軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 ノエシス・エリクサー

ハインリッヒがラオムリングから取り出したのは、小さな硝子の薬瓶だった。

淡い光を帯びた液体が、瓶の中で静かに揺れている。

ノエシス・エリクサー。

魔力の源泉たる精神力を、恒久的に引き上げる伝説級の魔薬――しかも大魔導師級の者が服用して初めて効果を発揮する、最上位の秘薬だ。

市場には滅多に出回らない。出回ったとしても、王国の大貴族が競り合い、天文学的な額で落札される代物だ。

そんなものが、今――目の前にある。

広間が一斉にざわめいた。元老たちが身を乗り出し、若い世代の者たちは息を呑んで薬瓶を見つめている。

「ほほ、これはカエルム・アルカナムの名誉長老ルドルフ様が自ら精製されたものです」

ハインリッヒは元老たちの反応を見て、満足げに微笑んだ。

「ルドルフ様の手によるもの……!?」

元老たちは息を呑んだ。ルドルフ――エルシア大陸屈指の錬金術師だ。国王ですら礼を尽くして接する人物。その手による秘薬ともなれば、値など付けようもない。

元老たちの目が輝いた。ノエシス・エリクサーがあれば、家の大魔導師がさらなる高みへ――

それぞれの思惑が、広間の空気を熱くしていた。

「侯爵閣下、このノエシス・エリクサーの価値は計り知れません」

第一元老グレゴールが薬瓶を検分しながら、興奮を抑えきれない声で父に向かって言った。

「正直に申しまして、これほどの代償ならば――」

第三元老ヴィクターが続いた。眼鏡の奥の目が冷徹に光る。

「四男殿一人の婚約と引き換えるには、十分すぎるかと」

三人の元老は喜色満面で薬瓶を見つめていた。この一瓶があれば、家の実力がさらに上がる。誰にこの秘薬を使わせるか、それぞれの孫や部下の顔を思い浮かべているに違いない。

