軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 商人三十一名、辺境領に集結いたしました

「リリアーナ様、本日より我が商会は、ブランハルト辺境伯領との取引を希望いたします」

辺境領に入って十日目の朝だった。

ブランハルト城の応接間の扉の前で、齢六十近い紳士が深々と頭を下げた。

王都ランスロ商会のカマール商会主。王国北部の穀物流通の八割を握っている人だ。私はこの方と、十九歳の冬からの付き合いがある。

「カマール様、遠方よりようこそ」

「遠方などとんでもない。むしろ遅れました。詫びに参上した次第でございます」

遅れた、の意味がわからなかった。

昨日到着したヴェルナー商会主の時も、ゲオルグ海運の若旦那の時も、似たような台詞が出ていた。

「あの——遅れた、とは」

「昨夜、宿場町で、マクミラン商会の若い衆と一緒になりまして」

カマール氏は、深い皺の中で少しだけ笑った。

「『あそこに行かずにどこへ行くんだ』と叱られました」

応接間の奥の小広間が、にわかに商会長たちの待機所になっていた。

侍女のエマが、困り顔でお茶の段取りを回している。

「リリアーナ様、只今でお待ちが六組ほど」

「六組」

「先触れなしでお見えになった方々ですので、どなたから通すかは……」

「カマール様を先に。他の方は、到着順で」

エマが頷いて戻っていく。

執務机の後ろに立ったウィル様が、低く息を吐いた。

「参りましたね」

「はい」

「うちの商会、いきなり王国一になりそうだ」

冗談のつもりらしかった。

半分、本気でもあったと思う。

私は五日前から、過去の取引先へ正式な通知を出していた。

内容は簡潔。ヴィスコンティ公爵家との共同商取引契約は先月末をもって解除済であること。商業ギルドへの登録も個人名義で継承されていること。今後の取引に関しては、ブランハルト辺境伯領を拠点とした新しい商会で対応する用意があること。——それだけ。

勧誘はしなかった。お誘いもしなかった。

ただ事実と事実と事実を書いた。

通知は全部で三十一通。

そのうち、昨日までに二十九通の返書が届いた。内容はほぼ同じだった。「貴殿の新しい拠点にて、引き続き取引を希望する」。残り二通は、返書ではなく、商会主本人が馬車で到着してしまった。

机の上に積まれた契約書の束を、私は上から順に見返していた。

——信じて、八年、取引してきた方々だった。

カマール氏は、北部凶作の冬に、粉挽料の一時免除を私が三往復で取りつけた相手だった。

ヴェルナー氏は、東方街道の関税交渉で、真夜中まで付き合ってくれた相手だった。

ゲオルグ家の先代は、父の代からの知り合いで、若旦那が家督を継いだ時、私が共同契約の更新を引き受けた。

一人ひとり、顔が浮かんだ。

(この方々は、公爵家と取引していたのではなかった)

当たり前のことを、ようやく頭で理解していた。

私個人と、取引していたのだ。

昼過ぎ、六人目の商会主を見送ったあと、私は一人で執務室に残って、新規契約書の精査に入った。

こめかみに鈍い熱があった。

けれど嫌な熱ではなかった。

陽射しが窓から差し込んで、羊皮紙の端を薄黄色に染めていた。

ペンを取って、自分の個人登録印の隣に、自分の名前を書いた。

リリアーナ・クレイドル。

公爵家の家紋がない契約書に、自分の字で自分の名前を書くのは、初めてだった。

八年間、私の字はずっと、ヴィスコンティ公爵家紋の下の小さな共同者欄にいた。

今は、主たる契約者の欄に、ただ、いた。

「——君の筆跡、丁寧だな」

後ろから、ぼそっと声がした。

気配がなかったので、肩がはっきりと跳ねた。

振り返ると、ウィル様が机のすぐ後ろに立って、書類を覗き込んでいた。顔が、私の横顔からほんの手を伸ばせば届くくらいの距離にある。

「い、いつから」

「今さっき。ノックはしたんですが」

聞こえなかったらしい。集中していたせいだ。

(耳、熱い)

自分の耳の縁の熱さに先に気づいた。前世でも今世でも、褒められた経験がひどく少ないのだった。急に褒められると、反応の仕方を忘れる。

「あ、ありがとう、ございます」

「事実を言っただけですよ」

ウィル様は、何でもない顔をしていた。

なんでもない顔でなんでもないことのように、こっちは呼吸を忘れているのに、ご本人だけ平熱のまま次の書類の束を机に置いた。

(……なんなの、この方)

書類に視線を落としたふりをして、私は軽く息を整えた。

夕方、王都から早馬が届いた。

ハインツ商会主の封筒である。中身は二つ。商業ギルドからの手続き完了通知と、もう一通は——私的な書簡だった。

「ヴィスコンティ公爵令息様より、リリアーナ様宛に」

差出人のところで、指が止まった。

「ハインツさんの馬車に同封されていたそうです」

「……お預かりします」

封を切らずに、机の端に置いた。

あとで読む、と自分に言い訳をしてから、けっきょく、ウィル様が夕食のために執務室を離れた瞬間、封を切った。

机の引き出しの奥から、私は七冊の帳簿を取り出して、並べた。

結婚前提で公爵家の経営に関わった年月分の写しだった。アルフレッド様には、なぜか見せずに、ずっと手元に置いていた控えだった。

帳簿の隣に、切ったばかりの封筒を置いた。

『リリアーナへ

突然の書簡、無礼を許してほしい。

先日の件、僕は、言い方を誤ったかもしれないと考えている。

君の功績を、僕が軽んじていたわけではないと、そこはどうか、信じてほしい。

領地の商会が、目下、事務的に混乱している。

君がしばらく顧問として戻ってくれれば、事態は落ち着くと思う。

セシリアとの婚姻は、改めて公表するつもりだ。

しかし、君と僕の、長年の間柄もある。

少しの間、王都に、戻ってはくれないか。

アルフレッド』

帳簿を、一冊ずつ、ぱたりと閉じていった。

——一冊、二冊、三冊。

全部閉じ終わったあと、私は机に両手をついて、しばらく、何もしなかった。

怒っているわけでも、泣きたいわけでもなかった。

ただ、理解した。

この方は、本当にわかっていない。

八年の間、私が何を書いていたのか、何のために早朝に起きていたのか、何を守ろうとしていたのか。わかっていないまま、私を婚約者にして、わかっていないまま、婚約者ではなくした。

(……お気遣いなく、もう他人ですので)

馬車の中で呟いた言葉を、もう一度、今度は口の中で呟いた。

手紙は、火にくべなかった。

引き出しの一番奥に、帳簿と一緒にしまった。

証拠とは、そういうものだった。

静まった城内を歩いて、私は月見の回廊に出た。

夜風が少し冷たかった。

見上げると、東の空に、大きな月が半分だけ出ていた。

少し後ろから、足音が一つ、近づいてきた。

「お疲れでしょう」

ウィル様だった。

上着を羽織ってきてくださっていた。

「お休みのところ、すみません」

「お休みというか、私が眠れなかっただけですよ」

並んで、回廊の手すりに肘をついた。

肩の距離は、礼儀正しくて、適切だった。けれどその適切さが、なんだか、じわりと、落ち着かなかった。

しばらく、二人とも、何も言わなかった。

——遠くで、鍛冶場のふいごの音が、規則的に聞こえていた。

夜通し仕事をしている鍛冶師がいるらしい、と、ミア嬢が話していたのを思い出した。

辺境領の夜は、王都の夜より、少しだけ、働いている音が近い。

その近さが、妙に、胸に優しかった。