軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第111話 覚醒種

アッシュ・ヴェルムートは、聖峰山脈の北麓に広がる灰色の荒野にのみ自生する希少な薬草だ。火山灰が堆積した痩せた土壌を好み、厳しい寒暖差と乾燥した風に晒されながら育つ。葉は細く深い切れ込みが入り、表面にはびっしりと銀色の細毛が生えている。触れると強烈な苦みを帯びた刺激臭を放ち、素手で扱えば皮膚が赤く腫れ上がるほどだ。採取できる場所が極めて限られているため、帝都の薬草市場でも滅多に出回らない。

レオンがこの薬草を持っていたのは、オグリの教えがあったからだ。

レオンの首から下がる古びた翡翠色の吊墜——その中には、かつて旧帝国の時代を生きたという老人の魂が宿っている。オグリと名乗るその老人は、レオンにしか聞こえない声で語りかけ、失われた旧帝国の知識を断片的に伝えてきた。

遠征の出発前、オグリがレオンに告げたのだ。

『灰燼の城塞には爬虫類型の魔獣が棲みついておる。アッシュ・ヴェルムートを手に入れろ。あの草に含まれる成分は、爬虫類の神経を確実に灼き切る。旧帝国の戦士たちは、竜種の魔獣と戦う前に必ずこの薬草を矢に仕込んだものだ』

レオンはオグリの言葉に従い、出発前に帝都の裏市場を回って数株のアッシュ・ヴェルムートを入手した。そしてオグリに教わった通りの手順で——葉を乾燥させ、石臼で粉砕し、微量の魔力を込めた蒸留酒に溶かして濃縮する——矢先に塗布するための薬剤を自ら調合した。

アッシュ・ヴェルムートが爬虫類型の魔獣に対して劇的な効果を持つことは、現代ではほとんど知られていない。かつての旧帝国の錬金術文献にわずかな記述が残るのみで、その文献すら大半が失われている。オグリの記憶だけが、その知識を今に伝えていた。

エヴィルはレオンが矢先に薬剤を塗っているのを見ていたが、それが何なのかはわからなかった。

その薬剤が今、鉄顎鰐の体内で猛威を振るったのだ。

アッシュ・ヴェルムートの数多くの効能の中でも、特筆すべきはその成分が爬虫類型魔獣の神経系統に対して極めて強い毒性を持つことだった。アッシュ・ヴェルムートに含まれるツヨン系の神経阻害物質は、爬虫類のGABA受容体に直接作用し、全身の神経伝達を遮断する。D級以下の爬虫類型魔獣であれば、血中に僅かでも浸透した時点で全身痙攣を起こし、ほぼ確実に行動不能に陥る。

この世に無敵の魔獣など存在しない——どんな生物にも、必ず弱点がある。

レオンはたった一射で、D級魔獣——鉄顎鰐を沈めたというのか?

隊員たちは互いの顔を見合わせ、信じられないという表情を浮かべていた。

ヘレネとエヴィルだけが見ていた。レオンが矢先に何かの薬剤を塗布していたことを。

だがそれを差し引いても、あの暗闘の中で水面から鼻先だけ出していた鉄顎鰐の、鱗の隙間を正確に射抜いたこと自体が、常識外れの技量だった。

レオンが弩弓で鉄顎鰐を仕留めたのを見て、テモティエが大声で叫んだ。「全員、弩弓を出せ!」

テモティエの部下たちが一斉に弩弓を取り出した。これで周囲の魔獣を弩弓で迎撃できる!

レイノルドも弩弓を取り出した。手中の精巧な弩弓を見つめながら、彼の胸中は悔しさで煮えくり返っていた。なぜレオンは何をやっても自分より上なのか。レオンが隊に加わってから、ヘレネは完全にレイノルドの存在を無視するようになり、レオンばかりに注目している。それが嫉妬で狂いそうだった。

たかが魔獣を射るだけだ。そこまで難しいことか?

レイノルドは矢を弩弓に装填し、腰を低くして崩れた壁の端に身を寄せた。遠くの柱の上に張り付いている鉄顎鰐に照準を合わせる。表情は異様なほど真剣だった。

この瞬間、全員の視線がレイノルドに集中していた。息を呑む静寂。

「鉄顎鰐くらいの的なら、当てるのは造作もない!」

レイノルドが引き金を引いた。その瞬間、指が無意識に震えた。

シュッ——。寒光が空を裂き、一瞬の後——ドスッ、と遠くの石壁に突き刺さった。鉄顎鰐からは五、六メートルも外れている。

レイノルドの顔が引きつった。顔から血の気が一気に引いていく。

この光景を見て、隊員たちは皆一様に奇妙な表情を浮かべ、必死に笑いを堪えていた。もし全員が声を上げて笑ってしまえば、レイノルドの面目は完全に潰れる。彼がレオンに張り合おうとしたのは明白だったが、張り合うにしても、もう少しまともにやれなかったのか。

レイノルドは発狂しそうだった。確実に当てられると思ったのに、なぜ引き金を引いた瞬間に外れたのか?

