軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 王宮商業報告会、答え合わせのお時間です

「では、答え合わせをいたしましょう」

私、ハロルド・ランスロ王太子がそう告げた瞬間、王宮の大広間の空気は、確かに一度、静まった。

年次商業報告会、初夏の午後三時。

高窓から斜めに差す光が、敷き詰められた石の床に、長い格子の影を落としていた。

列席者は、王国各地の主要貴族家当主と、その代理。

それと、商業ギルド登録の、主だった商会主、数十名。

父王は、ご静養の予定が入ったとの理由で、この席を私にお任せくださった。

実際のご静養の予定は、私のほうから、念のため、三月前に勧めた。

この場の主語は、国王ではなく王太子である、ということを明確にしたかったからだ。

壇下、向かって左の最前列に、ヴィスコンティ公爵家のアルフレッド・ヴィスコンティ令息が座っていた。

公爵ご本人は、ご欠席だった。

「当主、体調不良につき、次期当主をもって代行いたさせていただきたい」。

そういう早馬が、二日前に王宮に届いていた。

——お察しする。

とても、公爵お一人では、この席にいらっしゃれなかったろう。

けれど、ご病気、というのは少しばかり、信じがたい。

書面に添えられていた筆跡は、いつもの公爵の剛直な字だった。

ご病気の方に、あの筆圧は出ない。

——代わりに、息子を出された。

それは公爵のご意思ではなく、——次男セドリックを領地に置いておくための、公爵のお選びだったのかもしれない。

そう見ている。

もう一つ、向かって右の貴族席の端に、ブランハルト辺境伯ウィルが座っていた。

いつもの大型犬のような顔ではなく、きちんと軍礼の正装で。

こちらの視線に気づくと、軽く会釈を寄越してきた。

横の席は、空いていた。

本来そこに座るべき人は、辺境領で桃のパイを焼いている、と、昨夜の早馬で届いていた。

年次報告は、商業ギルド長、グレゴリー老が開始した。

穏やかな、少ししわがれた声で、各地の四半期の商況が、粛々と読み上げられていった。

北部穀物、回復基調。

南部葡萄、三年ぶりの豊作。

東方海運、貿易量、微増。

列席者の、筆記役の羽ペンの音だけが、大広間に低く響いていた。

ギルド長の声が、ヴィスコンティ領の項目に差しかかった時、ペンの音が一斉に止まった。

「——ヴィスコンティ公爵領。今期四半期、税収、昨期比、四割減」

大広間の空気が、しん、と沈んだ。

「同公爵家、ギルド内商取引登録、信用ランクを三階級、降格。主要取引契約三十一件、すべて、登録拠点をブランハルト辺境伯領に移管済」

羽ペンの一本が、机にかたん、と置かれる音がした。

誰かが小さく息を呑んだ。

壇下、最前列のアルフレッド・ヴィスコンティの肩が、目に見えて硬直した。

彼は、書類の束を膝の上でめくっていた。

紙をめくる指が、止まっていた。

「ご報告の通りだ、ギルド長」

私は、玉座の肘に手を軽く置いた。

「では、ヴィスコンティ家、代理としてご列席の、アルフレッド・ヴィスコンティ令息」

「——は、はい」

「令息のご承知の範囲で構わぬ。貴家の商取引登録が『個人名義』でなされていた件について、確認させていただきたい」

「……」

「先月末の、婚約解消の手続き書類を、王宮顧問官のほうで拝見した」

隣の席の王宮顧問官が、羊皮紙を一束、掲げた。

「貴家の公的商取引契約、三十一件。すべて、締結者欄の筆頭はリリアーナ・クレイドル嬢の個人登録印である」

「それは、——承知しております、殿下」

アルフレッドの声は、上ずっていた。

「承知の上で、貴殿は先月末、同嬢との婚約を解消された。——そう受け取ってよろしいか」

「そ、それは、」

「婚約解消の事実を前提に、ギルド登録の個人名義の帰属も、同嬢の側に一本化された。——これも、事実でよろしいか」

「……」

「お返事を」

アルフレッドは、数秒、動けなかった。

唇が、二度、開いて閉じた。

「……事実、です」

かすれた声だった。

私はゆっくり、頷いた。

「——つまり、貴家の公的商取引の権限は、すでにリリアーナ嬢個人に帰属している。その事実を知りつつ、婚約を解消された」

「はい」

「それが、今期四半期の税収四割減の主因と、見てよろしいか」

アルフレッドの背中に、小さく痙攣のようなものが走った。

「——主因、は」

「いかに」

「……婚約解消後の商取引の事務的混乱が、主因であり」

「事務的、混乱」

私は静かに、その言葉を繰り返した。

「三十一件の取引相手が揃って、ブランハルト領に契約拠点を移したのは、『事務的混乱』であろうか」

「……」

「むしろ、商会各社の積極的な判断であった、とギルドからは報告を受けている」

大広間の貴族席のどこかで、小さな咳払いが一つ、聞こえた。

——さて、ここで気の毒ではある。

心の中で、少し呟いた。

けれど、王太子として、この場を穏便に流すわけにはいかない。

王国の商業ギルド登録制度というものは、家名ではなく、個人の登録印で成立している。

これは建国期、女性貴族が家業の実務を担うために、初代王妃のご発案で定められた制度だった。

