作品タイトル不明
第113話 交錯する影
【地上】
灰燼の遺跡は、帝都から北へ三日の距離にある聖峰山脈の東麓に位置する。
千年の歳月は遺跡を容赦なく蝕んでいた。かつて旧帝国の北方防衛線として築かれた巨大な施設は、今や半ば崩落し、蒼灰石の残骸が荒野に散乱している。外壁に刻まれた双頭の鷲の紋章は風化し、かろうじて輪郭を留めているに過ぎない。
もし事情を知らぬ者がこの地を訪れれば、ただの廃墟としか思わないだろう。だが注意深く観察すれば、すぐに異常に気づく。荒野には虫一匹の気配もなく、鳥の声一つ聞こえない。風だけが崩れた壁の隙間を吹き抜け、低い唸りを上げている。死に絶えた静寂だった。
だが今、この死んだ遺跡の前に——三つの旗が翻っていた。
三勢力が精鋭を選りすぐって送り込んだ人数は、合わせて六十名足らず。だが、その六十名の一人一人が、テモティエの隊の隊員数名分に匹敵する実力者だった。
◆◇◆
遺跡の東側に陣取っていたのは、銀地に双剣の紋章を掲げた一団だった。騎士が二十名ほど、全員が重厚な鎧を纏い、整然と隊列を組んでいる。その全員が地竜に騎乗していた。体高二メートルを超え、灰褐色の鱗に覆われた四足の巨獣——戦場用に調教された地竜は一頭で騎兵五騎分の戦力に匹敵する。それが二十頭、広場の東側を完全に埋め尽くしていた。——ヴァルトシュタイン侯爵家。三大貴族の一角にして、エルデンハイム王国の建国以来、千年にわたり王家を支え続けてきた名門だ。
西側には、七芒星の金刺繍を胸に縫い取った一団が布陣していた。人数は十五名ほどと三勢力の中では最も少ないが、纏う空気が明らかに違った。全員が魔力強化の施された白銀の軽装鎧を身に着け、細身の地竜に跨っている。ヴァルトシュタインの重装地竜とは対照的に、こちらの地竜は全身が白く、鱗の一枚一枚が淡い光を帯びていた。神聖術で強化された聖獣種だ。たった十五名でありながら、二十名のヴァルトシュタイン騎士団と拮抗する圧を放っている。——ザンクトハイム家。三大貴族の上に立つとさえ囁かれる存在であり、神聖術の源流を独占する一族だった。
そして正門の真正面に陣取っていたのは、青いローブを纏った一団だった。地竜には乗っていない。十数名の魔法師が半円形の陣形を組み、中央に一張りの天蓋付きの椅子を囲んでいた。天蓋に掲げられた旗には、七層の塔を模した紋章。ケルム・アルカナム——天の秘院。エルデンハイム王国最強の魔法組織だ。騎士も地竜も持たないが、この十数名の魔法師の一人一人が、それ自体が兵器と呼べる存在だった。
◆◇◆
「遺跡内部の最深部に千年の遺産が眠っている。三家で分かれて進み、それぞれ別の経路から中枢区域を目指すのが効率的でしょう」
最初に口を開いたのは、ケルム・アルカナムの代表だった。
白髪を高く結い上げた老女——マルグリット・シュテルン。天の秘院の大魔法師の一人であり、七層の高塔の第五層を預かる実力者だ。天蓋付きの椅子に腰掛けたまま、穏やかな声でそう提案した。
ヴァルトシュタイン侯爵家の隊列の中央で、ひときわ大きな黒鱗の地竜の背に泰然と腰を据えた老人が、低く笑った。
グスタフ・フォン・ヴァルトシュタイン。ヴァルトシュタイン侯爵家の現当主にして、セレーネの祖父。白髪を後ろに撫でつけ、深い皺が刻まれた顔は厳格そのものだった。社交界では「鉄腕の老侯爵」と呼ばれ、三大貴族の中でも最も政治力のある人物として恐れられている。
「シュテルン殿の仰ることも一理あるが、この遺跡には未知の危険が多い。分散すれば各個撃破される恐れがある。合流して進んだ方がよかろう。一つの経路からであっても、千年の遺産は三家で分配するに十分な量があるはずだ。——そもそも、千年の間、誰一人として中枢区域に辿り着けなかったのだ。兵力を分けるべきではない」
そう言いながら、グスタフの灰色の瞳がさりげなくテモティエの隊を一瞥した。その視線が隊列の中を舐めるように走り、一点で止まった。エヴィルの姿だった。