周囲の隊員たちの堪えきれない笑みが視界に入り、レイノルドは恥辱で頭が真っ白になった。ちらりと、ヘレネの目にかすかな——侮蔑とも憐れみともつかない光が浮かんでいるのが見えた。

くそッ——こんなはずでは。レイノルドは即座に二本目の矢を取り出し、慌ただしく装填した。手が焦りで震え、矢がうまく噛み合わない。それでも無理やり照準を合わせ、鉄顎鰐に向けて撃った。

シュッ——!

矢は空中で弧を描いたが、途中で力を失い、地面に落ちた。

装填が不完全だったのだ。矢はわずかな距離を飛んだだけで地面に転がった。

もう隊員たちは堪えきれなかった。あちこちから笑い声が弾けた。レイノルドの腕前では到底レオンの真似はできない。身の程知らずとはまさにこのことだ——レイノルドは笑わせに来たのか?

テモティエは笑いを堪えながらレイノルドの隣に歩み寄り、肩をぽんと叩いた。「レイノルド、やめておけ。これはお前には向いていない」

レイノルドの顔は屈辱と怒りで醜く歪んでいた。周囲の笑い声が、耳の中で針のように突き刺さる。全てはレオンのせいだ。レオンが現れなければ、自分がこんな恥をかくことはなかった!

レオンがレイノルドの心中を知ったら、とんだとばっちりだと思っただろう。俺は何もしていないのだが。

レイノルドは弩弓を手に持ったまま、しまうこともできず、しまわないこともできず、穴があったら入りたかった。

レオンはレイノルドの醜態を横目で見ながら、口元にかすかな冷笑を浮かべた。淡々と言った。「できることとできないことがある。俺にできたからといって、お前にもできるとは限らない」

この一言で、レイノルドの中の何かが弾けた。

「全部お前のせいだッ——!」

レイノルドは顔の血管を浮き上がらせ、手中の弩弓をレオンに向けた。「殺してやる……!」

完全に理性を失っていた。名家の嫡男としてのプライドが、レオンの前で粉々に砕かれ、もはや何も見えなくなっていた。

パンッ。

テモティエの掌がレイノルドの弩弓を叩き落とした。弩弓が石畳の上で乾いた音を立てて跳ねる。

「いい加減にしろ」

テモティエの目が、氷のように冷たかった。

その視線を受けて、レイノルドは一瞬で我に返った。全身から血の気が引いていく。自分が何をしようとしたのか——テモティエの前で仲間に武器を向けたのだ。取り返しのつかないことを。

レイノルドは唇を震わせ、何も言えないまま、よろめくように踵を返し、隊列の後方へ歩き去った。

隊員たちがその背中を見送り、囁き合った。

「レイノルド、あれはないな……」

「貴族の品格がまるでない」

レオンは冷めた目でレイノルドの背中を見つめていた。この世界に転生してから何度も思い知らされたことがある。どの世界にも、こういう手合いはいるのだ。前世の日本にも、この異世界にも。プライドだけは一人前で、実力が伴わず、うまくいかなければ全て他人のせいにする。

(まあ……放っておけばいい)

レオンは視線をレイノルドから外した。相手にする価値もない。

ヘレネがレオンの横に歩み寄り、小さく言った。「レイノルドも……少し気の毒ではあるわ」

その言葉を聞いて、レオンは眉をひそめた。

(……ヘレネは甘すぎる)

あの男は今、テモティエの前で仲間に武器を向けたのだ。気の毒どころか、隊から追放されても文句は言えない。それなのに同情するとは。

レオンはヘレネを見据えた。声に思わず厳しさが滲んだ。「あいつに同情する必要はない。ああいう人間は、優しくすればつけ上がるだけだ。距離を置いた方がいい」

厳しい口調で言われて、ヘレネは唇をわずかに尖らせた。あなたにそこまで言われる筋合いはない——心の中ではそう思ったが、冷静に考えれば、レオンの言っていることは正しかった。レイノルドは仲間に弩弓を向けた。あれは庇えるような行為ではない。

「……わかったわ」

ヘレネは静かに頷いた。どこかで、自分がレオンの意見をひどく気にしていることに気づいていた。

レオンは軽く息を吐いた。少し言い過ぎたかもしれない。だが、ヘレネのような人間は放っておくとすぐに情に流される。多少きつく言っておいた方がいい。

---

テモティエの部下たちが一斉に弩弓で鉄顎鰐を迎撃し始めたが、すぐに気づいた。彼らの矢では鉄顎鰐にまるで歯が立たない。体は巨大だが動きは恐ろしく俊敏で、矢を放った瞬間には既に柱の陰に飛び退いている。彼らの矢は次々と空を切った。