広間の少年少女たちも、目を見開いて薬瓶を凝視していた。炽い視線が硝子の瓶に注がれ、唾を飲み込む音すら聞こえてきそうだった。

父の傍らに座るエイドリアン兄も、薬瓶から目を離さない。口元を舐め、瞳が熱く輝いている――

三人の元老が、薬瓶をどう分配するか心中で算盤を弾いている、まさにその時だった。

隅の席から、怒りを押し殺した淡い声が、広間に突然響いた。

「ハインリッヒ殿、その秘薬はお持ち帰りください。今日のこと、我々は同意致しません」

広間が、一瞬にして静まり返った。

すべての視線が、角の席で清秀な顔を上げた少年へと移った。

「レオン!」

グレゴールが声を荒げた。禿げ上がった額に青筋が浮かぶ。

「ここでお前が口を出す筋合いはない! 黙っていろ!」

「レオン、下がりなさい」

マーカスも椅子から立ち上がった。がっしりとした体躯に、微かに魔力が纏い始めている。

「気持ちは分かるが、ここは我々が――」

「先ほど」

俺はマーカスを遮り、ヴィクターに目を向けた。

「ヴィクター殿は仰いましたね。『四男一人の婚約と引き換えるには十分すぎる』と」

ヴィクターの表情が硬直した。

「では、お尋ねします」

俺は三人の元老を見渡した。

「もし今日、婚約を破棄されるのが貴方方の息子や孫だったとしても――同じことを仰いますか?」

三人が、言葉に詰まった。

「薬一瓶と引き換えに、『お宅の息子は不要です』と言われて。『ありがとうございます』と頭を下げるのですか?」

「それを――当主たる我が父に、強いるのですか?」

声は依然として静かだった。だが、その静かさが異様だった。

後にグレゴールは、側近にこう語っている。

『あの目は――十四歳の子供の目ではなかった。七年間、ずっと何かを堪え続けた者の目だった。あれを見た時、正直、背筋が凍った』

グレゴールが何か言おうとした。だが言葉が出てこなかった。

その時、エヴィルの声が広間に響いた。

「元老方」

澄んでいるが、冷たい声。

「レオン兄様の言うことは筋が通っています。婚約の当事者が発言することに、何の問題がございましょう」

元老たちはエヴィルを見た。家族きっての天才にして、将来を担う逸材。彼女に真正面から逆らうことは、元老といえど容易ではない。

三人は互いに目配せをし、渋々と黙り込んだ。

俺は前に進み出て、父に深く礼をした。

「父上。僭越ながら、お許しいただきたい」

父は俺を見つめた。

あの震えていた拳が、ゆっくりと開かれた。

「……申してみよ」

低い声だった。だが、そこに怒りはなかった。

俺は振り返り、リーゼロッテに向き合った。

「リーゼロッテお嬢様」

目を見据えた。

「一つお尋ねします。今日の婚約破棄について、クラウゼンブルク公爵はご存知なのですか?」

リーゼロッテは立ち上がり、こちらを凝視した。本来ならば自分の夫となるはずだった少年を。

語気は平淡で、どこか優しげですらあった。

「祖父は知りません。でもこれは私のことです。祖父には関係ありません」

「既にお爺様が口にされていない以上、お含みおきいただきたい。我が父もまた、この要求には応じられません」

俺は微かに首を傾け、冷たく三人の元老を見た。

「当初の婚約は、両家の先代が自ら結ばれたもの。今、先代方が解消を口にされていない以上、この婚約を破ることは誰にもできません。さもなくば――それは亡き先人への冒涜です」

「我が家門に、先代の誓約を踏みにじる者はおりますまい?」

この一言が、巨大な帽子のように元老たちの頭上に圧し掛かった。

三人の元老は顔色を変え、口を噤んだ。家門の掟において、先代が結んだ誓約を破るという行為は、家名そのものを汚す重罪だ。元老の地位すら失いかねない。

「あなた……」

レオンの弁舌に遮られ、リーゼロッテは一瞬呆然とした。反論の言葉が見つからない。白い小顔が鉄色に染まり、思わず足を踏み鳴らした。

長年甘やかされてきた大家の令嬢の気性が、一気に表に出た。目の前の少年を嫌悪するように睨みつけ、苛立ちのまま、直截に言い放った。

「あなたは一体どうすれば婚約を解消してくれるの? 補償が足りないとでも? いいわ、先生にもう一瓶のノエシス・エリクサーを頼んであげる。それに、あなたが望むなら、カエルム・アルカナムで高等魔法を学ぶ機会も差し上げます」

「これで、十分でしょう?」

少女の口から次々と飛び出す条件を聞いて、三人の元老は思わず呼吸が荒くなった。広間の少年たちは、唾を飲み込む音すら隠せない。カエルム・アルカナムで修行する機会だと? それは無数の者が夢にまで見る栄誉だ――

条件を言い終えると、リーゼロッテは白い顎を微かに上げ、まるで姫君のように誇らしげに、レオンの返答を待った。

彼女の認識では、この条件でいかなる少年をも狂喜させるに十分だった。

だが――

リーゼロッテの予想とは裏腹に、目の前の少年の体が激しく震え始めた。

ゆっくりと顔を上げる。その端正な、まだ幼さの残る顔が、今は――恐ろしいほどに冷たくなっていた。

七年間、嘲笑を浴び続けた。蔑みの視線を受け続けた。だがレオンの心の中には、最後の一線があった。

リーゼロッテのこの高みから見下ろすような、まるで施しを与えるかのような振る舞いが――その一線を、真正面から踏みにじった。

「リーゼロッテお嬢様」

声が震えていた。歯の隙間から漏れる言葉に、殺意にも似た凄みが滲む。

「あなたは……ご存知ですか」

一歩、前に出た。

「女性側から公の場で婚約を破棄する――それが男にとって、どれほどの恥辱か」

拳が軋むほど握りしめられていた。

「俺は構わない。面の皮は厚い方だ。だが――」

俺は上座の父を見た。

「我が父は、一族の長です。今日もしこの要求に応じれば、父は今後どうやってセレストーム家を率いていけるのですか。どうやってカルディアで顔を上げて歩けるというのですか」

リーゼロッテの顔色が変わった。

視線が上座へと動く。さきほどまで威厳に満ちていた侯爵の姿が、今はどこか――急に老け込んだように見えた。

少女の胸に、かすかな申し訳なさが過ぎった。桜色の唇を軽く噛み、しばらく黙り込んだ。

やがて、その聡明な瞳がわずかに転じ、ふと小さく呟いた。

「……今日の件は、確かに少し軽率だったわ」

一拍の間。

少女の桜色の唇を軽く噛み、聡明な瞳がわずかに転じた。

しばらく沈黙した後、リーゼロッテは小さく息を吐いた。

「……今日の件は、確かに少し軽率だったわ」

一拍の間。

「では、こうしましょう」

リーゼロッテの目に、冷たい光が宿った。

「決闘裁判――古来より、婚約や契約の争議を解決する正式な手段よ」

彼女は俺をまっすぐ見据えた。

「この婚約の行方は、決闘裁判で決めましょう」