軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 桃畑で、商会共同経営契約書と、もう一枚

桃が、咲いていた。

辺境領、西側の斜面。早朝の薄い靄の向こうに、淡い桃色が一面に広がっていた。

春の早い、辺境領の桃。

一月前、花のほとんどは散り、早生種の小さな実が、枝先にようやく膨らみかけた頃だった。

王都から、報告会の事後処理のため、ウィル様が城に戻られたのは、三日前。

その翌日、早馬で、残りの詳細の書面が届いた。

昨日、私はずっと、その書面を読んでいた。

今朝、ウィル様に「桃畑に行きませんか」と誘われた。

書面を肘掛けに置いたまま、私は上着を取りに立った。

斜面の下のほうから、遠く、鐘の音が一つ聞こえた。

辺境領の朝は、王都のそれよりも、光の差し込む角度が少し斜めだった。山の向こうから、陽が回り込んでくる時間が長いせいだった。

ウィル様は、斜面の中ほどの、古い切り株のところで足を止めた。

二人分の腰を下ろせるくらいの大きさの、切り株だった。

並んで、座った。

ウィル様は、私の手の中の書面の束を一度、見た。

「ご覧になれました?」

「はい」

「——どう、思われましたか」

少し、考えた。

風が、斜面の下から吹き上げてきた。

桃の甘い匂いに、まだ咲き残った花の、少し冷たい香りが混ざっていた。

書面には、王宮の簡潔な事後報告が並んでいた。

ヴィスコンティ公爵家、家督、次男セドリック・ヴィスコンティに正式譲渡。

アルフレッド・ヴィスコンティ元令息、王宮、文芸顧問職に任命。

モランド男爵令嬢セシリア、婚約辞退、正式受理。

それから、最後の一枚に、個人名義の走り書きが添えられていた。

王太子ハロルドの筆跡だった。

『一連の件、ご心労、労いたい。

王宮の、建国期からの登録制度が、正しく機能したこと、礼を申し上げる。

貴女の八年の実務が、王国の根を支えていた。

——王太子として、改めて感謝する』

八年、とその一文に書いてあった。

数字にすれば、短い。

書いてある一文も、短い。

けれど昨夜、私はその紙を、しばらく胸の前で持っていた。

——気づいてくださっていた人が、もう一人、いた。

そう思っただけで、嗚咽とも笑いともつかない、細い息が、喉の奥から漏れた。

それは、昨夜のうちに済ませてあった。

今朝は、もう、泣かずに済んだ。

「——お疲れさまでした、アルフレッド様」

ぽつり、と声に出た。

ウィル様が、少しだけこちらを見た。

「ご夫妻にも、この一言で終わらせます」

「……はい」

「それ以上は、私が言うことではないので」

風が、もう一度、斜面を駆け上がった。

遠く、山の雪が、陽を受けて、端のほうだけ眩しかった。

ウィル様は、頷きもしなかった。

ただ黙って、私の膝の上の書面を手に取った。

「——よろしければ、これ、預からせて」

「どうぞ」

彼は書面を、ご自身の外套の内側のポケットに、丁寧にしまった。

それから、別の内ポケットから、別の紙の束を取り出した。

「さて、——本題です」

声の温度が、今朝、初めて少し変わった。

ウィル様は、膝の上で紙の束を、きちんと揃えた。

「一枚、目」

差し出された。

『ブランハルト辺境伯領商会、共同経営契約書』

一番下の、共同経営者の欄に、すでにウィル様の署名が入っていた。

ただし、私の欄は空白だった。

「——いつの、書式ですか、これ」

「半月前です。王都に行く前に、用意しておきました」

「……半月」

「はい」

「半月、——前」

「それより前から書きたかったんですが、——一応、告白が先のほうが、順番として正しい気がして」

私の頬の熱さを、彼は見ていないふりをしていた。

(……見ていない、と仰るなら、それでいいです)