そこで初めて、隊員たちはレオンの射撃術がどれほど異常なものだったかを思い知った。

エヴィルがレオンを見る目にはもう隠しきれない好奇心が溢れていた。レオンのそばにさりげなく寄り、小さく首を傾げてみせた。

レオンはこの女にはまったく閉口していた。普段は他の者に対して素っ気ない態度を取るくせに、レオンに対してだけは妙に距離が近い。

「レオン、この先は頼りにさせてもらう」テモティエが率直に言った。この場の全員の中で、鉄顎鰐を仕留められるのはレオンだけだった。

「ああ」レオンは短く頷いた。

レオンは道中、鉄顎鰐を次々と排除していった。その射撃は恐ろしく正確で、まさに百発百中だった。前世の日本では弓道に打ち込み、転生後はオグリに弩弓の扱いを叩き込まれた。二つの世界で積み上げた技量が、今ここで遺憾なく発揮されている。三つ星前期の魔力しか持たなくても、D級程度の魔獣であれば弩弓と薬剤の組み合わせで十分に対処できた。

隊員たちはもはやレオンの射撃に驚くことすらやめていた。ただ呆然と、矢が放たれるたびに必ず一匹の鰐が落ちていく光景を見つめるだけだった。どれほど素早く動こうが、どれほど巧みに柱の陰に隠れようが、レオンの矢はまるで意思を持っているかのように獲物を追い、確実に急所を射抜いた。

いつの間にか、レオンはこの隊の中核を担う存在になっていた。

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レオンたちが目的地に近づくにつれ、周囲の鉄顎鰐が急速に増えていった。二十匹以上が廃墟の至るところから姿を現し、隊列を遠巻きに取り囲んでいる。

その時——

ゴオオオォォッ——!!

耳を劈くような咆哮が城塞全体を震わせた。地面が揺れ、天井から石片がばらばらと降り注ぐ。

隊員たちが顔を見合わせた。鼓膜が破れるかと思うほどの圧力だった。

レオンの首元で、吊墜がかすかに振動した。オグリの声が脳裏に響く。

『——気をつけろ、小僧。これは普通の魔獣ではない。覚醒種だ』

「覚醒種……!」レオンは低く呟いた。

通常の魔獣とは異なり、覚醒種は体内の魔力核が一段階上の次元に覚醒した個体だ。同じ種であっても、通常種と覚醒種では戦闘力に天と地ほどの差がある。通常種の鉄顎鰐はD級に過ぎないが、覚醒種ともなれば——。

『あの咆哮の魔力密度から判断して、C級上位……いや、B級に片足を踏み入れておるかもしれん』オグリの声が重くなった。

「何だ、今の咆哮は!」テモティエの顔色が変わった。

「覚醒種だ」レオンが端的に答えた。「鉄顎鰐の覚醒種。C級上位、下手をすればB級に近い実力がある」

テモティエの表情が強張った。まさかこんな場所で覚醒種に遭遇するとは。この隊で最も実力のある者でもC級下位がせいぜいだ。

C級上位——あるいはB級。テモティエは拳を握りしめた。覚醒種の鉄顎鰐を相手にすれば、隊が全滅する可能性すらある。しかも周囲にはまだ二十匹以上の通常種が群がっている。もし戦闘になれば、通常種が一斉に襲いかかってくるだろう。

ゴオオオォォッ——!

廃墟の奥、崩れた城壁の上に、巨大な影が躍り出た。

通常の鉄顎鰐の倍以上はある巨体。全長五メートルを超え、黒鉄色の鱗が異様な光沢を放っている。だが最も異質だったのは——その鱗の合間から、赤黒い魔力の光が脈動するように明滅していることだった。体内で覚醒した魔力核が、肉体に収まりきらないほどの力を放出している。

覚醒種の鉄顎鰐は城壁の上からレオンたちを見下ろし、金色に輝く瞳を細めた。その目には、通常の魔獣にはあり得ない——明確な知性が宿っていた。

周囲の二十匹以上の通常種が、覚醒種の出現と同時にぴたりと動きを止めた。まるで王の命令を待つ兵士のように、整然と隊列を取り囲んだまま、微動だにしない。

「……まずいな」テモティエが低く呟いた。

レオンの脳裏で、オグリが言った。

『正面からやり合うのは愚の骨頂だ。あの覚醒種、ただの力任せではない。知恵がある。配下の鰐を統率して、組織的に狩りをする個体だ』

レオンは覚醒種を見据えながら、静かに思考を巡らせた。

アッシュ・ヴェルムートの薬剤は通常のD級鰐には絶大な効果がある。だが覚醒種の魔力核は体内の毒素を急速に分解する能力を持つ。薬剤だけでは仕留められない。

弩弓の矢も、あの鱗を貫通できるかどうか。通常種の鱗ですら鉄のように硬い。覚醒種の鱗は魔力で強化されており、その硬度は比較にならないだろう。

(——だが、弱点がないわけじゃない)

レオンの目が、覚醒種の巨体を冷静に走査した。

「全員、俺について来い。走るぞ」

レオンは叫ぶと同時に、横の通路に向かって駆け出した。