エヴィルは気づいていた。老侯爵の視線が自分を捉えたことに。セレストルム家の令嬢がこの場にいることを、グスタフは今認識した。セレーネとは同年代の知己であり、帝都の社交界では幾度も顔を合わせている。
エヴィルは視線を逸らさなかった。紫の瞳で、真っ直ぐに老侯爵を見返した。
グスタフは一瞬だけエヴィルを見据え、すぐに興味を失ったように視線を戻した。
◆◇◆
マルグリットが穏やかに首を振った。
「侯爵。ケルム・アルカナムの設立勅令には、旧帝国の魔導遺物の調査と回収は天の秘院の管轄と明記されていますわ。合流して進むのは構いませんが、遺産の分配は魔導遺物とそれ以外で明確に区分する必要があります」
「設立勅令は魔導遺物に限定されている」グスタフは眉一つ動かさなかった。「千年の遺産が魔導遺物だけとは限るまい。武具、文献、財宝——それらは発見地の領主の管轄だ。灰燼の遺跡はヴァルトシュタイン家の領地の境界に位置する」
「まだ何が眠っているかも分からないのに、分配の話ですか。気が早いことですわね」
マルグリットの声は穏やかだったが、その笑みの裏に一歩も引かない意志が透けていた。
◆◇◆
二人の遣り取りを冷眼で眺めていた青年が、白い地竜の背で腕を組んでいた。
エルベルト・フォン・ザンクトハイム。ザンクトハイム家の嫡男にして、セレーネ・ヴァルトシュタインの婚約者。四つ星前期の魔力を持ち、神聖術の使い手として将来を嘱望されている。金色の髪を緩やかに後ろに流し、碧眼が冷たい光を帯びている。顔立ちは整っているが、唇の端に浮かぶ薄い笑みには、他者を値踏みする傲慢さが隠しきれずに滲んでいた。
「どちらも些事だ。ザンクトハイム家は神聖術の源流を守護する立場にある。旧帝国の遺物に禁呪が含まれていた場合、それを管理できるのは我が家のみ。——領地だの設立勅令だのと、瑣末な議論をしている暇があるのか」
グスタフの灰色の瞳が、初めてエルベルトに向けられた。
「若いな、エルベルト殿。ザンクトハイム家の格をもって他を黙らせようとするのは、先代の当主であれば決してなさらなかったことだ」
エルベルトの碧眼が冷たく光った。だが、老侯爵の威圧の前では、さすがに言葉を飲んだ。
マルグリットは二人の遣り取りを眺めながら、灰青の瞳を細めた。三者の間に走る緊張の糸を、楽しんでいるようにすら見えた。
「さて」マルグリットが手を打った。「では、ひとまず合流して進み、中枢区域に到達した時点で分配の議論を行う。今は何が眠っているかすら分からないのですから、先に進むのが先決ですわね」
グスタフは無言で頷いた。エルベルトは鼻を鳴らしたが、異論は唱えなかった。
◆◇◆
テモティエは隊員たちを背に庇いながら、三勢力の遣り取りを聞いていた。
三大貴族とケルム・アルカナム。いずれもこの国の頂点に立つ存在だ。テモティエの隊は帝都学院の探索隊に過ぎない。ここで遺産の発見を主張したところで、三勢力の圧力の前では紙切れ同然だった。
だがテモティエが最も危惧していたのは、別のことだった。
——レオンがいない。
覚醒種の鉄顎鰐を足止めするために一人で残り、その後合流できていない。遺跡の地下に取り残されている可能性が高い。三勢力が内部に突入すれば、地下にいるレオンと鉢合わせる可能性がある。満身創痍のレオンが三勢力の誰かと衝突したら——。
テモティエは奥歯を噛みしめた。
◆◇◆
エルベルトの碧眼が、不意にテモティエの隊の方を向いた。白い地竜の背から、路傍の虫を見るような冷淡さで隊員たちを見下ろした。
「ところで——これが帝都学院の探索隊か。学生の遠足にしては、随分と手酷くやられたようだな。この程度の遺跡で、負傷者を出しているとは」
テモティエの拳が握りしめられた。だが動かなかった。四つ星の魔法師を相手に、今の状態で事を荒立てるのは愚策だ。
