軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第121話 楔の聖女

この女の容姿には一片の瑕疵もなかった。

美しいという言葉では足りない。現実の人間とは思えなかった。千年の時の外に置かれた画から、そのまま抜け出してきたかのような超絶の美貌。銀灰の髪が腰まで流れ、旧帝国の白い祭衣が蒼灰石の床に裾を引いている。肌は月光のように白く、閉じられた瞼の下で、微かに胸だけが上下していた。

だがその美しさが、レオンの本能を逆撫でした。

(——おかしい)

遺跡の防衛機構が千年稼働し続ける空間の最深部に、生きた人間がいるはずがない。外層の老化の術式だけでも、普通の人間なら数分で白骨になる。それなのにこの女は——一切の影響を受けていなかった。

「……まさか」

マルグリットの声が震えていた。

レオンは振り返った。あのマルグリットの顔から——血の気が引いていた。グスタフの威圧にも禁器にも動じなかった老学者が、目の前の女を見て——恐怖していた。

「どうした、マルグリット殿」グスタフが低く問うた。

「あの女の顔を——私は知っています」

マルグリットの声は掠れていた。

「ケルム・アルカナムの古文庫に、一枚の肖像画が保管されている。千年前の旧帝国末期に描かれたもの。——帝国最後の大典礼で『楔』に選ばれた最高位神官の肖像です」

グスタフの灰色の瞳が、初めて——動揺した。

「千年前の人間が——生きているというのか」

「生きてはいません」マルグリットは首を横に振った。「彼女は千年前に死んでいます」

◆◇◆

マルグリットは目を女から離せないまま続けた。

「旧帝国の魔法体系は、現代のサーキットとは根本的に異なるものでした。『 刻印典礼(グリフ・リトゥス) 』——物体に紋様を刻むだけでなく、人間の魂そのものを術式の動力源に変える技術です。生きた人間を建造物に溶かし込み、永遠に術式を回し続ける」

レオンの背筋に、冷たいものが走った。

「この遺跡の防衛機構が千年経っても動いていたのは——」

「ええ。彼女の魂が、燃え続けていたからです」

沈黙が落ちた。

レオンは女を見つめた。千年前に魂を燃料にされ、遺跡に溶かされた人間。死んでいるのに肉体は朽ちず、千年間この場所に立ち続けている。

「楔の聖女——クラウストラ・サクラ」マルグリットが呟いた。「旧帝国の記録では、そう呼ばれていました。帝国が崩壊する最後の日に、この遺跡の最も重要なものを守るために——生贄として封じられた女」

グスタフの灰色の瞳が、鋭く細まった。

「死んでいるなら——なぜ、呼吸をしている」

マルグリットは答えられなかった。

◆◇◆

答えは——すぐに来た。

楔の聖女の瞼が、開いた。

瞳の色は——見たことのないものだった。金でも銀でもない。蒼灰石の奥で光る、古い星のような色。千年の時を経てなお消えていない光だった。

レオンの全身が凍りついた。

あの瞳が向けられた瞬間——体の老化が、急激に加速した。

中枢区域に入ってから止まっていたはずの老化の術式が、楔の聖女を中心に再び脈動し始めた。しかも外層とは比較にならない密度で。

指先の皮膚が乾いていく。関節が軋む。レオンは左掌のアビスパルムを全力で展開したが——吸収が追いつかなかった。

「——退がれ!」

グスタフが叫んだ。老侯爵の顔に新たな皺が刻まれていく。白くなった髪がさらに枯れ、腰が僅かに曲がった。

マルグリットは禁器の箱を胸に抱えて防護しているが、灰青の瞳の光が急速に衰えていく。

楔の聖女が——ゆっくりと、歩き始めた。

足音はなかった。白い祭衣の裾が蒼灰石の床を滑るように——三人に向かって近づいてくる。その歩みに合わせて、空間全体の老化の術式が脈動した。近づくほどに、生命力が削られていく。

