作品タイトル不明
第70話 氷の迷宮
蒸気で焼けた肌が痛む。全身のゴールデンフォームは剥がれ、右腕だけに薄い金色の光が残っている。それすらも、心臓の鼓動に合わせて明滅していた。魔力は底が見えている——だが、空ではない。まだ僅かに残っている。
レオンは拳を握った。金色の光が指の間から漏れ、石畳に淡い影を落としている。
オースティンが一歩近づいた。その一歩で、左側の石畳に霜が広がり、右側の石畳から薄い蒸気が立ち上った。冷と熱が同居する足跡。
「降りろ、レオン。俺はこれ以上、お前を傷つけたくない。お前は俺の弟だ。だから——」
「黙れ」
レオンの声が、低く響いた。
「その上から目線——反吐が出る」
レオンは血に滲んだ顔を上げ、オースティンを睨んだ。蒸気の火傷が頬に赤い跡を残し、左肩からは氷の刃に切られた傷が血を滲ませている。だがその目だけは——真っ直ぐに、兄を射抜いていた。
「傷つけたくない? 笑わせるな、兄上。この七年間、エイドリアンが俺を殴っていた時——お前は何をしていた? 何もせず、黙って見て見ぬふり。俺が『出来損ない』と罵られ、使用人以下の扱いを受けていた時も、お前はただ傍観していただけだ。それで今更『傷つけたくない』だと? お前の優しさなんか、ただの自己満足だ。自分の手を汚さず、『優しい兄』でいたいだけだろう。偽善者面するな」
言葉が舞台に落ちて、静寂が広がった。観客席の囁きが、潮が引くように消えていった。
オースティンの表情が、僅かに強張った。青い目の奥で何かが揺れたが、すぐに静まった。
「……否定はしない」
長い沈黙の後、オースティンは静かに言った。その声には、否定の色はなかった。
「お前の言う通りかもしれない。俺は何もしなかった」
間があった。万年灯のような、長い間だった。
「だが——この場では、俺が勝つ」
◆◇◆
レオンは答えなかった。
言葉で返す段階は、もう過ぎていた。拳で返す。それだけだ。
レオンは舞台を見渡した。
蒸気攻撃と冷熱の連射で、舞台のあちこちに氷柱が林立していた。大きいものは人の背丈ほどあり、小さいものでも膝の高さはある。オースティン自身の冷気が作り出した、氷の森。白い氷柱が乱立する舞台は、まるで冬の廃墟のようだった。
レオンの目が、氷柱の一本に止まった。
透明な氷の表面が、対面の氷柱を映している。鏡のように。隣の氷柱もまた、その隣の氷柱を映している。反射が反射を生み、氷の森全体が、無数の鏡で構成された迷路のようになっていた。
(これを使う)
(兄上の氷を——逆に利用する)
レオンは右手に金色の光を集中させた。ゴールデンフォームの残りの魔力を、掌に一点集中する。光が掌の中で膨張し、指の隙間から溢れ出した。
そしてオースティンに向けて——叫んだ。
「フラッシュ!」
金色の閃光が、爆発するように放たれた。
光が舞台全体を白く塗り潰した。氷柱の表面で乱反射し、あらゆる方向から光が降り注ぐ。白い氷の森が金色に染まり、一瞬だけ——舞台が黄金の世界になった。
「——っ!」
オースティンは咄嗟に腕で目を庇った。瞼の裏まで焼けるような眩さだ。左手から冷気を放って防壁を張ろうとしたが、光は氷の表面を反射して横から、後ろから、あらゆる角度で目を刺してくる。自分の氷が、光を増幅していた。
二秒。
目を開けた時には、光は消えていた。
オースティンは舞台を見渡した。目が慣れるまで、僅かに瞬きが続く。視界がはっきりしてきて——レオンの姿を探した。
いない。
舞台の中央にも、端にも、どこにもいない。あるのは——氷柱の林立だけだ。白い氷が乱立する舞台に、レオンの影は一つもなかった。
(氷の森に逃げ込んだか……)
オースティンは眉をひそめた。舞台を一歩踏み出し、氷柱の間を覗き込む。視界が遮られ、三歩先が見えない。
皮肉だった。自分の冷気が作り出した氷の森が——今、自分の邪魔をしている。
「……隠れたか、レオン」
オースティンは呟いた。声に怒りはなかった。だが、僅かな苛立ちが滲んでいた。目潰しから逃走——華麗ではない。だが、有効な判断だ。
(全部溶かすか——いや)
右手に炎を灯しかけて、止めた。氷の森を一掃するほどの炎を出すには、魔力が足りない。冷熱同時攻撃の連発で、自分も相当消耗している。
(あいつはそれを見越して、逃げ込んだのか……?)