エルベルトの視線が隊列の中を舐めるように走った。ふと何かに気づいたように首を傾げた。
「セレーネは——いないのか」
「セレーネ嬢は帝都で療養中です」テモティエが答えた。「この遠征には参加していません」
「療養?」エルベルトの眉が跳ねた。「何があった」
「魔斗会でのバックフロー。魔力回路の損傷です」
エルベルトは一瞬黙った。それから、薄い笑みを浮かべた。
「なるほど。——まあいい。セレーネの体のことは、後でヴァルトシュタイン家に確認すればいい」
その口調には、婚約者の負傷を心配する温もりは欠片もなかった。セレーネの容態よりも、セレーネがこの場にいないという事実の方が、彼にとっては意味のある情報なのだろう。
ヘレネが小さく眉を顰めた。エヴィルの紫の瞳が、一瞬だけ鋭くなった。
◆◇◆
「隊長殿。遺跡内部の地図はお持ちだろう」
テモティエは一瞬躊躇した。この情報を渡せば、自分たちは用済みになる。だが——この場で三勢力を敵に回す選択肢は存在しない。
テモティエは腰の鞄から概略図を取り出した。
グスタフが黒鱗の地竜の背から身を乗り出し、概略図を一瞥した。
「中枢区域まで道が記されているな。だが——地下構造の記載がない」
「元々把握していません。遺跡の地下部分は、我々の調査では詳細が分かりませんでした」
テモティエは嘘をつかなかった。実際、地下の詳細な設計図を持っているのは——今、地下にいるミーラだけだ。
グスタフは概略図から目を上げ、テモティエを見据えた。
「お前たちの隊から、行方不明者が出ているようだな」
「覚醒種との戦闘で、隊員一名と、遺跡内で発見した大図書館の調査員一名が地下に取り残されています」
「ほう」グスタフの灰色の瞳が、かすかに光った。「——大図書館の調査員。旧帝国の文献を回収する任務で派遣された者か」
テモティエは答えなかった。だが、その沈黙が答えになっていた。
——旧帝国の文献を持っている可能性がある者が、地下にいる。
グスタフの唇の端が、ほんの僅かだけ動いた。マルグリットの灰青の瞳も細まった。エルベルトは冷たく鼻を鳴らしたが、碧眼の奥にかすかな計算が走ったのを、テモティエは見逃さなかった。
三勢力は同時に動いた。地竜が一斉に立ち上がり、鎧が鳴り、ローブが翻った。
遺跡の内部へ。
テモティエは隊員たちを促しながら、心の中で祈っていた。
——レオン。お前が先に中枢区域に辿り着いていてくれ。
◆◇◆
**【弐・地下】**
地下通路は、遺跡の上層とは明らかに異なる造りだった。
蒼灰石の壁面に刻まれた紋様が、上層のそれよりはるかに精緻で密度が高い。千年の歳月を経てなお微かな燐光を放つ導線が、通路の両壁を走り、二人の足元をぼんやりと照らしていた。空気は冷たく、湿り気を帯びている。だが腐敗の臭いはなかった。広大な地下空間でありながら、虫の羽音一つ聞こえない。鳴るのは二人の足音と、レオンの荒い呼吸だけだった。まるでこの空間だけが時の流れから隔絶されているかのような、死に近い静寂だった。
レオンはミーラの肩を支えながら、ゆっくりと歩を進めていた。ミーラの右足首は腫れ上がり、自力ではまともに歩けない。レオン自身も肋骨が軋むたびに視界が白く弾けるが、顔には出さなかった。
「この導線の密度……上層とは比較になりませんね」ミーラが壁面の紋様を見つめながら呟いた。学者の性分か、こんな状況でも知的好奇心が抑えきれないらしい。「これだけの術式が千年間も残留魔力で機能し続けているなんて、旧帝国の魔導工学は現代をはるかに凌駕しています」
「足元を見ろ。転んだら担いで歩くことになる」
「す、すみません……」
その時、レオンの首元で吊墜がかすかに振動した。
『小僧。この通路の先に、微かな魔力反応がある。人間のものだ』
レオンの目が細まった。
『生きている者がいるのか』
『ああ。だが……妙だな。魔力の質が、通常の術師のものとは違う。古い。非常に古い魔力の匂いがする』
