軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第87話 暴走

手を振り解かれた瞬間、顔へ襲った濡れた感触にヴィクトルは呆然とする。

彼は遅れて、ニコレットが片手に持っていた小瓶の存在に気付く。

――彼が小瓶の中身に直撃してしまったのは、相手がニコレットだからであった。

たとえ相手との距離が近かったとしても、普段ならば今回と同じような場面に遭遇しても、小瓶が振るわれた瞬間に軽々と回避行動が出来るはずだった。

だが彼女が自分を害するはずがないという信頼と、拗らせ続けた好意がヴィクトルの隙を生んでいた。

実践を込みでも実に久しぶりに衝かれた隙にヴィクトルが驚き硬直していると、彼よりも取り乱したニコレットがハンカチを取り出した。

「ご、ごごごごめんなさい……っ、わ、私、こんなつもりじゃあ……っ」

日頃落ち着き払っている彼女には珍しい焦り具合だった。

自責の念に駆られているのか、ヴィクトルの顔を優しく拭う彼女の瞳は僅かに潤んでいる。

紫の瞳が周囲の光を反射して揺らめく。

(……変だな。いつも思ってはいるけど、今日のニコルは)

それと視線が交わったその瞬間。

(いつもよりずっと可愛――)

突如、ヴィクトルの鼓動が激しく高鳴る。

沸騰するように急上昇する熱と飛び出てしまいそうな程に荒ぶる心臓。

(何、だ……!?)

明らかな身体の異常にヴィクトルが驚いたのも束の間、ニコレットが彼の頬に触れる。

「ど、どこか変な所はない? 体調が悪いとか……。これ、惚れ薬みたいで……」

状況の説明や謝罪など、ニコレットは必死に言葉を尽くそうとしていた。

しかしその殆どはヴィクトルの耳には届いていなかった。

(っ、これ、まず――)

突然瓦解しかける理性に困惑しつつも、何とか気を保とうとする。

しかし。

揺らぐ瞳と上気した顔、震える声と僅かに感じる甘い香り、自分に触れる肌の感触。

それらがただひたすらにヴィクトルの理性を傾かせた。

(っ、耐えろ、耐えろ、耐えろ耐えろ耐えろ……)

そしてそれはあっという間に堰を切り。

「……っ」

――駄目だ。

そう思う暇もなく。

気が付けばヴィクトルは自分に触れる手を掴み、彼女を勢いよく壁へと押し付けていた。

「ヴィ、ヴィー……?」

紅く艶やかな唇が名を呼ぶ。

それを無理矢理暴き、普段見せない隙だらけの彼女の弱さを全て晒してやりたい。

それを誰にも見せず、自分だけのものにしたい。今すぐ彼女を人目のない場所に攫い、独り占めしたい。

彼女の全てを自分の手中に収めたいし、誤っても別の者へ流れる事がないように退路を断ちたい。

二人きりの空間で長年抱え込み続けた愛情で嬲り、困り果てる彼女の歪んだ顔を――誰も見た事がない素顔を見たい。

行き過ぎた愛情に拍車が掛かり、歪んだ欲望が溢れ出しそうになる。

獣のような荒々しい呼気を纏いながら、両手で囲い込んだ婚約者をヴィクトルは鋭く見据える。

真っ赤に染まり、汗を滲ませ、余裕の一切が消えたその顔がニコレットへと迫る。

逃げ場を失ったニコレットの唇が僅かに震える。

それから、より顔を紅潮させ、忙しなく視線を泳がせる。

しかし身動きが出来ない状況で出来る事などその程度で、ニコレットはやがて観念したように目をきつく閉じた。

長い付き合いではあるものの、ニコレットとヴィクトルは唇を重ねた事すらない。

おまけにニコレットはヴィクトルへの好意を自覚したばかり。

故に全身を緊張させて身構える彼女の姿は、何かに怯えているように見えなくもなかった。

更に加えるのならば、ヴィクトルは長年初恋を拗らせた挙句、何度アプローチをしてもまともに取り合ってもらえなかった男。

恋愛に於いて彼がポジティブに考えられる段階などとっくの昔に終わっていた。

そんな彼がこの状況のニコレットを見て、それが自分に好意を抱いているからこそのものであるなどと思い至る訳もなく。

羞恥に耐え、小さく震えながらその瞬間を待つニコレットの様子に気付いたヴィクトルは、突如我に返った。

自分が今一体どんな状態であり、何をしようとしていたのか。

そして、その結果がニコレットを怖がらせかねないものである事。

それらを認識すると同時、ヴィクトルは背筋が冷えるのを感じる。

彼は咄嗟に壁についていた手を取っ払い、ニコレットから距離を取った。

「……ヴィー?」

その気配を察してか、ニコレットが目を開けて不思議そうにヴィクトルを呼ぶ。

しかしヴィクトルは彼女を直視することが出来なかった。

何が起きているのかは定かではないが、今の自分が正常ではない事だけは理解していた。

だからこそ、視界に彼女を入れ続ければ、いつまた理性が決壊するか分からないと判断したのだ。

彼はそのままニコレットに背を向け、走り去ろうとする。

「ま、待って――」

それを引き留めようとしたニコレットが彼へ手を伸ばすが、ヴィクトルはそれを咄嗟に手で弾いた。

「っ、触るな」

余裕のないヴィクトルから漏れたのは、切羽詰まった、鋭く冷たい拒絶の声。

それはニコレットの動きを止めるには充分過ぎる程の気迫だった。

それ以上呼び止めようとしないニコレットへ振り向く事もせず、ヴィクトルはその場から逃げるように走り出したのだった。

***

「ニコレット嬢、ご無事……」

私の手を振り払い、走り去ってしまったヴィーを呆然と見送る事しか出来ない私の元へアンセルム様が駆け寄る。

脇目も振らず走り出したヴィーや追いかけられる私を案じて追いかけて来てくださったのだろう。

彼の声に反応するように顔を向ける。

すると目が合うや否や、アンセルム様は自身の言葉の続きを呑み込み、困ったように眉を下げた。

それから一度思い悩むように眼鏡を押し上げた後

「……ではなさそうですね」

と溜息混じりに呟いたのだった。

***

その後、私とアンセルム様は空になった小瓶を持って、魔法薬学を担当する講師を訪ねた。

事情を説明して小瓶を預ければ、講師はまだ構内に残っていたダニエル様を呼んだ上で成分について調べ始めた。

結果、ダニエル様が作った惚れ薬は『人体に影響を及ぼす可能性は極めて低い』という結論に至った。

この薬はあくまで既存の感情を大きく引き出す為の作用であり、人格や思想を変えてしまうようなものでもなければ、効果も一時的なもの。

薬を用いる前から余程激しい偏愛を抱いているといった例外の場合は、限界を超えた脳の激しい活動による負担などによる発熱などの症状が出る可能性もあるが、あくまでごく僅かな可能性を強いてあげるならば程度の話であり、まあまずは考えなくていいだろうとの事だった。

尚、この話を聞いて私やダニエル様が胸を撫で下ろす中、アンセルム様だけが冷や汗を掻きながら顔を青くさせ、頻りに眼鏡を押し上げていた。

おまけに彼は、講師やダニエル様と別れた後、「明日、あいつが休んだら見舞いに行きましょう」とどこか遠くを見ながら私に提案をしたのだった。

そして――

――翌日。

アンセルム様の読み通りに、ヴィーはその日の授業を欠席したのだった。