作品タイトル不明
第114話 吃遊詩人の予言
螺旋階段を降りきった先は、これまでの通路よりさらに深い層だった。
蒼灰石の壁面が放つ燐光の色が変わっていた。青白ではなく、ほんのわずかに金色を帯びている。紋様の密度は、もはや壁面を埋め尽くすほどだった。導線の一本一本が髪の毛ほどの細さで、それが幾千、幾万と重なり合い、壁全体が一つの巨大な術式のように見える。
「すごい……」ミーラが息を呑んだ。「この紋様の密度、上層の百倍以上です。これだけの術式を刻むのに、旧帝国はどれほどの歳月を費やしたんでしょう……」
フィーロは先頭を歩いていた。翠色の髪が、金色がかった燐光の中で柔らかく揺れている。竪琴を背中に負い、軽い足取りで進んでいく。満身創痍のレオンや足を挫いたミーラとは対照的に、少年の歩みには一切の疲労が見えなかった。
「この層は旧帝国の中枢に最も近い通路だよ」フィーロが振り返らずに言った。「紋様が金色を帯びているのは、最後の皇帝が自らの魔力を注いだ層だから。——千年経っても、まだ輝いてる。よほど強い魔力だったんだね」
レオンは黙って歩いていた。肋骨の痛みが一歩ごとに走るが、足を止めるわけにはいかない。
『小僧。この層の魔力密度は尋常ではない。わしの記憶にも——断片的にだが、この場所の感覚がある。ここは確かに、帝国の核心に近い』
オグリの声にも、珍しく畏怖に近いものが混じっていた。
◆◇◆
通路を進むこと数分。
フィーロが、ふと足を止めた。
レオンも立ち止まった。少年の背中を見つめる。
「どうした」
フィーロは振り返った。翠色の瞳がレオンを見上げている。少年の顔には、いつもの朗らかな笑みがあった。だが——その笑みの底に、何かが沈んでいた。言葉にならない、深い何かが。
「レオン」
「何だ」
「ここから先は、君たちだけで大丈夫だよ」
レオンの目が細まった。
「……何を言っている」
「この通路を真っ直ぐ進めば、中枢区域に着く。もう迷うことはない。道は一本道だから」
フィーロは竪琴を背中から下ろし、一度だけ弦に指を滑らせた。澄んだ音が、黄金の燐光に満ちた通路に響いた。
「僕はちょっと、寄り道してくる」
「待て。どこに行く」
「秘密」
フィーロはにっこり笑った。少年らしい、屈託のない笑みだった。
「嘘はつかないって約束したから、行き先は言わないでおく。言ったら、嘘になっちゃうかもしれないから」
レオンは眉を顰めた。意味が分からなかった。だが——フィーロの翠色の瞳には、引き止めても無駄だという確信があった。
「——必ず、また会えるよ」
フィーロはそう言って、通路の横に伸びる細い枝道に足を踏み入れた。
レオンが口を開きかけた瞬間——少年の姿が消えた。
文字通り、消えた。枝道に入った一歩目で、翠色の髪も、深緑の外套も、竪琴の輪郭も——蒼灰石の燐光の中に溶けるように消失した。足音すら残らなかった。
「消えた……!?」ミーラが目を見開いた。「レオンさん、今の——」
レオンは枝道を覗き込んだ。何もない。蒼灰石の壁が続いているだけだ。枝道そのものが、最初から存在しなかったかのように——壁面は途切れなく紋様で覆われていた。
『……消えたな』オグリが低く呟いた。『あの小僧、最初からこの遺跡の一部だったのかもしれん。あるいは——この遺跡に遥かに深く関わる存在だったか』
レオンは数秒間、壁面を見つめていた。
それから、前を向いた。
「……行くぞ」
「で、でも、フィーロさんが——」
「あいつは自分の意思で消えた。追う手段もない。——今は前に進むしかない」
レオンはミーラの肩を支え、歩き出した。
◆◇◆
フィーロが消えてから、体感で十分ほど歩いた頃だった。
最初の異変は、壁面の紋様だった。
それまで穏やかな金色の光を放っていた導線が——一斉に、赤く変色した。
レオンは足を止めた。
壁面の紋様が脈動を始めていた。心臓の鼓動のように、一定のリズムで赤い光が明滅している。
「何これ……」ミーラの声が震えていた。「さっきまでと、全然違う——」
『——小僧! 上だ!』
オグリの声が鋭く響いた。
その直後——。
ズゥゥゥゥンッ——!!
地鳴りが来た。
通路全体が揺れた。天井から石片がばらばらと降り注ぎ、床の石畳に亀裂が走った。レオンはミーラを壁際に庇い、自らも壁に手をついて体を支えた。
地鳴りは一度では終わらなかった。
ズゥゥゥンッ——! ズゥゥゥンッ——! ズゥゥゥンッ——!
