軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 公爵領税収二割減、夜更けの執務室に紅茶が運ばれて

辺境領に来て半月が過ぎた頃、王都から、匿名の早馬が届いた。

差出人は商業ギルドの老ギルド長、グレゴリー氏だった。

『ヴィスコンティ公爵家の今期四半期、税収二割減の公算。ギルド内にて非公式に報告済。貴公の件と関連があるかと思われ、念のため、お伝えいたします』

老人らしい、素っ気ない字だった。

机の上で、ひらりと一枚、風に煽られた。

——二割、減。

想定より早かった。

昼食のあと、執務室の隣の作業室に、ミア嬢がお茶の盆を持って顔を出した。

「お義姉さま、ひと休みしませんか」

「あと、この書類だけ」

「お兄様もそう仰って、結局三時間出てこないんですよ」

「……ウィル様は、何をそんなに」

「お義姉さまの字の書類を、何度も読み返してます」

ミア嬢はけろっと言った。

湯気の立つ茶器を私の手元まで運ぶと、彼女は向かい側の椅子にちょこんと座った。

「お聞きしてもいいですか、お義姉さま」

「なんでしょう」

「ヴィスコンティのご令息様って、どういう方でした?」

ペンを止めた。

ミア嬢の目は、子供の好奇心の形ではなかった。十五歳の妹君の目は、思ったより、だいぶ大人だった。

「——詩と剣術のお上手な方でしたよ」

「あと」

「あと……」

少しだけ、考え込んだ。

「声が、綺麗でした」

「声」

「朗読の会で、吟じられると、会場中がしんと静まって」

ミア嬢は少し待った。それから、ゆっくりと頷いた。

「声、でしたか」

「ええ」

「……声だけ、だったんですね」

私は、答えられなかった。

妹君は茶器の縁を指でなぞり、一度だけ、そっと肩をすくめた。

同じ頃。

王都、ヴィスコンティ公爵邸の執務室。

革張りの椅子に座った父、ヴィスコンティ公爵の指が、机の四分の一ほどを占領した帳簿の山の上で止まっていた。

帳簿を開いた父の目は、一点を見ている。

右の頁の下段、細かく書き込まれた改善案の、その字の端正さを。

「アルフレッド」

「……はい、父上」

執務室の扉の前で、私は父に呼び出されていた。

「この八年の領地報告書、お前が書いたものはいったいどれだ」

喉が、鳴った。

答えを用意していなかった。

「いえ、父上、それは」

「どれだ」

父の声が低くなると、昔から、風の止まる感じがした。

執務室の窓の外で、いつもさえずっているはずの雀が、今日は一羽も鳴いていない。

「……どれも、僕は監修を」

「監修」

「はい、監修を」

「筆跡は」

「——代筆を、頼んだことは、あります」

「誰に」

「そ、それは」

「誰に、頼んだ」

帳簿の右の頁の、余白の、細かな字。

父の目が、私の顔にゆっくりと戻ってくる。

わかっているのだ、父上は。

知っていて、見ないふりをしてきたのだ。それをやめる決心を、たぶん今日、なさったのだ。

僕は、口を動かそうとして、動かせなかった。

執務室を辞したあと、長い廊下を歩きながら、僕はずっと右手を握り直していた。

婚約解消の日、セシリアの肩を抱いていたこの手が、なぜか妙に冷たかった。

あの日、リリアーナは笑って、お祝いの品を発注した。

「——お気遣いなく。もう他人ですので」

馬車に乗る前、廊下の角を曲がり際に、彼女が小さく呟いた声を、僕は確かに聞いていた。

他人。

当然のことを、当然に、あの人は口にしただけだった。

なのにその一言が、どうしてか、今頃になって、喉のあたりに引っかかっていた。

夜もすっかり更けた頃。

ブランハルト城、東棟の執務室。

私はまだ、新規契約書の最終精査に追われていた。ランプの火芯の長さを、何度か、自分で整え直した。

——こつ、こつ。

控えめな、遠慮がちなノックだった。

「……リリアーナ嬢、まだ起きてますか」

「はい、どうぞ」

扉を開けて入ってきたのは、ウィル様だった。寝着の上に、羽織りを一枚だけ着ている。

両手に、お盆。湯気の立つティーポットと、カップが二つ。それから小さな紙袋。

「紅茶、淹れました」

「……え、ウィル様、ご自身で」

「僕、料理は苦手なんですが、紅茶を淹れるのは妹に教わっていて」

お盆を机の端に置いた。

「ただ、火加減を間違えました。——ぬるいです」

湯気はちゃんと立っていた。けれど、カップに注がれた紅茶の色は、確かに少し薄かった。

紙袋を差し出してきた。

「これは、領都の菓子店で買ってきたクッキーです」

「買って、こられたんですね」

「焼くのは、もう、無理です」

真顔だった。

噴き出しそうになって、私は慌てて口元を手で隠した。

紅茶はぬるかった。

でも、美味しかった。

クッキーには、バターの甘い香りがしっかりあって、齧ると、小さな欠片が机の紙の端に落ちた。ウィル様はそれを几帳面に、指で一つひとつ拾った。

——この方、こういうところ繊細なのだ、と気づいた。

机の向かい、寝着姿のウィル様は、普段の武門の主の気配ではなかった。戦場の指揮官でもない。ただ、眠れなくて紅茶を淹れに来た、一人の二十八歳の男性だった。

「——ご無礼でしょうか」

ぽつりと、私は聞いた。

「なにが、です」

「なぜ、こんなに、私に、良くしてくださるのですか」

ウィル様は、一度、カップに目を落とした。

それから、顔を上げた。

「——君が頑張っているからです」

声の温度が、少し低かった。

「僕は、頑張る人が好きです」

机の上で、クッキーの欠片を拾っていた彼の指が、止まった。

(——耳、熱い)

自分の耳の熱さに気づいて、それから、その後で、胸の真ん中がどん、と鳴った。

ぬるい紅茶だったはずなのに、なぜか頬のあたりまで、熱が上がっていた。

口を動かそうとして、言葉が出てこなかった。

代わりに、私はカップを、両手で包んだ。

磁器のぬるくて穏やかな温度だけが、手の平に残っていた。

ウィル様が執務室から出ていったあと、私はしばらく動けなかった。

ランプの火が、ちりっ、と小さく鳴った。

誰かに「頑張っている」と言われたのは、——いつぶりだろう。

前世の社畜時代、誰にも言われなかった。

今世の八年間、公爵家の誰にも、一度も、言われなかった。

そういえば、お父様だけは、「無理をするな」とは時々仰ってくださった。

でも、「頑張っている」とは少し違う。

椅子の背に、私はゆっくりと背中を預けた。

天井の梁の影が、ランプの揺れに合わせて、静かに動いていた。

——この人のそばで、働きたい。

辺境領を峠から見下ろした時の思いが、もう一段深いところに、沈んでいった。

翌朝、私の机の上に、もう一通、手紙が届いていた。

見慣れない、繊細な筆跡だった。

差出人は、モランド男爵令嬢セシリア。

封を切る前に、私はランプの火をもう一度、短く整えた。