レオンは後退した。だが足が重い。体の老化が動きを鈍らせている。

(——あの女が、防衛機構そのものだ)

楔の聖女の魂は遺跡に融合している。この女が動けば、遺跡の全ての術式が彼女を中心に集束する。防衛機構の最終兵器。千年の蓄積が、一人の女の形をして歩いてくる。

◆◇◆

グスタフが動いた。

禁器の剣を構え、残っていた最後の一撃を解き放った。

ヴァルトシュタイン歴代当主の魔力が、白い奔流となって剣から噴き出した。通路の壁を抉り、蒼灰石の柱を震わせ、空間全体が白い光に呑まれた。

レオンは腕で顔を庇った。余波だけで全身が叩かれる。

(——これが、ヴァルトシュタイン侯爵家の本当の力か)

千年の名門が積み上げた魔力の結晶。あの光の中に入れば、六つ星の神聖術士だろうが瞬時に消し飛ぶ。レオンですら、余波だけで膝が震えた。

白い奔流が楔の聖女に直撃した。

光が——消えた。

煙のように。蝋燭の火が吹き消されるように。ヴァルトシュタイン歴代当主の魔力が、楔の聖女の身前で霧散した。

白い祭衣の裾すら、揺れなかった。

カランッ——。

グスタフの手から、禁器の剣が落ちた。刀身に亀裂が走り、柄が崩れ始めていた。

老侯爵の灰色の瞳に、生涯で初めて——理解の外にある光景が映っていた。

◆◇◆

「マルグリット殿——!」

グスタフが叫んだ。

マルグリットは既に動いていた。禁器の箱を両手で掲げ、蓋を開いた。

箱の内側から赤黒い光が溢れ出した。旧帝国の紋様が狂ったように脈動し、光が渦を巻いて楔の聖女に襲いかかった。ケルム・アルカナム大魔導師が生涯をかけて封印した術式。その一つ目が解き放たれた。

赤黒い光が中枢区域全体を呑み込んだ。蒼灰石の柱が軋み、床の紋様が悲鳴を上げた。

光が晴れた。

楔の聖女は——立っていた。一歩も動いていなかった。赤黒い光は彼女の周囲で霧散し、白い祭衣には染み一つついていなかった。

マルグリットの灰青の瞳が見開かれた。

「……嘘でしょう」

マルグリットは二つ目の術式を解き放った。箱の紋様が砕けるほどの光が噴出し、空間を白く染め上げた。グスタフも同時に、禁器を失った素手で自身の体に残る全ての魔力を練り上げ、拳に込めて叩きつけた。

二人の攻撃が同時に楔の聖女を包み込んだ。

光が轟いた。空間が揺れた。蒼灰石の柱が砕け、天井から破片が降り注いだ。

光が収まった時——。

楔の聖女は、やはり立っていた。

白い祭衣は揺れてすらいなかった。古い星のような瞳が、静かに二人を見つめていた。

マルグリットの手の中で、禁器の箱が砕けた。黒曜石の破片が床に散らばった。

「……当然、ですわね」マルグリットは掠れた声で呟いた。「彼女の力の源は刻印典礼そのもの——遺跡と融合した魂が千年分の術式を駆動している。外から力をぶつけても、同じ原理の術式では、千年の蓄積を上回れるはずがない」

グスタフの灰色の瞳が、静かにマルグリットに向けられた。

「……つまり、打つ手はないということか」

マルグリットは答えなかった。

◆◇◆

楔の聖女が——手を伸ばした。

纖細な指先が、空気を掴むように動いた。それだけだった。

グスタフの体が——枯れ始めた。

老侯爵の肌が急速に乾き、皺が深くなり、髪が抜け落ちていく。灰色の瞳の光が消えていく。千年の名門を率いた老人が、数秒の間に——百年分の時間を奪われた。

グスタフは膝をついた。禁器の剣はもう砕けていた。支えを失った体が、ゆっくりと倒れた。

灰色の瞳が、最後にレオンを見た。

「——小僧。お前は……面白い男だった」

それがヴァルトシュタイン侯爵家第十七代当主、グスタフ・フォン・ヴァルトシュタインの最後の言葉だった。

老侯爵の体が——灰になった。内側から崩れるように、肉が枯れ、骨が砕け、風化していく。千年の時間が一瞬で追いついたかのように。数秒後には——蒼灰石の床の上に、灰色の粉が薄く散っているだけだった。

