作品タイトル不明
第107話「井の中の蛙」
休憩の間、隊員たちが木陰で水を飲んでいた。
クラウスはヘレネの近くに腰を下ろし、何気ない風を装って口を開いた。
「ヘレネ嬢、遺跡内の組み分けだが、俺と組まないか。前衛二人のほうが安定する」
ヘレネは水袋の蓋を閉めながら、淡々と答えた。
「もう決めた。セレストルムと組む」
「セレストルム?」クラウスの眉が跳ねた。「……あの錬金術師と?」
「ええ」
クラウスは一瞬黙り、それから鼻で笑った。
「ヘレネ嬢がそこまで買っているとは驚いたな。確かにあいつはセレストルム家の魔斗会で勝ったらしいが——あんなものは所詮、子供のお遊戯会だ」
その声は意図的に大きかった。周囲の隊員たちの視線が集まる。
クラウスは立ち上がり、腕を組んでレオンのほうを見た。レオンは少し離れた場所で、静かに自分の装備を点検していた。
「家門の魔斗会など、実戦を知らない子弟同士が決められた規則の中でじゃれ合っているだけだ。相手の等級も、使えるスキルも、全部制限されている。あんなもので実力を測れると思っているなら、笑わせる」
何人かの隊員が足を止めた。
クラウスは声を落とさなかった。むしろ、聞かせるように続けた。
「これから俺たちが踏み込むのは旧帝国の遺跡だ。罠がある。魔獣がいる。何が出るかわからない。必要なのは本物の実力だ——温室育ちの品評会の成績じゃない」
クラウスはちらりとヘレネを見た。自分の言葉が届いているか、確認するように。
ヘレネは無表情だった。
「セレストルム家の四男殿は、匂いを嗅いだり耳打ちしたりするのは得意らしいが」クラウスは嘲りを隠さなかった。「遺跡の中で必要なのは、そういう小細工じゃない。前衛に立てる戦闘力だ。錬金術師が後ろに隠れて、一体何ができる?ヘレネ嬢の足を引っ張るのが関の山だろう」
沈黙が広がった。
◆◇◆
エヴィルが動いた。
一歩を踏み出し、クラウスのほうに向き直った。普段の穏やかな空気が消え、ヴァルトシュタイン侯爵家の令嬢としての冷たい威圧が、その目に宿っていた。
「ベルクマン」
エヴィルの声は静かだったが、周囲の空気が凍った。
「根拠のない中傷は、あなた自身の品位を落とすだけよ。レオンは二晩続けてこの隊を救った。あなたはその間、何をしていた?」
クラウスの顔が強張った。ヴァルトシュタイン侯爵家の直系に正面から睨まれて、平静でいられる男爵家の嫡男はいない。
「い、いや……俺は事実を言っただけで——」
「エヴィル」
レオンの声が、静かに割って入った。
エヴィルが振り返った。レオンは装備の点検を終え、立ち上がっていた。その顔には怒りも焦りもない。ただ穏やかな、しかし揺るぎのない目をしていた。
「ありがとう。だが、大丈夫だ」
「……レオン」
「心配するな」レオンはエヴィルの目を真っ直ぐ見た。「俺はもう、昔の俺じゃない」
その言葉に、エヴィルは息を呑んだ。
幼い頃から知っている。「出来損ない」と呼ばれ、嘲られ、それでも黙って耐えていたレオンを。誰よりも近くで見てきた。
だが——今、目の前に立っている少年の目は、あの頃とは違っていた。
何かが変わった。いつからか、この少年の目の奥に、底の見えない深さが宿っている。
エヴィルは小さく唇を噛み、一歩引いた。
「……わかった」
◆◇◆
レオンは淡々とクラウスのほうを向いた。
「家門の魔斗会が子供の遊戯だと言ったな」
クラウスはエヴィルの威圧から解放され、再び虚勢を取り戻した。ここで引いたらヘレネの前で終わる。
「ああ、言った。事実だろう」
「そうか」レオンの声は平坦だった。「それなら、ここで確かめればいい」
「……何だと?」
「簡単な話だ。お前が言う"本物の実力"を見せてくれ。俺が"子供の遊戯"しかできないなら、一瞬で終わるだろう」
レオンの目には、挑発も虚勢もなかった。ただ事実を述べているだけの、静かな確信があった。
「ベルクマン、お前は三つ星中期だったな。俺は三つ星前期の錬金術師だ。等級差はお前が上だ。——何を躊躇う理由がある?」
その言葉は、クラウスの退路を完全に断っていた。
クラウスの顔が赤くなった。自分から大口を叩いた以上、ここで逃げれば全てが崩れる。まさに——レオンが意図した通りに。
「……上等だ」クラウスは剣の柄に手をかけた。「後で泣いても知らないぞ、セレストルム」
「泣くのはどちらか、すぐにわかる」
レオンは静かに言った。
◆◇◆
