軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話 公爵夫妻、辺境城の門前にて

「開門せよ! ヴィスコンティ公爵が参られた!」

朝霧の残る大門の外で、公爵家の従者の張り上げた声が、石壁に反響した。

ブランハルト城の見張り塔の鐘が、一度だけ短く鳴った。

三日後、と書かれた書簡の通りの、三日後の朝だった。

書簡には、到着予定の時刻も、同行人数も、面会を希望する用件も、一切書かれていなかった。ただ、「訪問予定」とだけ。

公爵家の流儀で言えば、それは、断られることを最初から想定していない、という意味だった。

私は、城の内門の、さらに内側の、中庭の回廊にいた。

眠れなかったわけではない。ただ朝の早い時間に、自然と目が覚めてしまった。

ウィル様はすでに大門のほうへ向かわれていた。

「リリアーナ嬢は、ここに」

「私も、ご一緒します」

「——いえ」

ウィル様は、普段通りの穏やかな声で、首を横に振った。

「まず、僕が受けます。呼ばれてから来てください」

迷いながら、頷いた。

頷いてから、私はずっと、中庭の回廊の柱に手のひらを当てていた。

石の柱の、朝の冷たさだけが、指のあいだに残っていた。

大門の前に、ヴィスコンティ公爵ご夫妻と、随員数名が立っていた。

馬車はさらに後方。あえて、馬車から降りて、大門の前まで歩いてこられたらしい。

「ブランハルト辺境伯。朝の早い時刻に、失礼する」

公爵の声は、貴族会議の席で聞いていた時と変わらない、重く落ち着いた声だった。

「ヴィスコンティ公爵、ご機嫌うるわしゅう。急なご訪問と承っております」

ウィル様の声も、穏やかだった。

けれど、大門の扉は開かれていなかった。

開かれているのは、扉の中の小さなくぐり戸の、さらに小さな格子窓だけだった。

「城内にて、話を」

「僭越ながら、ご用件を伺ってから、ご案内の手順をお決めいたしたく」

ウィル様の声が、わずかに格子窓のほうへ寄った。

「——息子の非礼を、詫びに来た」

公爵が、静かに仰った。

「その上で、リリアーナ嬢を、どうか、我が家に返していただきたい」

その言葉を、回廊の柱の陰で、私は確かに聞いた。

——返していただきたい。

十五で、公爵家に婚約者として迎え入れられた日、公爵は確か、私に穏やかに仰った。

「貴殿の一族の支えを、我が家にお貸しいただきたい」

同じ、貸し借りの語彙だった。

違うのは、主語だった。

あの日「貸していただく」と仰った公爵が、今日「返していただきたい」と仰っている。

私は、物ではないはずだった。

「——公爵、ひとつ、確認させてくださいませ」

ウィル様の声が、格子の向こうに通った。

「返す、とは、どういう意味でございますか」

「そのままの意味だ」

「彼女は、我が辺境領商会の共同経営者でございます」

「それは存じている」

「ですが、彼女は物でも、預かり品でもございません」

ウィル様の声は、変わらず低かった。

ただ、そこには、先日セシリア嬢を見送った時と同じ、辺境伯の重さが乗っていた。

「——戻すか、戻さないかは、彼女お一人がお決めになることと存じます」

公爵は、しばらく沈黙した。

その隣で、公爵夫人のため息が、格子越しに届いた。

「——商売女の、娘ごときが」

呟くような、低い声だった。

公爵夫人は、多分、ウィル様にだけ聞こえる程度の声量で仰ったのだと思う。

けれど、公爵夫人の声は、もともと朗々と響く声質だった。歌の得意な方だった。夜会の舞踏の合間に、即興の歌を披露されることも、よくあった。

八年の間、私はその声を、無数に聞いてきた。

「我が家を、よくも——」

「——黙りなさい」

公爵の声が、低く割って入った。

今度は、格子の向こうのウィル様ではなく、夫人に向けられた声だった。

朝の大門の前の空気が、一拍、止まった。

「夫人、我が家を八年支えてこられたのは、あの娘だ」

「あなた」

「——支えていた事実を知っていて、お前を黙認してきた、私の罪も、今日、詫びに来たのだ」

「……」

「お黙りを」

公爵夫人は、目を見張った。

その目が微かに震えていた。

格子の向こうで、ウィル様が短く礼を執った。

「——リリアーナ嬢を、お呼びいたします」

ウィル様が、従卒に合図を送った。

回廊の柱から、私は身を起こした。

柱の冷たさを、指からゆっくりと離した。

——歩みを止めないことだけ、自分に言い聞かせた。

大門の前の、内側の、小さな通用口から、私は一歩、出た。

砂利を踏む音が、思ったより、乾いて大きかった。

公爵が、私を見た。

公爵夫人も、見た。

「リリアーナ嬢」

「——お義父、様」