マルグリットが叫んだ。だがその声は途中で途切れた。

楔の聖女の視線が、マルグリットに向けられた。

マルグリットの体が、同じように枯れ始めた。灰青の瞳が見開かれたまま——。

「刻印典礼を克する術式は……同じ原理の中には存在しない」マルグリットは枯れていく唇で呟いた。「だが——刻印典礼の外にある体系なら……あるいは……」

最後まで——学者だった。

マルグリットの体が灰になった。禁器の箱の破片と共に、蒼灰石の床に散った。

中枢区域に——レオンだけが残された。

◆◇◆

レオンは動けなかった。

目の前で二人の人間が灰になった。帝国最高峰の実力者が——禁器を使い尽くしてなお、一撃も与えられずに消滅した。

楔の聖女の古い星のような瞳が——レオンに向けられた。

生命力が急速に削られていく。アビスパルムが全力で吸収しているが追いつかない。指先の皮膚が乾き、爪が脆くなり、視界の端が霞み始めた。

(——死ぬ)

レオンの本能が、そう告げていた。

楔の聖女が——レオンに向かって歩き始めた。

一歩。足音はない。だが一歩ごとに空間全体の術式がさらに濃密になっていく。

二歩。レオンの膝が震えた。関節が軋む。

三歩。

レオンは奪った騎士の剣に、残り少ない魔力を全て注ぎ込んだ。刃が白く輝き、楔の聖女に向かって横薙ぎに斬りつけた。

楔の聖女が、指先で剣に触れた。

カンッ——。

軽い音。剣が半ばから折れ、破片が床に散った。

レオンの手に残ったのは柄だけだった。

楔の聖女の瞳が、至近距離からレオンを見つめていた。古い星のような光。そこに感情があるのかどうかすら分からなかった。

纖細な手が——レオンの胸に向かって伸びた。

◆◇◆

その時——胸元の吊墜が、震えた。

微かな震動だった。だがレオンのサーキットを通じて、全身に伝わった。

吊墜の中から、声が響いた。

『——下がれ、小僧』

オグリの声だった。精粋の消化で沈黙していたはずのオグリが——低く、重く、今まで聞いたことのない声色で言った。

『クラウストラ・サクラ。——わしの時代にも、同じものがあった。魂を建物に溶かし、術式の薪にする。刻印典礼。——おぞましい術だ』

吊墜が——光った。

暗い金色の光だった。レオンの胸元から静かに溢れ出し、楔の聖女の伸ばした手に触れた。

楔の聖女の指先が——止まった。

纖細な指が、暗い金色の光に触れた瞬間——弾かれたように引き戻された。

楔の聖女の古い星のような瞳が——初めて、揺れた。

グスタフの禁器にも、マルグリットの術式にも微動だにしなかった存在が——一歩、退いた。

◆◇◆

『この吊墜の材質が何か、小僧には教えていなかったな』

オグリの声が、吊墜を通じて響いた。

『 背理石(アンチノミア) 。——わしの時代、刻印典礼が暴走した際に、唯一それを止められる鉱物だった。あらゆる「刻印」を拒絶する性質を持つ。魂を物質に刻む刻印典礼の術式は、この石に触れた瞬間に——原理そのものが否定される』

