作品タイトル不明
第72話 兄弟
煙が晴れていく舞台の上で、オースティンは膝をついたまま震えていた。砕けた石畳の粉末が陽光の中を漂っている。その光が、七年前の夏の午後に降り注いだ光と重なった。
あの日も——こんな風に、眩しかった。
◆◇◆
「正式な決闘だ。全力を出せ。胴に一撃を受けた者の負け。武器を封じられた者の負け。——十歩下がれ」
カッセルリックが手を振り下ろした。盛夏の午後、セレストーム邸の中庭。石造りの回廊に囲まれた広場に、冷えた石畳の匂いと陽光が同居していた。
八歳のオースティンは、正確に十歩を刻んで振り返った。右手に握るのは、セレストーム家の戦槍レオ・ルガール——成人の背丈を超える長槍で、穂先は暗い銀色に鍛え上げられていた。槍頸に獅子の紋章。ドワーフの鍛冶師が三代前の当主のために鍛えた業物だ。八歳の子供が振るうには重すぎる槍を、オースティンは六歳の時から使い続けていた。槍を構えた時、小さな手では握りが足りず、指の関節が白く浮き上がっていた。
十歩の向こう側に、六歳のレオンが立っていた。腰のエルフ銀の短剣は、子供の体には少し長すぎた。革の鞘が腿の横で揺れ、歩くたびにカチカチと鳴る。稽古着の袖は何度も折り返してあった——恐らく兄のお下がりだろう。
一年前まで、この少年は剣を握ることすらできなかった。魔力は規格外だったが、体が追いつかない。走れば息が切れ、剣を振れば腕が震えた。だが一年間、欠かさず鍛錬を続けた。今のレオンは剣を握って兄の前に立てる。——ただし、どこまで保つかは分からなかった。
二人は武器を掲げ、礼をした。カッセルリックの声が落ちた。
「——始め」
◆◇◆
動いたのはレオンだった。
短剣使いにとって、長槍との決闘は間合いの勝負に尽きる。槍の外にいれば安全だが、それでは永遠に勝てない。穂先の届く範囲を突破し、内側に入って初めて、短剣が届く。
レオンは低い姿勢で左へ走り、弧を描いて兄の側面を取ろうとした。オースティンは動かなかった。槍尖をレオンに向けたまま、半歩だけ軸足をずらし、穂先を中心線に据え直した。それだけで突進の道筋が塞がっている。
槍尖が正面を支配している限り、どの角度から入ろうと穂先が待ち構えている。突っ込めば串刺しにされる。レオンは足を止めた。
二度目。右から踏み込もうとした。オースティンの槍尖が水のように滑らかに動き、レオンの胸の前で静止した。速くはなかった。ただ正確だった。見えない糸で心臓と繋がっているかのように、一分の狂いもなく追い続ける。レオンは急停止し、退いた。
三度目。左へフェイントを入れ、本命は正面から。オースティンの槍尖はフェイントに反応しなかった。見透かされている。レオンが正面に踏み込んだ瞬間、穂先が真っ直ぐにレオンの喉元を指していた。辛うじて身を翻したが、着地で膝が震えた。息が乱れ始めていた。
カッセルリックは腕を組み、黙って見ていた。レオンの体力がもたない。一年の鍛錬で確かに変わったが、持久力だけは足りていなかった。オースティンが中心を押さえて動かないのは、弟の体力が枯れるのを待っているからだ。突進してくるたびに穂先を正面に据え直し、間合いを管理し続ける。八歳の子供の戦い方ではなかった。冷酷なまでに合理的で、そしてどこまでも静かだった。
四度目の突進。レオンの踏み込みが浅くなっていた。前足の歩幅が縮み、肩で息をしている。一年間で積み上げたものが、底を突きかけていた。
オースティンの青い瞳が微かに細まった。
そして初めて——前に出た。
槍が突き出された。低く、速く、レオンの腹を狙った一撃。レオンは咄嗟に短剣の腹で槍尖を逸らしたが、受けた衝撃に腕が痺れた。オースティンは即座に槍を引き、二撃目。今度は胸を狙う。レオンは半歩退いて避けたが、足がもつれかけた。三撃目——レオンが体勢を立て直す前に、穂先が再び突き出された。今までの待ちの構えが嘘のように、連続の突刺がレオンを追い立てていく。
