作品タイトル不明
第112話 移禍の策
レオンたちは覚醒種の鉄顎鰐から逃れるように、城塞内部の狭い通路へと駆け込んだ。
巨体が入れない幅の回廊を選んだはずだった。だが背後から、石壁が砕ける轟音が追いかけてくる。覚醒種は回廊の壁ごと破壊しながら、執拗に追ってきていた。
「壁を壊しながら来るだと!?」テモティエが振り返って叫んだ。
ゴオオオォォッ——!
咆哮が回廊に反響し、鼓膜を引き裂くような圧力だった。天井から石片がばらばらと降り注ぐ。
「テモティエ、全員を先に行かせろ! 俺があいつの足を止める!」
テモティエが振り返った。「正気か!?」
「弩弓じゃ鱗を貫けない。近接でやるしかない。——行け!」
テモティエは一瞬躊躇し、それから歯を食いしばって頷いた。「全員、止まるな! 走り続けろ!」
隊員たちが次々と通路の奥へ駆けていく。
エヴィルが足を止めた。紫の瞳が兄を見つめている。
「兄様」
「行け、エヴィル」
「嫌です」
「お前が死んだら意味がないだろうが」
レオンの声は低く、硬かった。
エヴィルの唇がわずかに震えた。七年前から変わらない——兄はいつも自分を遠ざけようとする。
「——必ず、戻ってきてください」
エヴィルはそれだけ言って、踵を返した。走り去る背中の向こうで、紫色の星光がちらりと瞬いた。
ヘレネも一度だけ振り返った。何か言いかけて——だが言葉にならないまま、テモティエに腕を引かれて通路の闇に消えた。
◆◇◆
一人になった。
レオンは回廊の交差点に立ち、背後からの地響きに向き直った。
ドゴォッ——!
回廊の壁が内側から爆砕し、瓦礫の雲の中から覚醒種の巨体が現れた。全長五メートルを超える黒鉄色の体躯。鱗の合間から赤黒い光が明滅し、金色の瞳がレオンを捉えた。
通常種のような猪突猛進ではなかった。覚醒種は足を止め、レオンを値踏みするように見据えている。
レオンはゴールデン・フォームを発動した。
左拳に金色の光が灯った。魔力が極限まで圧縮され、拳の表面で激しく脈動している。空気が震え、周囲にかすかな熱が生じた。
S級魔法——ゴールデン・フォーム。三つ星前期の魔力量で扱うには本来あまりに過大な術式だ。だがオグリの指導の下で何百回と反復した型が、体に刻み込まれている。
覚醒種の金色の瞳が、レオンの拳の光を認識した。——わずかに、目を細めた。
レオンは地を蹴った。
◆◇◆
一撃目——前脚の付け根、鱗が最も薄い関節部。
ドォンッ——!
金色の閃光が炸裂した。衝撃波が瓦礫を吹き飛ばし、石畳に亀裂が走った。
覚醒種は微動だにしなかった。関節部の鱗が赤黒い光を帯びて明滅し、打撃の衝撃を全身の鱗に分散させた。
二撃目——右拳で脇腹に打ち込んだ。鱗と鱗の境目を狙った一撃。
ドゴォッ——!
巨体がわずかに揺れた。——だが、それだけだった。
金色の瞳がレオンを見下ろした。そこに浮かぶのは明確な侮蔑だった。
三撃目、四撃目——覚醒種の巨体の周りを旋回しながら連打した。金色の閃光が断続的に炸裂し、回廊に轟音が響き渡る。
結果は同じだった。覚醒種の魔力核が生み出す防御膜が、ゴールデン・フォームの打撃をことごとく受け止め、分散させてしまう。
五撃目——渾身の一撃を、覚醒種の側頭部に叩き込んだ。
ゴォンッ——!!
