軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第122話 撤退

レオンの意識が——戻った。

最初に感じたのは、冷たさだった。蒼灰石の床が、頬に張り付いていた。

どれほどの時間が経ったのか分からなかった。数分か、数時間か。体の感覚が曖昧で、指先に力が入らない。

(——生きている)

その事実だけが、確かだった。

レオンはゆっくりと目を開いた。視界がぼやけていた。暗い天井が見える。千年前の旧帝国が造った空間。その中心にあった台座の上で、青白い光が静かに明滅していた。

防衛機構の脈動は——消えていた。空気中に漂っていた老化の術式の気配が完全に途絶え、遺跡の最深部は、ただの古い石室に戻っていた。

レオンは腕を突き、体を起こそうとした。肋骨が軋んだ。全身の関節が錆びた蝶番のように軋む。アビスパルムが辛うじて致命的な老化を吸収してくれたが、代償は大きかった。指先の皮膚は乾き、爪が脆くなり、全身の筋肉が数年分は衰えた感覚がある。

視線が——床の上に落ちた。

灰色の粉。

グスタフがいた場所だった。帝国最強の侯爵家を率いた老人が——千年分の時間に呑まれ、塵になった。その傍らに、砕けた禁器の剣の残骸が転がっている。柄すら原形を留めていなかった。

少し離れた場所に、黒曜石の破片と、もう一つの灰の跡。

マルグリット。ケルム・アルカナムの大魔導師。最後まで学者であり続けた老女。

二人とも——消えた。

レオンは歯を食いしばって、立ち上がった。膝が震えた。だが立てた。

胸元の吊墜に手を当てた。背理石アンチノミアの温度は完全に消え、ただの冷たい石になっていた。オグリの気配はない。あの一撃で限界を超えたのだろう。当分は目を覚まさない。

レオンは台座に近づいた。青白い光の中心に、小さな結晶体が浮かんでいた。フィーロが言っていた遺跡の核。それ以上のことは今のレオンには分からなかったし、触れる余力もなかった。

(——まず、戻らなければ)

テモティエたちが待っている。グスタフが死んだ今、地上の勢力図が根本から変わっている。

レオンは台座に背を向け、来た道を歩き始めた。

◆◇◆

帰路は——地獄だった。

防衛機構は沈黙していた。楔の聖女が消えたことで、遺跡全体の術式が停止している。老化の術式も、通路の罠も、全てが死んでいた。

だがそれでも、レオンの体は限界だった。

壁に手をつきながら一歩ずつ進んだ。何度も膝が折れた。暗い通路の中で、自分の荒い呼吸だけが響いていた。

中層の回廊で一度倒れた。どれくらい横になっていたか分からない。目を覚まして、また歩いた。

外層に出た時、遺跡の入口から光が差し込んでいるのが見えた。昼なのか夕方なのかも分からなかった。ただ——光があった。

レオンは最後の力を振り絞って、遺跡の正門を出た。

◆◇◆

陽光が目を灼いた。

レオンは片手で目を庇いながら、正門前の平地を見渡した。

野営地があった。天幕がいくつか張られ、その周囲に人影が見える。だが——入る前に見た光景とは、明らかに異なっていた。数が少ない。六十名いたはずの三勢力の精鋭が、半数以下に減っている。地竜は一頭も見えない。天幕のいくつかは傾き、焚火の跡が黒く残っている。

テモティエの隊は——天幕の端に固まっていた。武装を解かれてはいたが、縛られてはいなかった。テモティエがエヴィルと何か話しているのが見える。ヘレネが負傷した隊員の手当てをしていた。

そして——天幕の中央付近に、白銀の鎧が見えた。

エルベルト。

亀裂だらけの鎧のまま、折り畳み椅子に腰掛け、腕を組んでいた。碧眼が野営地全体を睥睨している。だがその碧眼の下に——隈があった。消耗が顔に出ている。

レオンの足音に、テモティエが最初に気づいた。

「——レオン!」

テモティエが駆け寄ってきた。その後ろからエヴィルが、ヘレネが、隊員たちが続いた。

「生きていたのか——」テモティエの声が震えていた。「お前が遺跡内部で行方不明になってから——」

「——すまない。色々あった」

レオンはテモティエの肩に手を置いて、体を支えた。立っているのがやっとだった。

「酷い顔色だ」エヴィルが紫の瞳を細めた。「何があった」

「後で話す。——先に一つだけ、伝えなければならないことがある」

レオンはテモティエから体を離し、まっすぐに立った。膝が震えていた。だが顔を上げた。

エルベルトの方を——見た。

◆◇◆

エルベルトは椅子から立ち上がらなかった。

碧眼がレオンを捉えていた。上から下まで一瞥する。泥と血にまみれた体。砕けた鎧。武器は何一つない。——そして、異常なまでの消耗。

「帝都学院の行方不明者か」エルベルトは腕を組んだまま言った。「遺跡内部で生き延びたとは——運がいい」

レオンはエルベルトの前まで歩いた。

三勢力の騎士たちが、警戒するようにレオンを見ていた。ヴァルトシュタインの騎士が十数名。ザンクトハイムが六名。ケルム・アルカナムが六名。全員が消耗しきった顔をしているが、武装はしていた。