レオンは必死に短剣で受け流し続けた。一撃ごとに後退し、腕の痺れが蓄積していく。槍の重さと腕の長さが違いすぎる。六歳の体では、受け続けるだけで精一杯だった。
そして四撃目。オースティンは突きではなく、槍杆で押し込んできた。ミスリル銀の杆がレオンの短剣を押さえつけ、そのまま体重を乗せていく。レオンは両手で剣を支えて堪えたが、膝が震え、じりじりと沈んでいく。八歳と六歳——体格の差が、そのまま圧になっていた。あと数秒で膝が地面に着く。そうなれば胴への一撃は避けられない。
◆◇◆
その時だった。カッセルリックの右手が上がった。
金色の光が、二人の間に炸裂した。半透明の力場が槍と剣の間にせり出し、衝撃波が中庭の芝を揺らした。オースティンとレオンが同時に後方へ弾き出される。
オースティンは三歩よろめいた。
レオンは二歩。
力場の中心からの距離の差だった。それだけの差が、二人の間合いを一瞬で変えた。
レオンの体は思考より先に動いた。一年間叩き込んだ反復練習が筋肉を走らせていた。兄の重心がまだ後ろに残っている。この距離なら長槍は取り回せない。今なら——
「——もらった!」
地面を蹴り、一直線に突っ込んだ。短剣を逆手に持ち替え、低い姿勢から兄の懐に潜り込む。狙いは胴。この距離からの突きだけは、一年間で誰よりも多く繰り返した技だった。
オースティンは退かなかった。
咄嗟に槍の中ほどを握り直した。長すぎる槍を短く持つ——接近戦への切り替え。槍杆の中央でレオンの剣筋を受け、ミスリル銀とエルフ銀が噛み合って甲高い音が響いた。
受けた瞬間、槍杆を押し込んでレオンの短剣を外側へ逸らした。レオンの体勢が流れる。
次の動きに間はなかった。
槍を手放した。レオンの剣腕を両手で掴み、手首を捻って短剣を落とさせる。エルフ銀の刃が石畳に落ち、澄んだ音を立てた。そのまま腰を落とし、弟の体を肩で担ぎ上げて石畳に叩きつけた。
背中が地面にぶつかる鈍い音が、中庭に響いた。六歳の小さな体が、石畳の上に投げ出された。
オースティンは片膝でレオンの腕を押さえ、落ちた短剣を拾い上げた。切っ先を弟の胸元に向ける。
小さな手が、短剣の柄を握っていた。兄の手もまた、小さかった。
中庭が静まり返った。
「——俺の勝ちだ」
低く、年齢に似合わぬ声だった。青い瞳が弟を見下ろしていた。勝者の喜びも、敗者への蔑みもない。ただ事実を確認するだけの目だった。
◆◇◆
「ずるいぞ!」
レオンは地面に押さえられたまま叫んだ。
「父上が止めなければ、僕はあのまま潰されてた! でも力場の後、僕の方が兄上に近かった! あれは僕に有利な——」
「有利でも負けただろ」
オースティンは静かに立ち上がり、弟を解放した。
「状況が何であれ、結果は同じだ」
カッセルリックが歩み出た。
「オースティンの勝ちだ」
そしてオースティンに向き直った。
「だが、お前はレオンより二年も長く槍を習っている。勝って当然だろう。それに——あの突刺の連携。あれはレオンを潰す気だったのか。まだ八歳だぞ」
「父上!」
レオンが起き上がった。唇を噛み、目に涙を滲ませている。
カッセルリックはレオンの肩に手を置いた。
「一年でここまで戦えるようになった。立派だ。あの最後の突きも見事だった。もう少し経験を積めば、次は分からないぞ」
レオンは頷いたが、涙は隠せなかった。
カッセルリックがオースティンに向き直った。
「なぜ俺が力場を出したか、分かるか」
「レオンが潰される前に止めたかったんだろう」
淡々とした声だった。
「……お前——」
「でも力場は、俺の方を遠くに弾いた」
オースティンは父の目を見ていた。青い瞳には何の感情も浮かんでいない。
「俺は三歩退がった。レオンは二歩。おかげでレオンは俺の懐に入れた。公平に遮断するなら、同じ距離を弾くはずだろう」