レオンは足を止めた。ミーラを壁際に寄せ、弩弓に手を伸ばした。矢はもう残り三本しかない。
通路の先——蒼灰石の燐光が途切れる暗がりの中に、光があった。
蒼灰石の青白い燐光とは全く異なる、温かな橙色の灯り。揺れている。まるで焚火のように。
そして——弦の音が聞こえた。
◆◇◆
暗い地下通路の中で、誰かが竪琴を弾いていた。旋律は穏やかで、どこか物悲しく、しかし不思議な温もりがあった。千年間誰も踏み込まなかったはずの地下深部に、この旋律は完全に不釣り合いだった。
「レオンさん……あの音……」
「黙ってろ。俺の後ろにいろ」
レオンは通路の壁に身を寄せながら、慎重に光源に近づいた。角を曲がった先に——小さな広間があった。天井は高く、蒼灰石の紋様がドーム状に広がっている。その中央に、旧帝国時代のものと思しき石造りの噴水跡があった。水はとうに枯れ、苔むした水盤だけが残っている。
その水盤の縁に、少年が腰掛けていた。
◆◇◆
まず目に入ったのは、髪だった。淡い翠色——春の若葉を思わせる、柔らかな緑。肩にかかる長さで、地下の微風にふわりと揺れていた。
顔立ちは幼く見えた。十四、五歳ほどだろうか。肌は白く、頬はわずかに丸みを帯びている。だがその瞳——エメラルドグリーンの瞳だけが、年齢に不釣り合いな深さを湛えていた。まるで何百年もの時を見てきたような、底の知れない透明さがあった。
服装は旅装だった。使い込まれた深緑の外套に、擦り切れた革のブーツ。胸元には小さな銀のブローチ——竪琴を模した意匠が施されている。膝の上に小ぶりの竪琴を抱え、細い指で弦を爪弾いていた。
足元には、革の旅行鞄と、空になった果実の皮が無造作に散らばっていた。
少年はレオンの気配に気づいたのか、顔を上げた。——そして、にっこりと笑った。
「やあ」
あまりにも場違いな、朗らかな声だった。
「お客さんだ。嬉しいな。ここ、誰も来ないからすごく退屈してたんだよね」
◆◇◆
レオンは弩弓を構えたまま、動かなかった。
「何者だ」
「怖い顔だなあ。そんな血まみれで弩弓構えてる人に初めて会ったよ。——あ、僕はフィーロ。吟遊詩人。旅の途中でこの遺跡に迷い込んで、出口が分からなくなっちゃったんだ」
フィーロと名乗った少年は、竪琴を膝の上に置いたまま、両手を広げてみせた。武器がないことを示すように。
「ね、敵意はないよ。見ての通り、竪琴しか持ってないし」
レオンは弩弓を下ろさなかった。この少年は——おかしい。
千年間封印されていた遺跡の地下深部に、一人で座って竪琴を弾いている少年。魔獣が跋扈するこの遺跡で、武器も持たずに無傷。しかも空腹の様子もなく、衰弱の気配もない。
何より——オグリが黙っていた。オグリは常に、危険を察知すれば即座にレオンに警告を発する。だがこの少年を前にして、吊墜は沈黙していた。まるで、判断を保留しているかのような沈黙だった。
「迷い込んだ、と言ったな」レオンの声は平坦だった。「遺跡の入口は三日前まで封印されていた。お前はどこから入った」
「うーん、どこからだったかな。あちこち旅してると、入口と出口の区別がつかなくなるんだよね。——ああ、でも確か、山の裏側に古い排水路があってね。そこから入ったような気がする。気がするだけだけど」
曖昧な答えだった。だが嘘をついている様子もなかった。嘘をつく必要すら感じていないような、不思議な飄々とした空気があった。
「あの……あなた、本当に一人で?」ミーラがレオンの背後から顔を覗かせた。「この地下には鉄顎鰐の覚醒種がいるんですけど……」
「鰐? ああ、あの大きいの?」フィーロはけろりとした顔で言った。「さっきそこの通路を通った時に見かけたよ。雷に打たれてすごく怒ってた。——僕を見たけど、興味なさそうにどっか行っちゃった」
レオンとミーラは顔を見合わせた。覚醒種が——この少年を見て、素通りした?