つい、昨日までの呼び方が出た。

すぐに、口の中で言葉を改めた。

「ヴィスコンティ公爵。ご機嫌うるわしゅう」

公爵は、ほんの少し目を伏せた。

そうして、言った。

「済まなかった」

私は返事をしなかった。

返事をすべきではない、と、とっさに思ったのだった。

「許してほしい、とは申さぬ。ただ、八年の礼を、今日は伝えに参った」

「——ありがたく、頂戴いたします」

夫人は、私の顔を一瞬見たあと、視線を逸らした。

「私は、辺境領に残ります」

公爵は、一度、頷いた。

「そうか」

「お義父様——いえ、公爵。どうか、お帰りのご道中、お気をつけて」

公爵夫妻は、もう何も言わなかった。

随員に支えられるように、公爵夫人が先に馬車のほうへ戻っていった。

公爵は、最後に一度だけ、ウィル様に深く頭を下げた。

その頭が、ほんの少しの間、上がらなかった。

公爵、というより、娘を託しに来た、一人の老いた父親の頭だった。

馬車が大門の外の道を、ゆっくり下っていく。

砂利の音が、遠ざかる。

ウィル様が、私の隣に戻ってきた。

しばらく、二人とも、何も言わなかった。

遠くで、城の見張り塔の上の鐘が、小さく一度、鳴った。

その後、王都、ヴィスコンティ公爵邸の執務室。

僕は、扉の前の廊下に、立ったまま動けずにいた。

執務室の中から、弟の声が聞こえていた。

「父上。この帳簿の、北部穀物商会の項目ですが——余白に小さく、義姉上の改善案が書いてあります。採用してよろしいですか」

「そのまま採用せよ」

「は」

弟セドリックは、僕より七つ年下の、まだ線の細い少年だった。

この一月ほど、父上は、領地の差配について、セドリックを直接、執務室に呼ばれるようになった。僕には、何も仰らずに。

扉の隙間から、紙をめくる音だけが聞こえていた。

——義姉上、と。

弟は、彼女をそう呼んでいた。

僕の婚約者としてではなく、ただ、帳簿の余白に字を残した、この家の恩人として。

廊下の絨毯の、細かい模様の上に、僕の視線は、落ちたまま動かなかった。

辺境領。

その夜、私は一人で、執務室にいた。

机の上には、昼過ぎに、王都から届いたばかりの、一通の封書が置いてあった。

——『王宮、年次商業報告会、ご招待』

王太子ハロルド殿下、直々の、署名入りの招待状。

商業ギルドと、王宮が、年に一度だけ合同で開く、全貴族、全主要商会が参集する、公の場への招待だった。

ウィル様には、すでに数日前に、同じ封書が届いていた。

私の分は、今日、遅れて届いた。

つまり、——私は名指しで呼ばれていた。

窓の外を、風が渡っていく。

私は、招待状の封を、まだ切らずにいた。

コツ、とノックが鳴った。

ウィル様だった。

今夜は、紅茶は運ばれていなかった。

「……お邪魔しても」

「はい、どうぞ」

入ってきて、机の向かい、いつもの椅子に腰を下ろした。

「招待状のこと、聞きました」

「はい」

「——受けますか」

私は、指を机の端に置いた。

爪の先が、白くなっていた。

「ウィル様」

「はい」

「私、今日、公爵夫妻の前で、立っていたのです」

「はい」

「お義父様、いえ、公爵に、『済まなかった』と仰っていただきました」

「はい」

「——私、いらない人間になりたくなくて、頑張っていたのだと気づきました」

言葉が、うまく出なかった。

息を、短く吸った。

「私、貴族令嬢としては、たぶん、もう半ば、傷物です。八年婚約していて、最後に、相手に『好きな人ができた』と言われた女です」

「……」

「辺境伯領の共同経営者として、ウィル様のお仕事のお邪魔にならなければ、よいのですが」

顔を、上げられなかった。

自分で喋りながら、声が妙に硬くなっていくのがわかった。

——そうしないと、たぶん、別のものが口から出そうだった。

机の向かいで、ウィル様はしばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

「それは、——君が決めることじゃない」

顔を、上げた。

ウィル様は、笑ってはいなかった。

いつもの、穏やかな、軽い笑顔ではなかった。

ただ、こちらを見ていた。

「続きは、明日、お話しさせてください」

そう言うと、彼は立ち上がり、入ってきた時と同じ静けさで、執務室を出ていった。

扉が閉まった。

ランプの火が、ちり、と小さく鳴った。

机の上の、封の切られていない招待状が、影を長く落としていた。

——君が決めることじゃない。

胸の奥の鐘の音は、鳴らなかった。

代わりに、何かもっと静かで、重たいものが、ゆっくりと沈んでいった。

窓の外は、深い夜だった。

私はランプの火芯を落とさずに、ただ、机の前に座っていた。