自分の内心に、自分で返事をした。

「二枚、目」

差し出された。

差し出したウィル様の指先が、ほんの少し震えていた。

昨夜まで、私の手がずっと震えていたように。

——今朝、先に震えていたのは、彼のほうだった。

『婚姻誓約書』

右下の、男方の欄に、ウィル・ブランハルトの署名が入っていた。

「——僕の正式な取引相手に、ようやくなれます」

ぼそり、と仰った。

少しだけ、はにかんだ顔で。

三年前、ギルドで私の字をはじめて見たという、あの日から、たぶんずっと抱えていた、祈りのような一言だった。

私はペンを受け取った。

指が、思った以上に震えた。

隣で、ウィル様の指も震えていた。

「——どうぞ」

「——はい」

一枚目に、私は自分の名前を書いた。

「リリアーナ・クレイドル」

個人登録印を、その右隣に押した。

二枚目の女方の欄に、もう一度、同じ名前を書いた。

そちらには、印は押さなかった。

代わりに、ウィル様の署名のすぐ下に、名前だけ並べた。

公爵家紋のない、家名のない、ただ、私の字の名前だった。

——嫁ぐ、という言い方は、今朝はしなかった。

並ぶ、と思った。

手に、震えが残っていた。

その震えの手を、ウィル様が自分の片方の手のひらで、上からそっと覆った。

重ねた、というより、——受け止めた、というほうが近かった。

「——お義姉さまああああ!」

斜面の下のほうから、張り上げた声が届いた。

振り向くと、ミア嬢が両手を大きく振っていた。

城の厨房のエプロンを、まだつけたままだった。

「桃のパイ、焼けたよ! 焦げそう!」

「あ、は、はい、今、参ります」

「お兄様、お義姉さまを連れてきてーっ」

ミア嬢は、それだけ言うと、また城のほうへ駆け戻っていった。

ウィル様が、ふっ、と息を吐いた。

「——妹、若干、空気、読まないんですよね」

「……はい」

「でも、大事な場面で、必ず、こうなんです」

「……それは、わかります」

思わず、笑ってしまった。

ウィル様も、肩を揺らして笑った。

斜面の、桃の枝の間から、朝の光が、私たちの座った切り株のところに、斜めにこぼれていた。

城の厨房の扉をくぐると、バターと、桃の甘い匂いが、一気に肩に降りてきた。

食卓の真ん中に、大きな、焼き上がったばかりの桃のパイが置かれていた。

表面の、格子の生地の焦げ目が、綺麗に色づいていた。

ミア嬢が、自慢げに腰に手を当てている。

「お義姉さまに教わった通りに、焼きました!」

「本当に、綺麗」

「焦げる寸前まで、気づかなかっただけですけど」

小さな笑いが、三人の間に落ちた。

ウィル様が、皿を取りに棚のほうへ歩いていった。

私はミア嬢の隣に立って、パイの熱気を頬に受けていた。

その皿の向こう側に。

窓から差し込む朝の光の、その奥に。

八年の記憶が、薄く重なった。

十五歳の春、公爵邸の応接間で、はじめてアルフレッド様とお会いした日。

十九歳の冬、北部穀物商会に三往復、馬車で通った日。

二十三歳の初夏、はじめて自分の登録印を持って、ギルドに歩いていった日。

そして、八年のあとの初夏。

応接間で紅茶がぬるくなっていた、あの日。

「他に、好きな人ができた」と言われた、その日の自分の笑顔が、遠く、他人の顔のように浮かんだ。

——あの日、私は八年の私自身に向かって、呟いたのだった。

お気遣いなく、もう他人ですので、と。

今朝、私は同じ自分に、違う一言を贈れる気がした。

ミア嬢が、パイを切り分けた。

ウィル様が、皿を並べた。

私は、小さいフォークを手に取った。

切り分けられた桃が、湯気を立てていた。

——八年前、婚約した日も、桃の季節だった。

あの日の私は、誰かに愛されたいと願っていた。

今の私は、誰かを愛している。

それだけで、——もう、十分でした。