まさか。あの状態で、そこまで計算できるはずがない。
——いや。
オースティンはレオンの目を思い出した。膝をついて、血に塗れて、満身創痍で。それでもあの目だけは——ずっと何かを考えていた。
(……直接探しに行くしかないか)
オースティンは一歩、氷の森に足を踏み入れた。
◆◇◆
氷柱の影に身を滑り込ませたレオンは、背中を冷たい氷に預けた。
「はあ……はあ……はあ……」
荒い呼吸が止まらない。氷の冷気が火傷の肌に染みて、痛みと安堵が同時に走った。全身が悲鳴を上げている。脚が震え、座り込みたい衝動を堪えていた。
『……大丈夫か、小僧』
オグリの声が、脳裏に響いた。静かな声だった。
(なんとか……)
レオンは氷柱に額を押し当てた。冷たさが熱を吸い取り、少しだけ頭がはっきりした。
(正面からぶつかっても勝てない。冷熱同時攻撃の前じゃ、残りの魔力では……)
『分かっておる。だが、逃げ回っていても、いずれ追い詰められる』
(逃げるつもりはない)
レオンは目を開け、周囲を見渡した。氷柱が林立し、視界が遮られている。そして——氷の表面が、鏡のように光を反射していた。
(これを使う。兄上の氷を、逆に利用してやる)
『ほう……』
オグリの声に、微かな感心が滲んだ。
『面白いことを考えるな、小僧』
レオンは右手の金色の光を見つめた。残りの魔力で、全力のゴールデン・レイは一発——もしかしたら二発。だがそれを、そのまま撃つ必要もない。
レオンは光を細く、鋭く絞り込んだ。全力の砲撃ではなく——一条の光線として。
右手を翳し、目の前の氷柱に光線を放った。
金色の線が氷の表面を滑り、角度を変えて隣の氷柱に跳ねた。そこからさらに反射して、三本目の氷柱を経由し——氷の森の向こう側へ、消えていった。
レオンは笑った。使える。
◆◇◆
氷の森の中を、オースティンが進んでいた。
左手に冷気を纏い、いつでも攻撃できる態勢だ。右手の炎は、魔力温存のために消している。周囲には氷柱が林立し、三歩先が見えない。自分の足音だけが、凍りついた石畳の上に響く。
不気味なほど静かだった。
「出てこい、レオン」
オースティンの声が、氷の森に響いた。氷柱の表面で反響し、あちこちから自分の声が返ってくる。
「隠れて勝てると思っているのか?」
返事はなかった。静寂だけが、答えだった。
「……臆病風に吹かれたか。さっきまでの威勢はどこに行った」
沈黙。足音を殺し、気配を探りながら進む。だがレオンの姿はどこにもない。氷の表面に映るのは、自分自身の姿だけだ。
その時——
シュッ——
金色の光線が、オースティンの左から飛んできた。
一瞬だけ見えた光の筋。蝋燭の炎が揺れるように細い光が、空気を切って走った。オースティンは咄嗟に身を捻った。光線が頬を掠め、赤い血が一筋流れた。温かい血が顎を伝い、石畳に一滴落ちた。
オースティンは光線が飛んできた方向を見た。氷柱が三本、重なるように立っている。その向こうには——誰もいない。
「……どこだ」
シュッ——
今度は右から。オースティンが身を引いた。光線が右肩の衣服を掠め、布が焦げた匂いが鼻を突いた。振り向いた先には、やはり氷柱があるだけだ。
オースティンは即座に反撃した。右手に炎を凝縮させ、光線が飛んできた方向に叩き込んだ。氷柱が三本まとめて砕け散り、蒸気が噴き上がった。砕けた氷の向こうを覗き込む——誰もいなかった。氷柱があっただけだ。
「いない——? 確かにこの方向から——」
シュッ——
背後から。
「くっ——!」
