作品タイトル不明
第86話 大惨事
「こちらは私から講師の方へ預けます」
「は、はい……」
ダニエル様が持っていた小瓶を私は受け取る。
「ぼ、僕の傑作が……」
余程追い詰められていたのか、ダニエル様は座り込んだままめそめそと泣いている。
そんな彼が哀れで、また、ヴィーが私を煩わしく思っていた場合を考えた時、とても他人事には思えなかった。
出来る事なら、アンセルム様が私にしてくれたように彼の背を押したり、大丈夫だと心に寄り添ってあげたいところではあったが……残念ながら私は彼の婚約者であるマリー様の本心を知ってしまっている。
加えて、私にはある程度、ヴィーに嫌われてはいないという確信が持てつつあった。
ダニエル様とは状況が違う。
そんな中で私が何を言おうと、無責任でしかないのではないか。
寧ろ傲慢になるのではないか。
そんな思いが過り、私が何も言えずにいた時だった。
「ダニエル様?」
ジュリエンヌ様がダニエル様の前に屈む。
「ごめんなさいね、先程のお話が少し聞こえてしまって。今から出過ぎた事を申し上げますが、どうかお許しいただけます?」
ジュリエンヌ様は口元を隠して笑ってから、持っていた扇を閉じる。
「お恥ずかしながら、わたくしも婚約者との関係や想いの違いに悩む事は多くて。それを本人に打ち明けられない事も多いのですが……。傷つくのは玉砕してからでも良いのではなくって?」
空いた手をダニエル様へ差し出す彼女は、不敵に笑っている。
「恋って、悩むだけでも苦しいんですもの。傷つきながら悩むだなんて、心が耐えられる訳もありませんわ」
……その赤い瞳が、何かを憂いるように揺れていた事に気付いたのは、きっと私だけだったのだと思う。
少なくとも手を差し出された当人には、彼女は眩い太陽のように見えたはずだ。
「嫌われているかもしれないと恐れるのならばいっそ、それをはっきりさせ、想像通りの結果を見てから、思い切り悲しむのは如何でしょうか。幸い、ダニエル様は何人ものご友人に恵まれていらっしゃるのですから、その悲しみだって共有して乗り越える事も出来るはずです。……それに」
ジュリエンヌ様が周囲へ視線を移せば、ダニエル様のご友人達が頷きを返す。
それを見たダニエル様の瞳が大きく揺らいだ。
「婚約している限り、好機はいくらでもありますわ。一生涯、長い付き合いになるのですから。焦る必要もなければ、一度の玉砕で終わるような関係でもありません。自分の想いを明かし、気長に待っていれば、いつかは想いが通じ合うのではと……わたくしは、そう信じております」
きっとこの言葉はジュリエンヌ様が自身に言い聞かせている言葉でもあるのだろうと、私は思った。
日頃から彼女を知っているからこそわかる、どこか切ない面持ち。
ジュリエンヌ様もまた、グザヴィエ殿下に対して、何か悩みを抱えているのかもしれない。
「わたくしは、ダニエル様を応援いたしますわ。ですから一緒に、頑張ってはみませんか?」
「……は……は、い」
ダニエル様は声を震わせながら、ジュリエンヌ様の手を取るのだった。
彼を立たせるジュリエンヌ様の微笑みは柔らかく、温かいものだった。
***
「本当に任せて良いの? ニコレット」
「はい。ジュリエンヌ様は先にご帰宅ください」
私とジュリエンヌ様はダニエル様方と別れ、教室を後にした。
その後、私はダニエル様から回収した惚れ薬を学園関係者へ預け、事情を説明すべく来た道を引き返す事をジュリエンヌ様に申し出る。
ただ薬を預けて少し話をするだけなので、わざわざジュリエンヌ様に同行頂く程ではないし、ジュリエンヌ様には今晩出席予定の夜会が控えている事も知っていた。
だから私はこの件の後始末を買って出、ジュリエンヌ様とこの場で別れる事にした。
「そう? じゃあお願いするわ。またね、ニコレット」
「はい、また」
私はジュリエンヌ様に頭を下げ、彼女が馬車寄せの方へと向かいだしたの確認してから反対方向へと歩き出すのだった。
「この小瓶、蓋が壊れているわね」
小瓶を片手に歩いて暫くした頃。
私は惚れ薬の蓋と容器の接続部分が欠けている事に気付く。
結果、霧吹き型の蓋と容器は噛み合っておらず、蓋は容器の上に乗っているだけのような状態だった。
(先生に渡す時に、きちんと説明しないと)
誤って誰かへひっくり返す事がないようにと手元に注意していると、いつの間にか中庭の近くまでやって来ていた。
多くの生徒達が行き交う空間を横切りながら、私は先を急ぐ。
その時だった。
「おーい、ニコルー!」
聞き覚えのある声が遠くから飛ぶ。
思わず足が止まった。
反射的に声のした方を見れば、いつもと変わらない様子のヴィーが離れた場所から大きく手を振っている。
惚れ薬や直前の出来事に気を取られていた私にとって、彼の出現は完全な不意打ちだった。
どくんと心臓が跳ねるのを感じる。
ダニエル様やマリー様のすれ違い、ジュリエンヌ様の言葉、昼休憩のアンセルム様からの助言、最近の私がヴィーを避け続けてしまったという事実、驚きや恐怖や羞恥、喜びなどの複雑で大きな感情……それらが一斉に私の頭を埋める。
情報過多だった。
――どうしよう。
どう彼に接するべきか。目が回るような感覚の中、そんな悩みが浮上した頃には私は――処理しきれない情報量から逃れるように動いていた。
ヴィーに背を向け、来た道を引き返していたのだ。
これが最も悪手である事は理解していた。
それでも本能は一度気持ちを落ち着ける環境を望んだのだ。
(~~~っ、馬鹿、馬鹿! 私の馬鹿……ッ!!)