レオンは、その全員の前で——口を開いた。

「遺跡の最深部——中枢区域に到達した」

空気が変わった。

エルベルトの碧眼が、初めて——レオンに集中した。

「何だと」

「中枢区域には、防衛機構の核が存在していた。旧帝国の刻印典礼によって魂を遺跡に融合された存在——楔の聖女クラウストラ・サクラ。千年前に生贄として封じられた最高位神官だ。遺跡の防衛機構が千年間稼働し続けていた原因は、彼女の魂が動力源だったからだ」

野営地に静寂が落ちた。騎士たちが顔を見合わせた。

エルベルトの碧眼が細まった。

「それで——楔の聖女はどうなった」

「消滅した。楔の聖女と遺跡を繋ぐ刻印典礼の回路を断つことで、防衛機構は完全に停止した。——今、遺跡の内部は沈黙している。老化の術式も、罠も、全て止まっている」

エルベルトの碧眼に、鋭い光が走った。

「お前が——消滅させたというのか。学院の生徒一人が、遺跡の最終防衛機構を」

「一人じゃない」

レオンの声が——低くなった。

「ヴァルトシュタイン侯爵家当主グスタフ殿。ケルム・アルカナム大魔導師マルグリット殿。——二人がいなければ、俺はあの場に立ってすらいなかった」

沈黙。

エルベルトの碧眼が——僅かに揺れた。

「なぜ過去形で語る」

レオンはエルベルトの碧眼を、まっすぐに見つめた。

「——二人は、死んだ」

◆◇◆

静寂が——野営地を覆った。

ヴァルトシュタインの騎士たちが凍りついた。十数名の精鋭が、一言も発せずに立ち尽くしていた。

「……何だと」

最初に声を出したのは、ヴァルトシュタインの騎士長だった。歴戦の男の声が、微かに震えていた。

「グスタフ様が——死んだ?」

「楔の聖女の力は、刻印典礼によって遺跡と融合した千年分の術式だった。グスタフ殿は禁器の全力を解き放ったが——千年の蓄積には届かなかった。マルグリット殿も封印術式を二つ解放したが、同じだった。二人の攻撃は、楔の聖女の祭衣すら揺らせなかった」

レオンの声は平坦だった。感情を押し殺していた。でなければ——声が保たなかった。

「楔の聖女は二人の生命力を直接奪った。グスタフ殿は千年分の時間を一瞬で受け、灰になった。マルグリット殿も同様だ。——遺跡の最深部に、二人の遺灰が残っている」

ヴァルトシュタインの騎士たちの間に、動揺が波紋のように広がった。騎士長の拳が白くなるほど握りしめられていた。グスタフに直接仕えていた近衛の一人が——膝をついた。

ケルム・アルカナムの術士たちも同様だった。灰色のローブの下で、顔が蒼白になっていた。マルグリットはケルム・アルカナムの最高位の魔導師の一人だった。その喪失が何を意味するか——術士たちは理解していた。

だが——最も深い動揺を見せたのは、エルベルトだった。

◆◇◆

エルベルトの碧眼が——見開かれていた。

グスタフ・フォン・ヴァルトシュタイン。帝国三大家族の頂点に立つ老侯爵。ザンクトハイム家の嫡男であるエルベルトにとって、グスタフは政治的な競争相手であると同時に、帝国の秩序そのものの一角だった。あの老人が——灰になった。禁器を使い尽くしてなお、一撃も与えられずに。

マルグリット。ケルム・アルカナムの大魔導師。あの老学者の知識と封印術式は、帝国における学術的権威の柱だった。それが——砕けた禁器の破片と共に、蒼灰石の床に散った。

二人の死が意味するもの。エルベルトの頭脳は、感情より先にそれを理解した。

三勢力の均衡が崩れる。

ヴァルトシュタイン侯爵家は当主を失った。後継を巡る混乱は避けられない。ケルム・アルカナムは最高位の魔導師を失った。——そしてザンクトハイム家は、この遠征で最も重要な二人の指導者を失った陣営の中で、唯一の指揮系統を残している。

