作品タイトル不明
8
日が沈み、紺色の夜がやってきた。
ここは、お母様とお姉様が経営する高級レストラン。
三階の広間は、大きなパーティションで中央を仕切れる造りになっている。
つまり、部屋は分かれていても――隣の会話は、筒抜けなのだ。
席についているのは、私とお姉様、お母様。そして給仕役のラーシュ。
訪れた侯爵夫妻は、まず先日のレミアンの不手際について丁重に頭を下げた。
私は言葉少なくそれを受け入れ、食事が始まる。
やがて酒が進み、侯爵夫妻が結婚の話を切り出そうとした、その時だった。
隣の部屋から、聞き慣れた声が響く。
「スペシャルコース、用意はできているよな?」
レミアンだ。
続いて女性給仕の声。
「勿論でございます。お支払いは如何されますか?」
「は? いつも通りだ。何で聞くんだ!」
「申し訳ございません」
「早くしろ!」
その瞬間、侯爵夫妻の顔色がサッと青くなった。
「息子が……フガッ、フガ……!」
侯爵が立ち上がろうとしたが、ラーシュが素早くナプキンで口を塞ぐ。
「どうぞお静かに」
お姉様は優雅にワイングラスを揺らしながら、くすりと笑う。
「せっかくですもの。ご子息の本音を最後まで聞きましょう」
侯爵夫人も立ち上がろうとしたけれど、それを止めたのはお母様だった。
その手に、銀のナイフがキラリと光る。
「わたくし、前々から……ご子息のこと、気に入りませんでしたのよ?」
お母様が小声で囁くと、部屋の空気が凍りついた。
そこへ再び、隣の声が響く。
「ねえレミアン、この部屋広すぎない?」
ユゼフだ。
「狭いよりいいだろ。それより、エレナがまだ不貞腐れてるんだ」
「あれは怒って当然だ。お財布令嬢が、死ななくて良かったね」
――お、お財布令嬢!?
陰でそんな呼び方をされていたの?
悔しい‼
悔しくて、胸が焼けそうだった。
「いつもトロイんだよ。お上品に後ろをトロトロついて来てさ。気遣うの、ホント面倒」
「顔に出すなよ? 婚約破棄されるぞ?」
「ないない。僕に夢中なんだから。そのうち機嫌も直るさ」
今すぐ殴り込みたかった。
でも、まだ。
まだ足りない。
この程度では、決定打にならない。
私は拳を握り締め、耐えた。
料理が運ばれ、グラスの触れ合う音がする。
二人は楽しそうに世間話を続けていた。
こちら側は、ただ黙って聞くことしかできない。
けれど酒が進むにつれ、二人の口はどんどん軽くなっていった。
「ネリアがウェディングドレス、すごく喜んでいたよ」
「本当なら五千万のドレスを着せてやりたかったけどな」
「十分だよ。あとで売れば小遣いにもなるし」
「仕方ないだろ。うちは貧乏だし、男爵令嬢を妻には迎えられないからな」
――は?
ネリアを妻に迎えられない? どういうこと?
「それにネリアはユゼフを、心から愛してるんだ。大事にしてやってくれよ。金はいくらでも用意するからさ」
「分かってるよ。ネリアのためにも、ちゃんと送金してよね」
「エレナは底なしの金持ちだからな。一生贅沢させてもらうさ。その代わり、優しくはしてやるよ」
「レミアン、上手くやれよ?」
「目を瞑って、エレナじゃない、これはネリアなんだ! と思って……我慢する」
――我慢⁈
全身の血が逆流した。
……そういうことだったのね。
レミアンが本当に愛していたのは、ネリア。
ユゼフをあんな目で見ていたのも、嫉妬だった。
しかもユゼフは、それを知った上でレミアンにお金をせびっている。
――最低!
三人は気持ちの悪い、醜い関係だった。
「子どもは作りたくないんだよな。君達に子どもができたら養子にしよう。ネリアそっくりの娘が欲しい」
「白い結婚?」
「閨は遠慮したい。エレナを抱く気にはなれないな。あははは」
「あははははは!」
二人の笑い声が、耳障りに重なる。
もう限界だった!
私は勢いよく立ち上がると、パーティションを思い切り開け放った。
「レミアン! 婚約は破棄よ!」
驚いて立ち上がるレミアン。
「エレナ!? ど、どうして……え? え?」
「全部……聞こえたわ!」
怒りで声が震えた。
「我慢して白い結婚? ふざけないで!」
こんな奴らに見下されていたなんて、もう泣きそう。