問題を先延ばしにしようと、その場から離れるべく駆け出した己の愚かさを呪いながら、私は外廊下を引き返していく。
ジュリエンヌ様やアンセルム様からあんなにも励ましてもらって尚、非合理的な行動に出てしまう自分が恨めしかった。
羞恥と情けなさから顔に熱が溜まり、僅かに目が潤む。
理性とは程遠い感情の波に突き動かされ、前しか向けていなかった私だったけれど、後方から謎のざわめきが聞こえ始めた事で後ろに意識が向く。
後方が気になった私は走りながらも後ろを振り返る。
結果、私が目の当たりにしたのは――
――恐ろしい形相と凄まじい速度で迫る自分の婚約者の姿だった。
普段の明るさを消した彼は冷たさすら感じる真顔と鋭い眼光を向けて私へと迫っている。
日頃秘めている身体能力を全て晒し、整備された道を全て無視して一直線に私へと向かってきていた。
明らかに怒っている彼が取り巻く気迫は凄まじい。
というか、人間業とは思えない身体能力を駆使して、あっという間に詰められる距離が恐ろしい。
稀に図書館で読む、怪談の類の小説に出て来るどんな怪異よりも恐怖を覚えた。
せめて大きな足音の一つくらい立てて欲しい。
あんなにも激しく動いているのに迫りくる気配を殆ど感じない存在を怪異と称するのは至極当然の結果だろう。
突然、敵いようもない速度で追いかけ回される事となった私の頭は困惑で埋め尽くされ、気付いたら甲高い悲鳴を上げていた。
「き……ッ――きゃぁあああああっ!?」
もう、何から逃げているかも何故逃げているかも定かではない。
ただ本能的に押し寄せた恐怖に従って走り続ける事しか出来なかった。
進行方向へ向き直り、混乱状態に陥りながらも出来得る限り前進する。
しかしそれも長くは続かない。
そっと、音もなく。
私の両肩に優しく手が添えられる。
本当に突然の事だった。
そして
「――ニコル」
低い囁き声がすぐ耳元で聞こえる。
何の前触れもなく、非常に優しい力で肩に触れた手はしかし、決して離さないという意図からその力を強めていく。
その手の持ち主が背後に辿り着くその瞬間に至ってまで、私は何の気配も感じなかった。
この瞬間、心霊の類に恐れを抱く者の気持ちが分かったような気がした。
さて。
既にパニック状態だった私がこんな掴まり方をすれば、正常な判断など出来る訳もなく。
「いっ、いやぁああああっ!!」
私は咄嗟に自分の肩を掴む手――ヴィーの手を強く振り解いた。
その時だった。
ぱしゃり
何か、液状のものが降り掛かる音がした。
「――え?」
想定外の音が聞こえ、私は突然我に返る。
持っていた小瓶は軽くなっていて、何なら少し離れた場所でコンという小気味いい音と共に、その瓶についていたはずの蓋が遅れて落下する。
手を振り解いた拍子に振り向いた私の目の前には、硬直したまま立ち尽くすヴィーの姿がある。
先程まで恐れていた彼の表情は見えない。
その目元は、ぽたぽたと雫を滴らせる前髪によって隠れていた。
「ぇ、あ……あぁ…………」
手元で空になった小瓶と、水浸しのヴィーを何度も交互に見やる。
言葉にならない声と共に、顔から血の気が引いていくのを感じる。
……非常に気まずい沈黙が私達の間に訪れた。
どうやら私は手を振り解く勢いのまま小瓶を振るい、その拍子に蓋を吹き飛ばしてしまい
――その中身を、ヴィーの顔面に浴びせたらしかった。