暗い金色の光が強まった。吊墜から溢れ出した光が、中枢区域の床に刻まれた旧帝国の紋様に触れた。

紋様が——震えた。

赤黒い脈動のリズムが乱れ、暗い金色に染まり始めた。楔の聖女と遺跡を繋ぐ刻印典礼の術式回路が——干渉を受けていた。

楔の聖女がさらに一歩退いた。古い星のような瞳に——動揺が走った。

『あの老女が死に際に言っていたことは正しい。刻印典礼を克するものは、同じ原理の中にはない。——だが、刻印典礼の外にある体系ならば、話は別だ。背理石は力で刻印を圧し潰すのではない。「刻む」という行為そのものを拒絶する。力の大小の問題ではない——原理の相性の問題だ』

暗い金色の光が——楔の聖女を包み始めた。

女が後退した。だが遅かった。背理石の光は遺跡の紋様を伝って広がり、中枢区域全体を覆っていく。楔の聖女と遺跡を繋ぐ刻印典礼の回路が——一本、また一本と切断されていく。

楔の聖女が——声を上げた。

千年の沈黙を破る、人間の声だった。

それは悲鳴だったのか。それとも——千年ぶりに、魂を縛る鎖が断たれた安堵だったのか。レオンには分からなかった。

女の体が薄れていく。白い祭衣が、銀灰の髪が、古い星のような瞳が——暗い金色の光の中で、溶けるように消えていく。

遺跡との繋がりを断たれた楔の聖女は、もはや形を保てなかった。千年間、刻印典礼によって遺跡に縛り付けられていた魂が——楔が抜かれたように、解放されていく。

最後に——その瞳がレオンを見た。

古い星の光の奥に、ほんの一瞬——何かが見えた。千年の間に摩耗し尽くしたはずの人格の、最後の残滓。

唇が動いた。声にはならなかった。だが——レオンには、読めた気がした。

——ありがとう。

楔の聖女の体が、消えた。

暗い金色の光が静まり、中枢区域の紋様が元の青白い光に戻った。空気中の老化の術式が急速に薄まっていく。防衛機構の脈動が——止まった。

千年間燃え続けていた魂が、ようやく消えた。

遺跡が——沈黙した。

◆◇◆

『……終わったか』

オグリの声が、かすかに響いた。

『背理石の力を使うのは、わしにとっても消耗が大きい。当分は……動けん。すまんな、小僧』

それきり、オグリの声は途絶えた。吊墜の光は完全に消え、ただの古い石のペンダントに戻っていた。

レオンの膝が——折れた。

蒼灰石の床に崩れ落ちた。全身の力が抜けていた。アビスパルムの吸収で辛うじて致命的な老化は免れたが、体はボロボロだった。指先は乾き、関節は軋み、視界が霞んでいる。

グスタフがいた場所に——灰色の粉が薄く散っていた。

マルグリットがいた場所に——黒曜石の破片と灰が残っていた。

二人とも消えた。帝国の頂点に立っていた者たちが——塵になって、蒼灰石の床に散った。

レオンは天井を見上げた。見えないほど高い天井。千年前の旧帝国が造った空間。その中心にあった楔の聖女は消え、防衛機構は沈黙し、台座の上の青白い光だけが静かに明滅している。

「——フィーロが言っていた核は……あの台座か……」

声が掠れていた。体が動かなかった。

立ち上がらなければならなかった。核を確認し、遺跡を出て、テモティエたちと合流しなければならない。グスタフが死んだ以上、テモティエたちを追う者はいない。だが——エルベルトが残っている。あの男が何をするか分からない。

早く戻らなければ。

だが——体が、言うことを聞かなかった。

視界が暗くなっていく。

(——まだ、倒れるわけには——)

レオンの意識が——途切れた。

蒼灰石の床の上に、一人の少年が倒れていた。千年の遺跡の最深部。防衛機構が沈黙した静寂の中で。二人分の灰と、砕けた禁器の破片と、折れた剣の柄に囲まれて。

台座の上の青白い光だけが、静かに、静かに、明滅していた。