反撃に意識を向けた瞬間を突かれた。光線が左腕を掠め、袖が切り裂かれた。赤い血が滲む。
オースティンは振り向き、再び炎を叩き込んだ。氷柱が砕ける。蒸気が上がる。だが——やはり誰もいない。
「小賢しい真似を……!」
シュッ——
今度は右斜め前。避けた。すぐに光線が来た方向に冷気の掌撃を放った。氷柱が粉々になった。誰もいない。
攻撃するたびに氷柱が減る。だがレオンは一向に姿を現さない。光線は別の方向から、また飛んでくる。一本砕いても、まだ何十本も残っている。
光線は氷柱の森の至るところから飛んできたが、レオンの姿はどこにもなかった。四方八方から攻撃が来るのに、姿が見えない。まるで氷の森そのものが攻撃しているかのようだった。
オースティンの腕と頬に、切り傷が増えていく。浅い傷ばかりだ。だが、それがオースティンの動きを微かに鈍らせた——反撃するたびに魔力を使い、次の光線が来るかもしれない方向に意識を割かなければならない。見えない敵は、見える敵の何倍も厄介だった。
(反射だ——あいつ、氷を鏡にして光線を跳ねさせている。だからどこを壊しても本体がいない……俺の氷を利用するとは……!)
◆◇◆
オースティンは足を止め、呼吸を整えた。
(落ち着け。光は直進する。反射の軌道を逆に辿れば——)
氷柱の配置を、頭の中に描いた。左から来た光線の角度。右から来た光線の角度。後ろから来た光線の角度。それぞれの反射点を辿り、逆算していく。全ての軌道は——一点に収束する。
(あそこだ)
オースティンは足音を殺し、氷柱の影を縫うように移動した。自分の呼吸だけが、凍った空気の中で白く染まる。氷柱と氷柱の間を抜け、計算した位置に近づいていく。
氷柱の向こうに——影が見えた。
人の形をした、黒い影。氷の表面に映り込んだ、レオンの輪郭。
「見つけたぞ、レオン」
オースティンは冷気を掌に凝縮させ、氷柱を回り込んだ。一撃で終わらせる——
掌が氷を砕いた。だが——手応えがなかった。
砕けた氷の向こうには、誰もいなかった。
そこにあったのは、もう一本の氷柱だけだ。さっき見えた人影は、氷の表面に映ったレオンの残像——鏡と鏡が向かい合って映し出す、実体のない虚像だった。
「……残像だと?」
光線で注意を引き、氷の残像で位置を偽装する。二重の欺瞞。
オースティンが悟った瞬間——背後で、靴底が石畳を蹴る音がした。
◆◇◆
振り向いた。
レオンが、すぐ背後にいた。
いつの間に接近していたのか。オースティンが残像に気を取られていた僅かな時間——レオンは氷柱の死角を縫って、音を殺して背後に回り込んでいた。
右拳に、残った魔力の全てが注ぎ込まれていた。薄く明滅していた金色の光が、拳一点に凝縮されている。指の隙間から漏れる光は先ほどよりも深く、濃い。最後の全てを、この一撃に。
レオンの目と、オースティンの目が合った。
至近距離。外しようのない間合い。
レオンは——笑った。
「兄上。臆病者は——どっちだ?」
金色の拳が、オースティンの顔面に向かって振り抜かれた。
オースティンの体が反応した。考えるより先に、右手が前に出ていた。掌から灼熱の波動が炸裂する。
金色の拳と熱波が、至近距離でぶつかった。
衝突の瞬間——周囲の氷柱が、一斉に砕けた。衝撃波が放射状に広がり、氷片と蒸気と金色の粒子が入り混じって宙を舞った。白と金の破片が雪のように降り注ぎ、舞台全体が霞に包まれた。
拮抗していた。
金色の拳が、熱波を押している。オースティンの足が、僅かに後退した。
(押している——?)