C級上位、あるいはB級に迫る覚醒種の鉄顎鰐が、目の前の獲物を無視するなど、あり得ない。よほどの強者か——あるいは、魔獣の本能が「関わるべきではない」と判断するほどの、何かを持っている者か。
◆◇◆
「吟遊詩人と言ったな。帝都の者か」
「特にどこの者でもないよ。強いて言えば、風の吹く方に住んでる」
「この遺跡が旧帝国の遺構だということは知っているか」
「知ってるよ」
フィーロの翠色の瞳が、レオンを見上げた。笑みは消えていなかったが、その瞳の奥に——一瞬、何かが過ぎった。
「千年前に滅んだ帝国の、北方防衛線の要だった場所。——そしてこの地下には、帝国が最期に遺した『千年の遺産』が眠っている」
レオンの目が鋭くなった。
「……詳しいな。吟遊詩人にしては」
「吟遊詩人だからこそ詳しいんだよ」フィーロは竪琴の弦を一本、軽く弾いた。澄んだ音が広間に響いた。「僕たちは歌で歴史を伝える。文献が焼かれても、王朝が滅んでも、歌だけは残る。——この遺跡のことを歌った古い詩がある。聞いたことは?」
「ない」
「だろうね。帝都の学者でも知らない歌だ。旧帝国末期の吟遊詩人が遺した長編叙事詩——『灰燼の王冠』。この遺跡が封印される直前のことを歌っている」
フィーロは竪琴を膝の上で撫でた。翠色の瞳が、遠い過去を見つめるように細められた。
「あの詩の中に、こういう一節があるんだ。——『千年の後、灰の中から王冠を拾う者よ。汝が手にするものは栄光にあらず。それは呪いである』」
静寂が落ちた。蒼灰石の燐光が、フィーロの横顔をぼんやりと照らしていた。少年の顔には笑みが残っていたが、その目だけが——笑っていなかった。
「千年の遺産を、宝の山だと思って来たの?」
フィーロの声は穏やかだった。だがその穏やかさの中に、微かな哀しみが混じっていた。
「あれは——旧帝国が滅びる時に、どうしても遺さなければならなかった『何か』だよ。宝物なんかじゃない。帝国が千年の封印をかけてまで隠したかった——あるいは、守りたかったものだ」
◆◇◆
『——小僧』
オグリの声が、ようやく脳裏に響いた。声には、レオンが初めて聞くほどの緊張が込められていた。
『あの小僧の言っていることは——半分は正しい。千年の遺産は、確かに単なる宝物ではなかった。旧帝国が滅亡する直前に封印した、帝国の核心に関わるものだ。——だが、それが具体的に何なのかは、わしにも分からん。わしの記憶にも、欠落がある』
レオンは表情を変えなかった。
「お前は——千年の遺産が何なのか、知っているのか」
「全部は知らないよ。でも——この遺跡の中枢区域に、答えがある。それだけは確かだ」
「中枢区域」
「うん。ちょうど、君たちもそこに向かってるんでしょう?」フィーロは枯れた噴水の水盤を指で叩いた。「実はね、この広間の下に、中枢区域への最短路がある。旧帝国の設計図にも載っていない、隠し通路。——僕がこの広間にいたのは、退屈してたからじゃなくて、その入口を探してたからなんだ」
「設計図にも載っていない隠し通路……?」ミーラの目が見開かれた。
「うん。でも一人じゃ開けられなかった。術式の封印がかかっていてね。——ところが」
フィーロの翠色の瞳が、レオンの首元を見た。正確には——翡翠色の吊墜を。
「君、面白いものを持ってるね」
レオンの全身に緊張が走った。
「大丈夫、取ったりしないよ。ただ——その吊墜に宿っている力は、この遺跡の術式と同じ系統だ。旧帝国のものだよね。もしかしたら、封印を解く鍵になるかもしれない」
◆◇◆
レオンは壁に背を預けて、しばらく考えた。
この少年を信用する理由はない。だが、信用しない理由も——確たるものがない。
魔力はほぼ枯渇。肋骨が折れかけている。弩弓の矢は残り三本。足を挫いたミーラを抱えている。覚醒種は防衛術式で足止めされているが、いつまで持つか分からない。テモティエたちとの合流路は崩落で塞がれている。