三度、四度、五度——断続的に、巨大な振動が地下を貫いた。まるで遺跡全体が痙攣しているかのようだった。壁面の赤い紋様の脈動が加速し、空気そのものが粘つくように重くなっていく。
「レオンさん、これは——」
「黙ってろ。壁から離れるな」
レオンは上方を睨んだ。地鳴りは明らかに地上から来ている。遺跡の上層で、何か途方もないことが起きている。
◆◇◆
壁面の赤い紋様から——声が聞こえた。
声ではない。正確には、蒼灰石の導線が伝える振動が、人の悲鳴のように聞こえたのだ。遠く、微かに——だが確かに、幾十もの叫び声が、壁面を伝って地下に届いていた。
「……悲鳴?」ミーラが顔を蒼白にした。「地上から——人の悲鳴が」
レオンの脳裏に、フィーロの言葉が蘇った。
——あの人たち。上にいる人たち。全員は、生きて出られないよ。
——生きて出る者は、一人もいない。
「まさか——」
『小僧。遺跡の最終防衛機構が起動しておる』オグリの声が重かった。『上層全域で、侵入者の魔力を吸収する術式が発動している。これは——わしの時代にも存在した禁術だ。遺跡に踏み入った者の生命力そのものを糧にして、遺跡の核を守る最終手段。三勢力の六十名が、今——』
オグリは言葉を切った。
レオンは黙っていた。六十名の精鋭——グスタフ、エルベルト、マルグリット。テモティエの隊も一緒にいるはずだ。エヴィルも。ヘレネも。
だが足は止めなかった。
「……行くぞ」
今の自分にできることは何もない。地上に戻る道は崩落で塞がれている。フィーロが教えた通路は一本道で、引き返しても合流する手段がない。前に進むしかない。
前に進んで、中枢区域に辿り着くしかない。
◆◇◆
地鳴りは続いていた。
レオンとミーラが通路を進むたびに、壁面の赤い脈動が激しくなっていく。天井から降り注ぐ石片が増え、通路の幅が狭くなっている箇所もあった。
そして——聖光が来た。
前触れはなかった。
突然、遺跡全体が白く染まった。壁面の赤い紋様が一瞬で消え、代わりに——天井から、壁から、床から、蒼灰石のあらゆる表面から、灼熱の白い光が噴き出した。
ゴオオオォォォッ——!!
轟音が地下を貫いた。
聖光だった。遺跡の核から放出された、純粋な魔力の奔流。千年間蓄積された残留魔力が、最終防衛機構の起動とともに一気に解放されたのだ。
白い光は壁面を伝って通路を駆け抜け、全てを呑み込もうとしていた。蒼灰石の紋様が焼けるように明滅し、空気が灼熱を帯び、レオンの肌を焦がすような圧が襲いかかった。
「ッ——!」
レオンはミーラを抱えて倒れ込んだ。聖光の圧力で立っていられなかった。視界が白く灼け、耳鳴りが頭蓋を満たす。肋骨が軋み、意識が遠のきかけた。
(——駄目だ。ここで死ぬのか)
ミーラが腕の中で震えていた。眼鏡が吹き飛び、蒼白な顔に涙が伝っていた。
白い光が二人を呑み込もうとした、その瞬間——。
◆◇◆
竪琴の音が、聞こえた。
遠くから——いや、どこからともなく。壁の向こうから。天井から。床の下から。あるいは、空気そのものの中から。
竪琴の旋律が響いていた。
フィーロの竪琴だった。
あの穏やかで、物悲しく、しかし不思議な温もりのある旋律。地下の広間で初めて聞いた時と同じ音色。だが——今の旋律は、あの時とは次元が違った。
音の一つ一つに、魔力が宿っていた。
竪琴の弦が奏でる音が、空気中で光の粒子に変わった。翠色の淡い光が、レオンとミーラの周囲に渦を巻くように集まり——薄い膜のような障壁を形成した。
聖光が障壁に衝突した。
バヂヂヂッ——!