「家紋で、契約を縛らない」。——百年動かない、王国の根のひとつだった。

その制度を軽んじた、というなら。

制度の、建国期からの意味を、あらためて、この場で確認する以外に、道はなかった。

大広間の左側の扉が、きい、と小さく開いた。

無音に近い足音で、一人の女性が入ってきた。

モランド男爵令嬢、セシリア。

婚約解消の場で、アルフレッドの隣に立っていた、あの令嬢である。

いらしているのは、知っていた。

年次報告会は、主要貴族家の当主もしくは次期当主に限って、公的に列席が認められる。彼女の位では、本来、ここには入れない。

けれど、彼女は「ヴィスコンティ令息の婚約者」としての特例の許可を取って、来ていた。

その許可は、この場で彼女自身が返すために、——たぶん、ここに来ていた。

セシリア嬢は、広間の中央まで歩いてきた。

壇上の私と、目が合った。

彼女は、深く礼を執った。

「——殿下、ご無礼をお許しくださいませ」

「モランド男爵令嬢、発言をお認めになる」

「ありがとうございます」

彼女は、顔を上げた。

目が、少し赤かった。

泣いていたのではない、と思う。夜を越えた赤さだった。

「私、セシリア・モランド、此度のヴィスコンティ公爵令息様との婚約話を、——この場にてお返し申し上げます」

広間の空気が、また一つ、ずれた。

アルフレッドが、振り向いた。

「……セシリア」

「私が今、アルフレッド様のお隣に立つのは、筋ではないと存じます」

彼女の声は、震えていなかった。

「婚約解消の日、私は涙を流しました」

「……」

「あの涙は、——本物ではございませんでした。ごめんなさい」

アルフレッドの顔から、血の気が引いていった。

「私は、家の借財の整理のために、アルフレッド様のお気持ちを受けました。それは紛れもない事実です」

「セシリア、何を」

「リリアーナ様には、殿下を通じて、——いえ、直接に、手紙でお詫びいたします」

セシリア嬢は、アルフレッドのほうを見た。

少しの、間。

「——私は、別の方と暮らして参ります」

広間の奥の扉の陰に、一人の若い男性が立っていた。

絵の具の染みのついた、粗末な上着だった。

彼女は、その男性のほうへ向かって、歩き出した。

大広間を出ていく、セシリア嬢と画家の青年の影を、アルフレッドは壇下の席から振り向いたまま、見送っていた。

その背中に、声をかけるでもなく。

立ち上がりもしなかった。

「——ご静粛に」

私は、軽く手を挙げた。

「ヴィスコンティ令息」

「……はい」

「先ほどの事柄は、本日の商業報告とは別の事柄として扱う。よろしいか」

「……はい」

「では、本題、続けてよろしいか」

返事はなかった。

私は、咳払いを一つ落とした。

商業ギルド長、グレゴリー老が、二通目の書面を読み上げた。

「本日付、ヴィスコンティ公爵家より、王宮宛、公式書簡の代読を預かっております」

「伺う」

老ギルド長が、咳払いをした。

「『当家、家督を次男セドリック・ヴィスコンティに譲り渡す旨、王家にご報告申し上げる』」

「——預かった」

「『本件、当主、公爵家当主ヴィスコンティ・レオハルト本人の意思である』」

私は、頷いた。

大広間の貴族席から、ごく静かなため息が、あちこちで漏れた。

敵意、ではなかった。

ただ、長い貴族付き合いの、その長い重さだけが、その息に含まれていた。

壇下、最前列で、アルフレッドは、——頭を垂れていた。

垂れた頭の後ろに、誰かの呟きが聞こえた。

貴族席の、二列目の老伯爵だった。

「——ヴィスコンティ家は、リリアーナ嬢を手放したときに終わったな」

その呟きは、隣の席の侯爵へ、静かに伝えられた。

侯爵は、短く頷いた。

頷いた人が、他にも何人もいた。

辺境領、ブランハルト城、厨房。

同じ頃。

私、リリアーナ・クレイドルは、エプロンに粉をこぼしていた。

「お義姉さま、お義姉さま、桃、もう並べました」

「はい、ミア様。じゃあ、この生地、上に、——」

厨房の古い竈の前で、ミア嬢が、桃の甘い匂いに、鼻をくすくすしていた。

桃畑は、まだ花の季節のすこしあと。早生種の一部だけが、小さな、まだ酸味の残る実をつけていた。

それを、ミア嬢が「パイにします」と言って、朝から聞かなかった。

私は、言われた通り、生地を伸ばした。

「——王都、今頃、ですかね」

「……そうですね」

竈の中で、火がじじ、と静かに鳴っていた。

厨房の、窓の外、遠くの鍛冶場のふいごの音が、規則的に聞こえていた。

その音が、妙に胸に近かった。

同じ頃。王宮、大広間。

報告会の閉会が告げられ、列席者が、ざわ、と席を立ちはじめた頃。

アルフレッド・ヴィスコンティは、最前列の自分の椅子に、座ったまま動けずにいた。

足元に、報告書の束が落ちていた。

拾う気配も、ない。

壇上から、私はその姿を見ていた。

——弟、セドリックを頼れる家だ。

気の毒では、ある。

けれど、気の毒、という感情は、王太子のこの場の最終判断には、関わらない。

判断の材料は、先ほどギルド長の口から、公的に読み上げられた通りだった。

私は、席を立ち、壇を降りた。