エルベルトの碧眼が——一瞬だけ、計算の光を帯びた。

だが。

それよりも先に——別の感情が、碧眼の奥を走った。

(——禁器の全力と、大魔導師の封印術式が通じなかった)

それは恐怖だった。

エルベルトは六つ星の神聖術士だった。帝国において最高位に近い実力。だが——グスタフの禁器は、エルベルトの全魔力を以てしても再現できない領域の力だった。マルグリットの封印術式は、ケルム・アルカナムの生涯を賭けた秘奥だった。

その二つが——祭衣すら揺らせなかった。

もし自分があの場にいたら。

答えは明白だった。自分もまた——灰になっていた。

エルベルトの拳が、膝の上で僅かに震えた。

◆◇◆

エルベルトは目を閉じた。

三秒。

目を開けた時——碧眼から、動揺は消えていた。

完全に消えてはいなかった。だが押し込められていた。神聖家族の嫡男としての自制が、感情を理性の下に封じ込めた。

「……証拠は」

エルベルトの声は低く、平坦だった。

レオンは懐から二つのものを取り出した。

一つは、砕けた禁器の剣の柄の断片。ヴァルトシュタインの騎士長が——息を呑んだ。あの紋様を見間違えるはずがなかった。歴代当主のみが握ることを許された禁器。その柄に刻まれたヴァルトシュタインの家紋。

もう一つは、黒曜石の破片。マルグリットの禁器の箱の残骸だった。ケルム・アルカナムの術士の一人が、震える手でその破片を受け取った。

「——十分だ」

ヴァルトシュタインの騎士長が、掠れた声で言った。

エルベルトは断片を見つめ、それから——レオンを見た。

「お前は、二人が死ぬのを目の前で見ていたのか」

「ああ」

「そして——楔の聖女を消滅させた手段は何だ。グスタフ殿の禁器とマルグリット殿の術式が通じなかったのに、お前には何ができた」

レオンは一瞬、沈黙した。

「……俺の手段については、答えられない」

エルベルトの碧眼が鋭くなった。

「答えられない、だと?」

「俺が使った手段は、俺だけのものだ。三勢力に開示する義務はない」

エルベルトの碧眼に、怒りの光が走った。——だが、それは数秒で消えた。

今この場で、この男と衝突する意味がない。エルベルトの理性がそう判断した。二人の長老が死に、戦力は半減し、遺跡の防衛機構の実態は想定を遥かに超えていた。この状況で内部対立を起こすのは愚策だ。

そして——もう一つ。

エルベルトの碧眼が、レオンの異常な消耗を改めて見た。泥と血にまみれた体。老化の痕跡。立っているのがやっとの状態。この男は本当に——中枢区域まで行き、楔の聖女と対峙し、生きて戻ってきたのだ。

グスタフとマルグリットが死んだ場所から——この男だけが。

エルベルトは認めたくなかった。だが認めざるを得なかった。この男は——少なくとも今この瞬間、三勢力の誰よりも深く遺跡の内部を知っている人間だ。

「……いいだろう。その件は保留にする」

エルベルトは立ち上がった。

◆◇◆

エルベルトは野営地の中央に立ち、三勢力の生存者全員に向かって口を開いた。

碧眼は冷静だった。神聖家族の嫡男としての——重みが、その声にあった。

「全員に伝える。——ヴァルトシュタイン侯爵家当主グスタフ殿と、ケルム・アルカナム大魔導師マルグリット殿が、遺跡の最深部において戦死された」

声が野営地に落ちた。既に聞こえていた者もいたが、改めてエルベルトの口から宣告されると——空気が重くなった。

ヴァルトシュタインの騎士たちの何名かが、拳を握りしめて俯いた。ケルム・アルカナムの術士が唇を噛んだ。

エルベルトは一度、息を吸った。

「遺跡内部の防衛機構は——我々の想定を遥かに超えていた。禁器の全力と大魔導師の封印術式を以てしても突破できなかった。現在、防衛機構は停止しているとの報告を受けているが——中枢区域に何が残っているか、全容は不明だ」

エルベルトの碧眼が、生存者たちを見渡した。

ヴァルトシュタイン十一名。ザンクトハイム六名。ケルム・アルカナム六名。合計二十三名。遺跡に突入した六十名の精鋭のうち、半数以上が失われていた。地竜は全滅。禁器は砕け、装備の大半が使い物にならない。

