軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 『君の数字の書き方が、好きだ』

翌朝は、雨だった。

辺境領の、初夏の、細くて長い雨だった。

窓硝子を縦に、すじが何本も流れていた。

私は朝食の席に遅れて降りた。

昨夜、結局、ほとんど眠れなかった。

封の切られていない招待状を、机の端から動かせないまま、夜を明かしてしまった。

食堂には、ウィル様がすでにいらした。

隣の席では、ミア嬢が、大きめのカップでミルクティーをすすっていた。

「お義姉さま、おはようございます」

「——おはよう、ミア様」

「目、赤い」

「少し、夜更かしを」

ミア嬢は、こちらを見て、ほんの少しだけ首を傾げた。

それから、ふわりと笑った。

「お兄様、頑張ってください」

「……ミア、食事中」

ウィル様は、パンをちぎった。

耳の縁が、ほんのり赤かった。

朝食のあと、ウィル様に執務室のほうで、と呼ばれた。

「お話があるので」

「はい」

短い遣り取りだった。

廊下を歩いている間、雨音が窓の外から、絶えず響いていた。

私は昨夜、自分が口にした言葉のことを、繰り返し思い出していた。

——貴族令嬢としては、もう半ば、傷物。

言葉にした瞬間、それが自分の本音の半分でしかないことに、気づいてしまった。

本音のもう半分は、もっと単純で、みっともないものだった。

(——この人の邪魔になりたくない)