全魔力を注ぎ込んだ拳が側頭部を捉えた。金色の光が破裂するように弾け、衝撃波で天井の石片が一斉に降り注いだ。
覚醒種の頭部がわずかに横を向いた。
——それだけだった。
鱗に傷一つない。
レオンは数歩後退した。両拳が痺れて感覚がない。S級魔法を五連発した代償で、サーキット内の魔力が底を突きかけている。
(——五発。かすり傷一つつかない。これがC級上位の覚醒種か)
覚醒種の金色の瞳が、じっとレオンを見つめていた。値踏みは終わったと言うように。
そして——動いた。
◆◇◆
黒鉄色の巨尾が横薙ぎに振り抜かれた。
レオンは咄嗟に両腕を交差させたが、巨尾の一撃はその防御ごとレオンの体を吹き飛ばした。
石壁に叩きつけられた。壁面が蜘蛛の巣状にひび割れた。
「がッ——」
口の端から血が滴った。肋骨が軋んでいる。視界が暗転し、耳鳴りが頭蓋を満たした。
覚醒種がゆっくりとレオンに歩み寄ってくる。急いでいない。獲物がもう逃げられないとわかっているからだ。
その時——通路の奥から、声が聞こえた。
「——だ、誰か……誰かいるの……?」
震えた、若い女の声だった。
覚醒種が反応した。金色の瞳がレオンから逸れ、通路の奥へと向けられた。新たな獲物の気配を嗅ぎ取ったのだ。巨体がレオンから身を翻し、通路の奥へと歩き始めた。
レオンの体が、考えるより先に動いた。
折れかけた肋骨が悲鳴を上げた。だが足は止まらなかった。壁を蹴って体を起こし、よろめきながら覚醒種を追い越し、通路の奥へ駆け込んだ。
◆◇◆
崩落した小部屋の中に、一人の少女が蹲っていた。
淡い紫色の髪。眼鏡。質素だが品のある服——胸元に刺繍された紋章は、開いた本と月桂樹の輪。大図書館の紋章。
ミーラだった。
レオンは一瞬、足を止めた。
(——なぜ、こんな場所に)
ミーラもレオンに気づいた。涙で潤んだ瞳が見開かれた。
「レ、レオン……さん……?」
「話は後だ。立てるか」
「足を、挫いて……」
右足首が不自然な角度に曲がっていた。
通路の向こうから、赤黒い光が差し込んできた。地響きが近い。
レオンはミーラの腕を掴み、強引に背中に引き上げた。肋骨が軋み、視界が白く弾けた。
「つかまってろ」
「あなた、その怪我で——」
「黙れ」
レオンは走った。
◆◇◆
ミーラを背負って走りながら、レオンは壁面の魔力導線を読んでいた。蒼灰石に刻まれた紋様の密度が、奥に向かうにつれて急激に密集している。
『——小僧、この先に防衛術式の起動盤がある。導線の収束点だ。核に魔力を流し込めば起動する。ただし、範囲内にいる者は敵味方の区別なく巻き込まれるぞ』
背後で、覚醒種が通路に入ってきた。壁を削りながら強引にねじ込んでくる。
レオンの目が、壁面にはめ込まれた蒼灰石の円盤を捉えた。中央に双頭の鷲の紋章。周囲の導線が全てこの一点に収束している。
右手を円盤に叩きつけた。残りわずかな魔力を、最後の一滴まで搾り出し、核に流し込んだ。
双頭の鷲が——淡く、光った。
壁面の導線が一斉に発光した。蒼灰石の紋様が青白い光を帯び、通路全体が光の網で覆われていく。数百年間眠り続けていた旧帝国の防衛術式が目を覚ました。
レオンはミーラを背負ったまま、術式の範囲外へ向けて全力で走った。
バヂヂヂヂヂッ——!!
青白い雷光の嵐が通路を貫いた。
ゴオオアァァッ——!!
覚醒種の苦痛の叫び。雷光が巨体に幾重にも絡みつき、赤黒い防御膜と激しく干渉していた。
死んではいない。だが——足は止まった。
レオンは前を向いた。
だがその先にあったのは——テモティエたちが去っていった通路ではなかった。
防衛術式が起動した衝撃で、天井の一部が崩落していた。瓦礫が通路を完全に塞いでいる。テモティエたちがいるはずの方向への道が、閉ざされていた。
「……くそ」
レオンは立ち止まった。
背後では覚醒種が雷光に捕らわれている。だがあれも長くは持たない。前方は崩落で塞がれている。
選択肢は一つしかなかった。横に伸びる別の通路——城塞のさらに深部へ向かう道だ。
「レオンさん……お仲間の方々は……」
ミーラが背中から不安そうに訊いた。
「逸れた。合流は後だ。——今はとにかく、あの覚醒種から距離を取る」
レオンはミーラを背負ったまま、横の通路へと走り出した。
◆◇◆
蒼灰石の残留魔力がかすかな燐光を放つ通路を、二人は進んでいた。
覚醒種の咆哮はまだ遠くから聞こえるが、追ってくる気配はない。防衛術式がまだ覚醒種を足止めしているのだろう。