白い光と翠色の光がぶつかり合い、激しい干渉波が通路に走った。だが——翠色の障壁は破れなかった。聖光は障壁の表面で弾かれ、二人の体には一切触れることなく、壁面を伝って流れ去っていった。
レオンは目を見開いた。
竪琴の旋律が続いていた。穏やかに、力強く。白い聖光の嵐の中で、翠色の障壁だけが揺るがなかった。
◆◇◆
「これは——」
ミーラが呟いた。涙に濡れた瞳が、翠色の光の粒子を見つめていた。学者の目だった。恐怖の中にあっても、眼前の現象を分析しようとする知性の輝きがあった。
「音律魔法……?」
「音律魔法だと?」レオンが聞き返した。
「音律魔法——オルフェウス系統の魔導体系です。音を媒介にして魔力を展開する古代魔法。旧帝国時代に存在したと文献にわずかな記述がありますが、術式の体系は完全に失われたとされていました。現代では再現に成功した者は一人もいない——失われた魔法です」
ミーラの声は震えていたが、同時に——畏怖と驚嘆が滲んでいた。
「音の振動を魔力の伝達媒体として使い、空間そのものに干渉する。理論上は、通常の術式では不可能な——空間障壁の生成や、魔力波の完全中和が可能とされていました。ですが、それは文献上の推測でしかなく——」
ミーラは言葉を切り、翠色の障壁を見上げた。
「——今、目の前で見ています。失われたはずの魔法が、実在している」
竪琴の旋律は、聖光の嵐が過ぎ去るまで続いた。
やがて白い光が薄れ、壁面の蒼灰石が再び金色の燐光を取り戻した時——翠色の障壁も、静かに消えた。竪琴の最後の一音が通路に反響し、余韻を残して溶けていった。
レオンはゆっくりと体を起こした。全身に鈍い痛みが走ったが、生きていた。ミーラも無事だった。
聖光の嵐が通過した通路は、壁面の紋様の一部が焼け焦げ、天井に大きな亀裂が走っていた。もしあの障壁がなければ——二人は確実に死んでいた。
◆◇◆
『……あの小僧か』
オグリの声が、静かに響いた。声には驚愕と、何か別の感情が混じっていた。
『音律魔法。旧帝国時代の最高秘儀の一つだ。わしの時代でさえ、これを扱える者は数えるほどしかおらなかった。あの小僧は——一体何者だ。何百年を生きている? いや——何千年だ』
レオンは答えなかった。
通路の先を見据えた。フィーロの姿はどこにもない。声も、気配も、魔力の残滓すらない。あの竪琴の音だけが、レオンの鼓膜にまだ残っている。
「……あいつは」
レオンは低く呟いた。
「最初から、こうなることを知っていたんだ」
遺跡の最終防衛機構が起動すること。聖光が来ること。地上の三勢力が壊滅すること。——そして、自分たちが危険に晒されること。
全てを知った上で、同行し、隠し通路を開き、ここまで導いた。
そして——自分の姿を消し、見えない場所から竪琴を弾いて、二人を守った。
なぜ。
なぜ、見ず知らずの自分たちを。
レオンの脳裏に、フィーロの笑顔が浮かんだ。あの、年齢に不釣り合いな深さを湛えたエメラルドグリーンの瞳。朗らかな声。そして——「嘘はつかない」という約束。
答えは出なかった。
◆◇◆
『小僧。上の様子が落ち着いた。術式の吸収が止まっている。——おそらく、遺跡の防衛機構は役目を終えたのだろう。侵入者の大半が排除されたということだ』
オグリの声は重かった。
レオンは黙っていた。
テモティエの隊は——エヴィルは——ヘレネは。
考えても今は何もできない。まず中枢区域に辿り着く。それが、今のレオンにできる唯一のことだ。
「レオンさん」
ミーラが、レオンの袖を引いた。眼鏡を失った蒼白な顔が、通路の先を見つめていた。
「見てください。あれ——」
通路の先に、扉があった。
蒼灰石の巨大な扉。表面には双頭の鷲の紋章と、旧帝国の古代語が刻まれている。そして扉の中央に——翡翠色に光る鍵穴があった。
レオンの首元で、吊墜が振動した。吸い寄せられるように、翡翠色の光が鍵穴と共鳴していた。
「……中枢区域か」
レオンは吊墜を外し、鍵穴に翳した。
翡翠色の光が溢れた。双頭の鷲が輝き、蒼灰石の導線が扉全体に走り——千年の封印が、静かに解かれた。
ゴゴゴゴゴ——。
扉が開いた。
その向こうに広がっていたのは——巨大な円形の広間だった。天井はドーム状で、蒼灰石の紋様が星座のように光を放っている。空気は澄み、千年の間完全に密封されていた空間特有の、時が止まったような清浄さがあった。
広間の中央に、石の台座があった。
台座の上に——何かが載っていた。
レオンは足を踏み入れた。
◆◇◆
その時——遠くから、竪琴の音が聞こえた。
微かだった。通路の奥から、壁面を伝って、かろうじて届くほどの小さな音。だが、確かにフィーロの竪琴だった。
旋律は——これまでのどの曲とも違っていた。
物悲しく、優しく、そして——別れを告げるような響きだった。
レオンは振り返った。通路の闇には、誰もいなかった。
竪琴の音は、やがて——蒼灰石の燐光に溶けるように、消えていった。
最後の一音が消えた後、レオンはしばらくその場に立っていた。
ミーラが不安そうにレオンを見上げた。
「レオンさん……フィーロさんは……」
「……行ったよ」
レオンは短く言った。
どこへ行ったのかは分からない。いつ戻るのかも分からない。そもそも、あの少年が何者だったのかすら——何一つ、分からないままだった。
だが一つだけ、確かなことがあった。
——あいつは、嘘をつかなかった。
レオンは前を向いた。
中枢区域の広間に、二人の足音が響いた。
千年の遺産が——目の前にあった。
——第二話・了——