廊下の絨毯を踏む、自分の靴の音が、妙にはっきり聞こえていた。

執務室の机の上には、大きな木の箱が一つ、置かれていた。

ウィル様が、無言で蓋を開けた。

——帳簿が何冊も。

それから紙束が、数束。全部写しで、全部古かった。

端の、角の擦れ方で分かった。

私が十七の頃から、十八、十九、二十、と歳を重ねるごとに書き溜めてきた、領地の改善案と、交易路の提言と、北部穀物商会の契約記録の、その原本の、——写し。

「これ、は」

「三年前から、少しずつ、ギルドの写本係に頼んで、集めてもらったものです」

ウィル様は、机の脇に立ったまま仰った。

「買っていました、全部」

雨の音が、窓の外で細く続いていた。

私は一冊、手に取った。

表紙の端に、薄いインクの染みがあった。十七の春、初めて会議で担当した時、父に「持って行きなさい」と頂いた、自分のインクの染みだった。

——こんなものまで。

指の先が、じん、と痺れた。

「三年前、僕は商業ギルドの集会室で、たまたま、この写しの一部を見ました」

ウィル様の声は、静かだった。

「北部穀物商会との、三回目の会談記録、でした」

「……」

「その書類の右の余白に、細かい字で『この提案は、商会側の職人に、冬の手当てを厚く回すための譲歩である』と、——書いてありました」

「……」

「僕は、貴族の名で、国境の兵を何百人も動かす、仕事をしている人間です」

「はい」

「兵の冬の手当てを、書類の余白に気にかけて書く貴族を、一人も知らなかった」

指で、帳簿を押さえていた。

自分の指が震えているのが、わかった。

「それから、少しずつ書類を集めるようになりました。気がつけば、三年、集めていました」

「——お仕事の、資料として」

「いえ」

ウィル様は、少し笑った。

「言い訳です、それ」

「……」

「本当は、——あなたがどういう人なのか、知りたかったんです」

雨の音が、一度、大きくなった。

次の一言が来るまでの数秒のあいだ、私はたぶん、息をしていなかった。

ウィル様が、机の縁に軽く手を置いた。

私の隣の、ぎりぎり触れない距離で立っていた。

「——君の、数字の書き方が、好きだ」

声は低くなっていなかった。

むしろ、いつも通り穏やかだった。

それが、余計に効いた。

「丁寧で、余白が余らないくらい細かくて、書類の中に、関わる人間の生活がちゃんと入っている、——そういう数字の書き方をする人を」

一呼吸。

「——僕は、好きです」

——、

——。

耳の奥で、何かの音が消えた。

雨の音も、窓の外の遠い鍛冶場のふいごの音も、一瞬、全部聞こえなくなった。

胸の奥で、昨夜から沈んでいた重たいものが、ぐらり、と揺れた。

「——私、」

声が、出そうで出なかった。

「私、——」

「はい」

「……七年、誰にも、見てもらえないと思っていたのです」

「はい」

「八年、——」

言いかけて、もう一度、言い直した。

「八年、見てもらえなかったのを、正確に申しますと、前世と合わせると、もう少し長い気がします」

ウィル様が、目をほんの少し見開いた。

私は慌てて、口を塞ぎかけた。

前世の話をした覚えはなかった。でも、この方なら、なぜか、言ってもいい気がした。

ウィル様は、少しの間、考えた。

それから、穏やかに仰った。

「——僕は三年、見ていました。けれど、あなた自身が気づく前から、ずっと見ていたとは申せません。そこは正直に言います」

「……はい」

「ただ、三年前から今日まで、ずっと見ています。これから先も、見ます」

「……」

「身分とか、家とかの話を、昨夜、君はしてくれましたが」

ウィル様は、手を机から離した。

私のほうへ、一歩踏み出した。

「——僕は、そういう理由で人を選びません」

「——」

「僕が選ぶのは、君です」

一歩。

もう一歩。

気づいたら、ウィル様の外套の、いつもの革と焚き木と、鞣した皮の匂いが、頬の近くにあった。

抱き寄せられた、という言い方は違っていた。

——抱きしめられた、とも、少し違った。

ウィル様は、私の肩のあたりに、そっと両腕を回した。

力は、こもっていなかった。

ただ、そこに重みがあった。

——五時間、馬車の中で外套を私の肩にかけたまま、動かなかった、あの重みだった。

顔を見られたくなくて、私は彼の胸元に、額をつけた。

衣擦れの音だけが、静かに耳元に落ちた。

涙は、出なかった。

出る代わりに、喉の奥で、笑いのような、息のような、小さな音が漏れた。

(……ああ、——見つかってしまった)

前世でも今世でも、——ずっと、誰にも見つけてもらえないと思っていた、私の、仕事の、字のことが。

見つけてくれた人の外套の下に、今、いた。

胸の鐘は、鳴らなかった。

代わりに、何かもっと柔らかい、湯のようなものが、胸のところに、ただ満ちていた。

どのくらいの時間そうしていたか、覚えていない。

窓の外の雨が少し弱まる頃、私はゆっくり身を起こした。

ウィル様も、ちょうど同じ間合いで、腕を解いた。

何度も練習してきたような、自然な離れ方だった。

目を合わせられなかった。

合わせられないまま、私は呟いた。

「——招待状、受けます」

「はい」

「ただ、王宮には私、伺いません」

「——え」

ウィル様が、珍しく驚いた顔をした。

「私が壇上に出ると、アルフレッド様もセシリア様も、ご両親様も、逃げ道のない吊るし上げになります。私はそれはしたくないのです」

「……」

「けれど、逃げ道がない、ということそのものは、王太子殿下とギルド長様が公式の場でお作りになるべきです」

「……」

「私は、当事者ではもう、ない。共同経営者の一人として、辺境領で仕事をします。殿下のご指名にお応えするのは、ウィル様お一人で十分です」

ウィル様は、しばらく私を見ていた。

それから、ゆっくり頷いた。

「——承知しました」

「よろしくお願いします」

「一つ、条件を」

「はい」

「僕が王宮から戻ってきたら、桃畑を一緒に歩いてください」

「……桃畑、ですか」

「春のほうの、桃畑の話です。辺境領の西側の斜面にあるのです」

ウィル様は、少しだけまた、耳の縁を赤くしていた。

「お願いがあるので、——その時に」

執務室を出て、廊下の、雨の窓のそばで、私はしばらく足を止めていた。

硝子の、細い雨のすじを、眺めていた。

指の先が、また少し震えていた。

——桃畑で、お願いがある。

その意味を、私はたぶん、もう半分わかってしまっていた。

わかっていて、喉の奥で、勝手に笑ってしまった。

窓硝子に映った、自分の顔を見た。

目の下が、少しだけ赤かった。

夜更かしのせいか、別の何かのせいか、自分でも区別がつかなかった。

その夜、執務机の上で、私は招待状の封を初めて切った。

中から出てきた文面は、形式通りだった。

王宮、年次商業報告会、出席要請。

同封の、小さな別紙、一枚。

そこに、王太子ハロルドの筆跡で、ただ一文、こう書かれていた。

『欠席の由、承った。答え合わせは、こちらで引き受けよう』

——答え合わせ。

私は別紙を、ランプの光にかざした。

王太子殿下の字は、丁寧で、少し短気な跳ねがあった。

——殿下は、ご存知だったのだ。

たぶん、随分、前から。