レオンは歯を食いしばった。拳を押し込む。あと少し。あと少しで——
だが、オースティンの左手が動いた。
冷気が、レオンの拳を包み込んだ。金色の光の表面に、霜が走った。熱波で押し返しながら、冷気で拳そのものを凍らせにかかる。冷と熱の二重の力——片方だけなら耐えられた。だが、同時に来る二つの力が、最後の金色を挟み撃ちにした。
パキ。
金色の光に、亀裂が入った。
パキパキパキ——
金色が、拳から剥がれていった。氷のように砕けて、散った。
レオンの素手が、冷気と熱気の中に晒された。凍傷と火傷が同時に走り、指先から感覚が消えていく。
熱波が、レオンの体を押し返した。
吹き飛ばされた。氷の破片の中を、体が弧を描いて飛んでいく。背中が石畳に叩きつけられ、一度弾み、転がって、ようやく止まった。
◆◇◆
「がっ……はっ……」
レオンは地面に倒れたまま、咳き込んだ。口から血が溢れ、白い石畳を赤く染めていく。全身が焼けるように熱い。熱波の直撃で、最後のゴールデンフォームが完全に消え去っていた。もう、魔力は一滴も残っていない。
レオンは立ち上がろうとした。だが、体が言うことを聞かない。腕が震え、膝が折れ、何度試みても起き上がれなかった。
「……危なかった」
オースティンの声が聞こえた。足音が近づいてくる。レオンは顔を上げた。オースティンが、荒い息を吐きながら立っていた。頬と腕にはゴールデン・レイの反射で負った切り傷がある。無傷ではなかった。
「見事な策だった」
オースティンは肩で息をしながら言った。
「俺の氷を逆手に取り、反射で翻弄し、残像で誘い込んで背後を突く。あの拳がまともに入っていたら——俺も無事では済まなかっただろう」
「……へへ」
レオンは仰向けのまま、掠れた声で笑った。
「褒め言葉……として……受け取っておく……」
「褒めているわけじゃない。事実を言っただけだ」
「兄上がそう言うなら……褒め言葉だな……」
オースティンは僅かに眉を動かした。満身創痍で地面に転がっているくせに、口だけは達者だ。
「……まだ減らず口を叩けるのか」
「口を動かすのに……魔力はいらないからな……」
レオンは咳き込んだ。血の混じった咳だった。だが、口元の笑みは消えなかった。
「だが——終わりだ」
オースティンは右手を掲げた。
その掌に、炎が集まり始めた。先ほどの熱波とは違う——凝縮された、密度の高い火球。赤い光が舞台を照らし、砕けた氷の破片が蒸発して白い蒸気を上げた。
火球が、ゆっくりと膨らんでいく。
レオンは仰向けのまま、その赤い光を見上げた。動けない。避けられない。魔力も、体力も、何も残っていない。
「降参しろ、レオン。これ以上は——」
「断る」
即答だった。
オースティンの目が、僅かに見開かれた。
「……まだ言うか」
「ああ。まだ言う」
レオンは仰向けのまま、兄を見上げた。血に塗れた顔で、不敵に笑った。
「だって——兄上、今すごくいい顔してる」
「……何?」
「さっきまでの……優しい兄の仮面じゃない。偽善者の顔でもない。それが——兄上の、本当の顔だろ」
オースティンは答えなかった。掌の火球が、赤い光を放ち続けている。
「だから——降りない」
レオンの目が、炎の赤を映して光った。
「その火球、撃ちたいなら撃てばいい。——俺は、逃げない」
沈黙が落ちた。
炎が、さらに膨れ上がった。オースティンの顔が、赤い光に照らされている。その表情は——読めなかった。
レオンは仰向けのまま、笑い続けていた。
その目には——まだ、光が消えていなかった。
【続く】