フィーロが言う隠し通路が本物なら——最短で中枢区域に辿り着ける。
『小僧。あの少年は——危険ではない。少なくとも、今のところはな。だが、何か途方もないものを隠している。あの目は、十四、五の小僧の目ではない。——まるで、わしと同じ種類の目だ』
——オグリと同じ種類の目。つまり、途方もない歳月を生きてきた者の目。
「一つ条件がある」レオンが口を開いた。
「何?」
「俺たちと同行するなら、嘘はつくな。知っていることを隠すのは構わない。だが、聞かれた時に嘘をつくのは——許さない」
フィーロはきょとんとした顔をした。それから、くすりと笑った。
「面白いことを言うね、君。——いいよ。嘘はつかない。約束する」
◆◇◆
フィーロは水盤から降り、竪琴を背中に回して革紐で括り付けた。旅行鞄を肩にかけ、レオンとミーラの前に立った。身長はレオンの肩ほどしかなかった。華奢な体躯に、使い込まれた旅装。どこからどう見ても、旅の吟遊詩人の少年だった。
「じゃあ、行こうか」
フィーロは枯れた噴水の水盤の底に手を翳した。壁面の蒼灰石の導線が、呼応するように淡く脈動した。
「ここの封印を解くのに、ちょっと手を貸してもらえる? その吊墜を、この紋様に近づけてみて」
レオンは一瞬だけ躊躇し——それから、首から吊墜を外し、水盤の底の紋様に翳した。
翡翠色の光が灯った。水盤の底に刻まれた双頭の鷲が輝き始めた。蒼灰石の導線が水盤から放射状に広がり、噴水の台座全体が低い振動を始めた。
ゴゴゴゴゴ——。
台座が回転し、石畳の下から——降り階段が姿を現した。蒼灰石の燐光に照らされた、螺旋状の階段。空気が下から吹き上がってくる。冷たいが、清浄だった。千年間、密封されていた空間の空気だ。
フィーロは階段の入口を覗き込み、満足そうに頷いた。
「ね。言った通りでしょ」
レオンは階段の闇を見下ろした。この先に——千年の遺産が眠る中枢区域がある。
◆◇◆
三人が螺旋階段を降り始めた時だった。
フィーロが、ふと足を止めた。
翠色の瞳が、天井を——正確には、地上の方角を見上げた。まるで、蒼灰石の壁を透かして、はるか上方の光景を見ているかのように。
「レオン」
フィーロの声から、初めて——朗らかさが消えていた。
「上で、たくさんの人が動き始めたよ」
「……三勢力が遺跡に入ったのか」
「うん。地竜の足音が、ここまで伝わってくる。——六十人くらいかな」
レオンは黙って階段を降り続けた。三勢力が動いたところで、今の自分にできることはない。先に中枢区域に辿り着くしかない。
「ねえ、レオン」
フィーロの声は穏やかだった。だがその穏やかさの中に、先ほどとは異なる——もっと深い何かが滲んでいた。
「あの人たち——上にいる人たち。全員は、生きて出られないよ」
レオンの足が止まった。
振り返った。フィーロの翠色の瞳が、蒼灰石の燐光の中でぼんやりと光っていた。少年の顔には笑みも悲しみもなかった。ただ——事実を告げているだけの、静かな表情だった。
「何を言っている」
「この遺跡は——千年の封印が解かれた時、目を覚ますものがある。上の人たちは、それを知らない。知らないまま、奥に進んでいく」
フィーロは竪琴を背中でかすかに鳴らした。不吉な和音が、螺旋階段に反響した。
「『灰燼の王冠』の続きの一節を、まだ言ってなかったね」
少年の唇が、静かに動いた。
「——『灰の遺跡に踏み入りし者よ。汝の骨は千年の礎に加わるだろう。生きて出る者は、一人もいない』」
蒼灰石の燐光が、ゆらりと揺れた。
フィーロの翠色の瞳が、レオンを見つめていた。
「僕は嘘をつかないって、約束したよね」
その言葉が螺旋階段に反響し、やがて闇に溶けて消えた。