カッセルリックの表情が一瞬だけ強張った。
「……咄嗟のことだ。正確な制御をする余裕がなかっただけだ」
「そうかもな」
オースティンは視線を逸らした。それ以上は言わなかった。だがその横顔は、何一つ信じていなかった。
カッセルリックは話題を変えた。
「あの突刺は威力が過剰だ。レオンの腕が折れていてもおかしくなかった」
「折れてない」
「折れていたかもしれないだろう!」
「折れてないだろ。実際に」
オースティンの声は平坦だった。
「力は加減してた。潰す気なら、三撃目の時点で胸を突いてる」
カッセルリックは言葉に詰まった。
「レオンの突きはどうなんだ」
オースティンは続けた。
「あれ、胴を狙ってただろ。俺が受け損なってたら、刺さってた。レオンは手加減してたのか?」
「してた! 一年間ずっと練習してきた!」
レオンが叫んだ。
「無理だろ」
冷たく遮った。
「初めての実戦で、一年しか練習してなくて、全力で突っ込んで——それで加減? 嘘つくなよ」
レオンは口を開き、そして閉じた。言い返す言葉がなかった。
「もういい!」
カッセルリックが声を荒げた。
「兄弟だろう。俺はお前とレオンを分け隔てなく育ててきた。なのにお前は——そんな冷たい物言いしかできないのか。セレストーム家の者として恥ずかしくないのか!」
オースティンは答えなかった。
中庭が静まり返った。
レオンは父の後ろに回り、兄に向かってこっそり舌を出した。
◆◇◆
カッセルリックは怒りが収まらぬまま、レオンの手を引いて去ろうとした。
背後から、声がした。
「なあ、父上」
足が止まった。
「力場は、次も出せるのか。俺がもっと強くなったら。あの力場じゃ、もう止められなくなったら——その時、父上は何で止める?」
声は低く、掠れていた。感情の色はなかった。
問いの形をしていたが、答えを求めていない声だった。その奥にあるのはもっと単純で、もっと冷たいものだった。
力場は、誰を守るためのものだった?
俺が危ない時、父上は何で守ってくれる?
次も、その次も、守られるのは弟だけなんだろう?
カッセルリックは振り返った。
オースティンが陽光に背を向けて立っていた。首を少し傾げて、何も言っていないかのような顔で。赤い髪が風に揺れた。
ふと、若い頃の妻を思い出した。イザベラも、こんな目をしていた。冷たく、静かで、何かを諦めた目。誰にも頼れないと悟った人間だけが持つ目だった。
胸の奥が、軋んだ。
「……お前の突刺」
声を落として言った。怒りとは違う何かを、押し殺した声だった。
「三撃目から四撃目への移行が荒い。穂先の軌道がぶれている。——明日から、精度を上げる稽古をする」
それは不器用な歩み寄りだった。怒りでも叱責でもなく、次の稽古の話をすること。それがカッセルリックにできる、精一杯のことだった。
「……別にいい」
オースティンは素っ気なく答えた。
「一人でやる。いつもそうしてるし」
カッセルリックは何か言いかけ、やめた。レオンの手を引き、屋敷の方へ歩いていった。
◆◇◆
樫の古木の下に、赤髪の少年だけが残された。
石造りの回廊を遠ざかる二つの足音が、完全に消えてから——ゆっくりと座り込んだ。握り続けていた手を開くと、掌に血が滲んでいた。槍を握り続けた手の皮が裂け、硬い皮膚の下から新しい血が出ていた。六歳から毎日槍を振った手だった。何度裂けても治り、治ってはまた裂けた。まだ八歳の、小さな手だった。
誰も見たことがない手だった。誰も見ようとしなかった。
オースティンは手を閉じた。血を拳の中に隠すように、静かに握った。
樫の葉が一枚、ゆっくりと頭上から落ちてきた。まだ緑の葉だった。仰いで見つめた。動かなかった。風の音だけが中庭を渡っていく。
やがて少年は石のようになった。
【続く】