運ぶ。
塩気と燻した匂いが広がって、思わず顔がゆるんだ。
「おいしい!」
「はっはっは、メルヴィン様のお口に合いましたかな。それは、うちの領地で今朝獲れたばかりの魚を特別なチップで軽く 燻(いぶ) したものでございます」
「まあ、本当に素晴らしい香りですこと。ねえ、あなた」
「うむ。実に洗練された味だ。バルトール卿、これは見事ですな」
次に運ばれてきたのは魚団子のスープ。
そっとスプーンを手に取った瞬間。
《スープは音を立てずに、スプーンを手前から奥へ》
『分かってるってば!静かにしてて!料理に集中できないよ!』
(もう、これじゃあナビによる遠隔マナー教室だ……)
ほどなくしてスープ皿が静かに下げられ、いよいよメインディッシュが運ばれてきた。
大きな皿に乗せられた、湖で獲れたらしい魚の塩包み焼きだ。
「わあ、おっきい!あれ、お魚なの?」
イリ姉が、その迫力に声を上げる。
その驚いている姿にクラリス嬢は少し得意げに微笑んだ。
「それは塩の 釜(かま) ですわ。うちの料理長が、この中の魚を取り分けてくださいますのよ」
クラリス嬢の言葉どおり料理長が前に出てきて、塩の塊をナイフで慣れた手つきで「コンコン」と叩き割り中の魚を取り分けてくれる。
(うわあ、湯気がすごい……!これも美味しそうだ!)
それに合わせるように、大人たちの会話も、メインディッシュをきっかけに領地の話へと移っていった。
「これは見事な塩包み焼きですな。貴領の豊かな湖の恵みを感じます」
「はっはっは。ありがとうございます。ですが、フェリスウェル領のあの石畳の道こそ、実に素晴らしい。冬の物流が安定しますな」
「いえ、そちらの鉱山資源も羨ましい限りです。そういえば、例の温泉ですが……」
僕の前にも白身の切り身がふわりと置かれた。
塩釜で蒸された身から、湯気と一緒に魚のいい香りが立ちのぼる。
それを一口食べた瞬間、思わず目を丸くした。
(……!おいしい!)
ただの塩焼きとは全然違う、ふわふわの食感と、凝縮された魚の旨味。
「ちょっとメル!すごい顔してるわよ!」
向かいのイリ姉が、僕の顔を見てくすくす笑っている。
「ふふっ。メルヴィン様、お口に合いましたか?」
「う、うん。すごく……ふわふわしてて、凄くおいしいよ!」
慌てて口元をナプキンで隠しながら、なんとか答えた。
「ふふっ、お口に合ってよかったですわ。これはうちの自慢の一品なんですのよ」
僕は大人たちの難しい話をBGMに夢中になって魚を味わった。
(……よかった。よそのお屋敷のご飯、本当に美味しい)
予想以上の味にフォークが止まらなくて、そのあとに続いた料理も気づけばきれいに平らげてしまっていた。
甘いデザートまでしっかり味わい終えると、僕たちの前には温かい食後のお茶が並び、大人たちのグラスには赤いワインが注がれていった。
そんなひと息ついたタイミングで、エレオノーラ様が優しく提案してくれた。
「大人はサロンでゆっくりお話をいたしますから、子供たちは談話室で遊んではいかがかしら?」
「はい、お母様!」
クラリス嬢が立ち上がり「こちらへ」と僕たちに手招きした。
僕とイリ姉もそれに続いて席を立ち、そのあとに続いて食堂を出た。
廊下には、絵画や鎧みたいな装飾品がずらりと並んでいた。
「こちらは、わたくしの先々代のお祖父様ですわ」
「うわあ、すごい立派な髭……」
「鎧も立派でカッコイイわね!」
「ふふっありがとうございます。お祖父様も褒められて喜んでいますわ」
『ナビ、あの絵、いつ頃のやつ?』
《使用されている顔料から約150年前の作品と推定されます。また、あの鎧は儀礼用であり実戦には耐えられません》
『今はそういうのいいから……』
ナビの分析を適当に聞き流しつつ、僕たちはクラリス嬢のあとに続いた。
◇
子供用の小さな談話室に入ると、クラリス嬢が棚から一つの綺麗な箱を取り出した。
「これ、ほんとうに大事にしているんですのよ」
箱の中に入っていたのは、僕が作ったフェリスウェル製のトランプだった。
「じゃあ、ババ抜きしましょう!」
イリ姉の提案で、トランプが始まった。
……そして、イリ姉が負けた。
「くぅー!もう一回よ!」
「ふふん。わたくし、こういうのは得意ですのよ」
クラリス嬢が、ちょっと勝ち誇った顔をしている。
(なんだかんだで、二人ともすごく楽しそうだ)
そのあとは、クラリス嬢がバルカス領の昔ながらの遊びを教えてくれた。
盤の上で色のついた小石を並べていく簡単な陣取りゲームだ。
「ここに置くと、わたくしの石が増えるんですのよ」
「あ、ほんとだ……」
(これ、ルールは単純だけど、奥が深いかも。今度、村に帰ったらルカたちにも教えてあげようかな。こういうの好きそうだし)
僕たちが夢中になっていると、バルカス家の侍女さんが迎えに来た。
「お嬢様、皆様。もうお休みの時間でございます」
「まあ、もうそんな時間ですの?」
クラリス嬢が名残惜しそうに顔を上げる。
「えっ、もう?もっと遊びたかったのに」
イリ姉が名残惜しそうに立ち上がり、僕もそのあとに続いて席を立った。
みんなで入り口のほうへ歩き出したところで、別れ際クラリス嬢が僕たちに言った。
「明日は、本日お見せした中庭と、それから湖の見える場所もご案内しますわ。そこで、またトランプもしましょう?」
「もちろん!約束よ!」
イリ姉がクラリス嬢に笑顔で答えてから、くるっと僕のほうを向く。
「メル!あんた、明日、朝寝坊して遅刻したら許さないからね!」
(うっ……朝くらい、ゆっくり寝かせてほしいんだけど……)
イリ姉の釘を刺すような視線に、小さく頷くしかなかった。
「……うん。がんばる」
そして僕たちは、それぞれの客室へと戻っていった。