作品タイトル不明
第2話 なんですの、その蹴りは
朝、鏡を見た。
三年間かけて完成させた「完璧な公爵令嬢」の顔は、もうどこにもない。
髪は下ろしたまま。化粧は最低限。リボンなし。目の下にうっすら隈があるのは、昨夜なかなか寝つけなかったせいだ。興奮していたのだと思う。怖かったのかもしれない。どっちでもいい。
――うん。こっちの方がいい。
寮の廊下を歩くと、すれ違う生徒の視線が刺さった。昨日の今日だ。当たり前だろう。
「ねえ、あれクレーデル嬢よね」
「嘘、別人みたい」
「殿下に捨てられたショックで……」
聞こえている。前世で散々やられた陰口と同じだ。廊下の端っこでひそひそやるやつ。目は合わせないくせに声だけ届く距離で話すやつ。
一人が露骨にこちらを見て、すぐ逸らした。
――あ?
危ない。ガンを飛ばしかけた。深呼吸。ここは学園。私は公爵令嬢。前世の反射で睨んだら本当に素行不良になる。
教室に入ると、空気が変わった。隣の席の子が会釈だけして、それきり前を向いた。昨日まで「リゼット様、今日のお茶会は」と笑っていた子だ。
まあ、そうなるか。
猫をかぶっていた私に寄ってきた人は、猫が剥がれたら離れる。道理だ。
窓際の席に座った。机の角に小さな傷がある。一年の時に、教科書を落とした拍子についたやつだ。こういうものだけが変わらない。
午後。武術の授業。
学園の武術場は砂が敷かれていて、午後の日差しで妙に白っぽく光っている。砂の匂いがする。前世の校庭を思い出す匂いだった。
グレン教官が組み合わせを読み上げる。剣術の基礎、一対一の模擬戦。木剣を使う。
「クレーデル嬢とクラウゼン殿下」
ざわ、と空気が揺れた。
偶然か。あるいは偶然じゃないか。教官の顔を見たが、読み取れなかった。
殿下が木剣を持って前に出た。昨日の大広間と同じ顔をしている。顎を上げて、肩を引いて、全身で「僕は上だ」と主張する立ち方。
「丁度いい。出来損ないでも剣を持てば少しは見栄えがするだろう」
周囲が凍った。教官が眉を動かしたが、何も言わなかった。王太子相手に注意する教官は少ない。
木剣を握った。手に馴染む。三年間、武術の授業ではわざと下手に振る舞っていた。力を抜いて、動きを遅くして、適度に負けて。公爵令嬢に武術の才能なんていらないから。
でも、もう猫はいない。
「始め」
殿下が踏み込んできた。上段からの振り下ろし。教科書通り。綺麗な形だ。剣術学年二位は伊達じゃない。
でも、綺麗すぎる。
前世の私は、綺麗な攻撃には慣れている。道場で型を習った相手より、路地裏で何でもありの喧嘩を仕掛けてくるやつの方がよほど厄介だった。
木剣を半歩で躱した。
そこからは身体が勝手に動いた。
体を沈めて、軸足を回す。前世の癖だ。頭で考える前に、足が床を蹴っていた。
回し蹴り。
スカートの裾が翻って、爪先が殿下の木剣の腹を正確に捉えた。
乾いた音がして、木剣が殿下の手から弾け飛んだ。砂の上に転がって、二度跳ねて、止まった。
静寂。
殿下の手が宙に残っている。何が起きたか理解していない顔だった。
誰かが息を吐いた。それから、ぱらぱらと拍手が起きた。武術場の隅で、騎士科の生徒が何人か見学に来ていたらしい。
「な、なんですの、その蹴りは」
後ろの方で誰かが言った。うん、自分でもそう思う。令嬢が回し蹴りはないだろう。
殿下が私を見た。顔が赤い。怒りか、恥か、両方か。
何か言いかけて、やめて、木剣を拾い上げて、無言で元の位置に戻っていった。
言い返せないくらい、一瞬だったのだ。
――ごめん。いや、ごめんじゃないか。売られた喧嘩は買う主義なんだ。前世から。
授業が終わって、武術場の裏手で木剣を片付けていると、足音がした。
ブレンナーさんだった。昨日ハンカチをくれた人。
「拳を見せてください」
唐突だった。
「は?」
「木剣を握る時に力を入れすぎている。マメができているはずです」
言われて手を開いた。確かに、右手の人差し指と中指の付け根が赤くなっている。猫をかぶっていた三年間、まともに剣を振っていなかったから、皮膚が柔らかい。
ブレンナーさんが腰の鞄から小さな容器を取り出した。蓋を開けると、樫の実に似た匂いがした。薬草の軟膏だ。
断る間もなく、彼の指がマメの上に軟膏を塗り始めた。手つきが手慣れている。自分の手も傷だらけなんだろう。指先が硬い。
「あの蹴り」
塗りながら、低い声で言った。
「我流じゃない。誰かに教わりましたか」
心臓が一つ跳ねた。
「……なんのことでしょう」
「体重の乗せ方に癖がある。独学であの動きは出ない」
鋭い。困った。前世の自分に教わりました、とは言えない。
「秘密です」
我ながら雑な誤魔化しだ。でもそれ以上の嘘を咄嗟に思いつけなかった。
ブレンナーさんは追及しなかった。軟膏の蓋を閉めて、鞄に戻した。
武術場の方から声がした。騎士科の生徒だ。
「レオン、今日見学に来てたのか。予定になかっただろ」
ブレンナーさん――レオン、と呼ばれた人は、一瞬だけ間を置いた。
「……通りがかっただけだ」
通りがかりで軟膏を持ち歩いているものだろうか。騎士科の人は皆そうなのかもしれない。多分そうだ。
「ありがとうございます」
軟膏を塗ってもらった手を握ったり開いたりした。樫の実の匂いが指に残っている。
ブレンナーさんは頷いて、騎士科の校舎の方へ歩いていった。背中が真っ直ぐだった。
帰り道、寮へ向かう石畳の道を歩いていた。
夕方の風が冷たくなり始めている。秋だ。木の葉が一枚、足元に落ちてきた。踏んだら乾いた音がした。
ふと、首筋がざわついた。
前世の勘だ。誰かに見られている時の、あの感覚。背中の真ん中あたりがちりちりする。
振り返った。
石畳の道。植え込み。校舎の窓。夕日。
誰もいない。
気のせいか。
でも前世で、この感覚が外れたことはほとんどなかった。
靴紐をきつく結び直して、歩き出した。
明日も、素のままで行く。見られているなら、なおさら。