レオンはミーラを壁際に下ろした。さすがにもう限界だった。肋骨が悲鳴を上げ、腕は震え、視界の端が白く霞んでいる。魔力はほぼ空。体力もほとんど残っていない。
壁に背を預けて、荒い息をついた。
ミーラはレオンを見上げていた。血まみれの腕。庇っている脇腹。この状態で自分を背負って走り、防衛術式まで起動した人間が——あの魔力値3の「落ちこぼれ」。
「レオンさん、あなた——」
「水はあるか」
「え……あ、はい、少しだけ……」
ミーラは懐から小さな水筒を取り出した。レオンはそれを受け取り、一口だけ飲んで返した。
「……お前こそ飲め。顔色がひどい」
「私は大丈夫です。それより、お怪我が——」
「大したことない」
嘘だった。だがこの状況で弱みを見せるわけにはいかない。
しばらく沈黙が落ちた。蒼灰石の燐光だけが、二人の顔をぼんやりと照らしている。
「三週間、と言ったな」レオンが口を開いた。
ミーラが瞬いた。「え?」
「さっき言いかけていた。調査隊が壊滅して、三週間ここに取り残されていたんだろう」
「……はい」ミーラは俯いた。「旧帝国の文献を回収する任務で派遣されて……でも魔獣に襲われて、隊が……私だけがあの小部屋に逃げ込んで……」
「食料は?」
「携帯保存食が少しと、地下水を……それも三日前に尽きました」
ミーラの蒼白な顔色は、怪我のせいだけではなかった。
レオンは背嚢から干し肉と硬いパンを取り出し、ミーラの手に押し込んだ。
「ゆっくり食え。一気に食うと吐く」
ミーラはそれを受け取り、小さく噛み始めた。噛むたびに涙が滲んだ。三日間、何も食べていなかったのだ。
「……ありがとう、ございます……」
「礼はいい」
レオンは通路の先を見据えた。ここからテモティエたちと合流するには、城塞内部を迂回するしかない。だが魔力はほとんど残っていない。ゴールデン・フォームはもう撃てない。弩弓の矢も残り少ない。満身創痍の自分と、足を挫いた少女。
(——最悪の組み合わせだな)
「あの……レオンさん」
「何だ」
ミーラが懐から、油紙に包まれた数枚の羊皮紙を取り出した。
「これ……旧帝国の文献を、いくつか回収できています。この城塞の設計図の断片と、魔導工房の配置記録です」
レオンの目が変わった。
三週間、身一つで生き延びながら——任務の成果だけは手放さなかったのだ。
「見せてみろ」
ミーラが羊皮紙を広げた。旧帝国の古代語で書かれた文字と、精密な図面。レオンはそれを覗き込んだ。
「……これは、城塞の地下構造だな。テモティエの概略図にはなかった部分だ」
「はい。この設計図によると、今私たちがいるこの通路の先に、地下への降下路があるはずです。そしてその地下通路は——城塞の中枢区域まで繋がっています」
レオンは顔を上げた。
城塞の中枢区域。テモティエたちが目指している場所。テラフォーマーがあるかもしれない場所。
崩落で塞がれた正規ルートを通らずとも、地下から中枢区域に到達できる可能性がある。しかもそのルートは、覚醒種の鉄顎鰐が入れない狭い地下通路かもしれない。
「大した根性だな」レオンは素直に言った。「三週間生き延びただけじゃない。これがあれば、俺たちはテモティエと合流できるかもしれない」
ミーラの頬に、かすかな赤みが差した。眼鏡の奥の瞳が少し潤んでいた。
「お役に……立てますか?」
「ああ。十分すぎるほどだ」
レオンは立ち上がった。肋骨が痛む。魔力はほぼ空だ。だが——道は見えた。
「行けるか? 肩を貸す」
ミーラは頷いた。レオンの差し出した手を取り、立ち上がった。右足を庇いながら、レオンの肩に体重を預けた。
「……重くないですか?」
「軽い。飯を食ってないからだろう。帰ったらもっと食え」
ミーラが小さく笑った。三週間ぶりの、笑いだった。
二人は蒼灰石の燐光に照らされた通路を、ゆっくりと歩き始めた。
地上では覚醒種の咆哮がまだ遠く響いている。テモティエたちがどこにいるかもわからない。闇商会の黒ローブたちが城塞のどこかを徘徊している。
だが今は——この通路の先にある地下への入口を目指す。それだけだ。
レオンは隣のミーラを一瞥した。蒼白な顔。震える手。だがその手は、三週間守り抜いた羊皮紙をしっかりと胸に抱えている。
(……根性だけは、あるな。この子は)
二人の足音が、静かな通路に響いていた。
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