エルベルトは、この数字を正確に理解していた。

「現状の戦力で遺跡の中枢区域を確保することは——不可能だ」

その言葉に、ザンクトハイムの騎士の一人が顔を上げた。

「エルベルト様、しかし防衛機構は停止しているのでは——」

「停止していると報告されているだけだ」エルベルトは遮った。「中枢区域には未知の術式が残っている可能性がある。グスタフ殿とマルグリット殿を殺した空間に、この戦力で踏み込むのは賭けではない。——自殺だ」

騎士は口を閉じた。

エルベルトは一瞬、遺跡の方角を見た。正門の巨大な石柱が、午後の陽光の中で黒い影を落としている。

中枢区域。千年の遺跡の核。

——欲しくないと言えば嘘になる。

だがエルベルトは嘘をつかなかった。自分自身に対して。

あの場所で、グスタフが死んだ。マルグリットが死んだ。禁器を使い尽くし、封印術式を解き放ち——それでも一撃も与えられずに。

今の戦力で中枢区域に踏み込めば、得られるものより失われるものの方が遥かに大きい。ザンクトハイム家の精鋭六名を——自分の欲のために殺すわけにはいかない。

(——俺にはまだ、帰る場所がある。帰らなければならない場所がある)

神聖家族の嫡男。ザンクトハイム家の次期当主。帝都で待つ父と、家臣団と、背負うべきもの。

ここで全てを賭けるのは——若さゆえの愚かさだ。

エルベルトは視線を戻した。

「決定を下す」

碧眼が——揺らがなかった。

「三勢力合同遠征隊は、本日を以て遺跡探索を中断する。全部隊は即座に野営を撤収し、帝都への帰還路を確保する。負傷者の移送を最優先とし、帰路の魔獣への警戒態勢を維持しつつ、最短経路で撤退する」

言い切った。

ヴァルトシュタインの騎士長が、エルベルトを見た。

当主を失った直後のヴァルトシュタインの騎士たちにとって、この場の指揮権が誰にあるかは微妙な問題だった。グスタフが死んだ以上、ヴァルトシュタインの騎士団に命令を下せるのは本来、後継者のみだ。

だが——騎士長は、頷いた。

「……了解した」

感情を押し殺した声だった。だがその目には——安堵があった。これ以上、部下を遺跡に送り込まずに済む。その安堵だった。

ケルム・アルカナムの術士たちも、無言で頷いた。

エルベルトは最後に——テモティエの隊を見た。

「帝都学院探索隊。——帰路の護衛については、我々と同行することを許可する」

許可する。上からの物言いだった。だが——先遣隊として使い捨てにすると言った時とは、明らかにその言葉の意味が変わっていた。

テモティエは一瞬、エルベルトを見つめた。それから——短く頷いた。

「……了解した」

◆◇◆

野営地が動き始めた。

天幕が畳まれ、装備が纏められ、負傷者が担架に乗せられていく。三勢力の騎士たちは黙々と作業を進めた。口数は少なかった。当主と大魔導師を失った重みが、全員の肩にのしかかっていた。

レオンは天幕の端に座り込んでいた。体が動かなかった。ヘレネが水袋と乾糧を持ってきてくれたが、半分も口にできなかった。

エヴィルが隣に座った。

「——詳しい話は、歩きながらでいい」

紫の瞳が、レオンの顔を静かに見ていた。

「……ああ」

テモティエが近づいてきた。

「レオン。お前が何をしたのか、今は聞かない。——ただ一つだけ」

テモティエの目が、まっすぐだった。

「よく、生きて戻った」

レオンは——少しだけ、目を閉じた。

瞼の裏に、灰色の粉が見えた。黒曜石の破片が見えた。楔の聖女の最後の唇の動きが——見えた。

——ありがとう。

あの声は、誰に向けられたものだったのだろうか。

レオンは目を開けた。

「——行こう」

立ち上がった。膝が震えた。だが——立てた。

遺跡の正門が、背後に遠ざかっていく。千年の沈黙を取り戻した巨大な石柱が、午後の陽光の中で影を落としている。

その奥の最深部に——二人分の灰が、蒼灰石の床の上に薄く散っている。

誰にも弔われることなく。

だが忘れられることもなく。

レオンは一度だけ振り返った。

それから——前を向いた。

三勢力の生存者たちが、帝都への帰路についた。遺跡を背に、聖峰山脈の裾野を歩いていく。二十三名の騎士と術士。テモティエの隊。そして——一人の少年。

風が吹いた。遺跡の方角から、冷たい風が一行の背中を押した。

千年の遺跡は、再び眠りについた。