ディートリヒの側近が動いた。
隊の規律上、勝手な私闘は許されていない。だが側近がディートリヒに報告すると、ディートリヒは少し考えてから手を振った。
「構わない。ただし、怪我をさせ過ぎるな。遺跡の探索に支障が出る」
それは事実上の許可だった。
側近が短く告げた。
「ディートリヒ様の許可が出た。武器の使用は可。ただし致命的なスキルの使用は禁止。相手が戦闘不能になった時点で終了とする」
隊員たちが自然と円を作り、二人の間に空間ができた。
ヘレネは腕を組んで木に背を預け、静かに見ていた。その表情からは何も読み取れなかった。
エヴィルは少し離れた場所に立っていた。胸の前で両手を組んでいる。表情は静かだったが、その指先がわずかに白くなっていた。
レイノルドは隊列の後方から、冷たい目でその光景を見ていた。
(あの出来損ないが叩きのめされるなら、それはそれで面白い)
だが——シュトゥルムヴォルフの件、シャッテンギルデの件。二度にわたってレイノルドの計画を狂わせた男だ。本当に、ただの出来損ないなのか。
レイノルドの目が暗く光った。
◆◇◆
クラウスは剣を抜いた。
片手半剣。刃渡りは標準的だが、鍔元に魔力増幅の刻印が施されている。ベルクマン家の家伝品だろう。手入れは行き届いており、刃に曇りはない。
構えは正統派の中段。右足を前に、剣先を相手の喉元に向ける。貴族家の剣術教師に教わった、教科書通りの型だった。
三つ星中期。純粋な魔力量と身体強化の点では、レオンより半段上だ。
クラウスは自分の優位を確信していた。等級差がある。武器もある。魔斗会で子弟を相手にするのとは違う。ここは実戦に近い場だ。格の違いを見せつけてやる。
「錬金術師が前衛と戦うとどうなるか、教えてやろう」
クラウスの全身に魔力が巡った。身体強化——筋肉と腱に魔力を流し込み、速度と筋力を底上げする。三つ星中期の魔力で強化された肉体は、常人の数倍の出力を発揮する。
一方、レオンは——。
剣を抜かなかった。
腰の短剣にも手を伸ばさない。両手を体の横に下ろしたまま、自然体で立っている。
「……武器も抜かないのか?」クラウスの声に、侮蔑と困惑が混じった。「舐めているのか」
「必要になったら抜く」
レオンは静かに答えた。
クラウスの目に怒りが走った。
——こいつ、俺を見下している。
「三手やろう。先に三手、好きに打ってこい。それで俺を崩せなかったら——お前の負けだ」
クラウスは傲然と言い放った。三つ星中期の身体強化がある。三つ星前期の錬金術師の素手が、この身に届くはずがない。ヘレネの目の前で圧倒的な格の差を見せつける——そのための演出だった。
「いいのか」レオンは表情を変えなかった。「後悔するぞ」
「御託はいい。来い」
◆◇◆
レオンが動いた。
一歩目は静かだった。だが二歩目で——爆発的に加速した。
地面を蹴る音が鋭く鳴り、レオンの姿がクラウスの視界から一瞬消えた。
(——速い!?)
クラウスの目が見開かれた。三つ星前期の錬金術師の動きではない。この踏み込みの鋭さ、重心の切り替え——これは教本で学ぶ動きではなく、実戦で叩き込まれた動きだ。
騎士団副団長バルトン。
レオンが密かに鍛錬を受けているという噂は、隊内の誰も知らなかった。セレストルム子爵家の四男が騎士団の幹部と接点を持つなど、普通は考えられない。だがバルトンはレオンの中に何かを見出し、非公式に戦闘技術を叩き込んでいた。
その鍛錬は苛烈だった。
錬金術師としての魔力制御を基盤に、近接戦闘の間合い管理、急所の見極め、最小の動きで最大の力を伝える打撃法——実戦で生き残るための技術を、バルトンは容赦なくレオンの体に刻み込んだ。
その成果が、今ここに出ていた。
レオンの肘がクラウスの腹部を狙って突き出された。
「こんな単純な——」
クラウスは嘲るように後退した。肘の射程は短い。この距離なら当たらない。錬金術師の素手の間合いなど、剣士の距離感で見れば児戯に等しい——。
だがその瞬間、レオンの体が沈んだ。
肘撃ちはフェイントだった。
クラウスが後退した方向を読み切り、レオンは低い姿勢から一気に間合いを詰めた。クラウスの剣が振り下ろされるより速く、その内側——刃の届かない死角に滑り込む。
バルトンに教わった原則がある。
『剣士と素手で戦う時、剣の外にいる限りお前は的だ。だが剣の内側に入れば、剣士の方が不利になる。間合いを殺せ』
レオンの右拳が、クラウスの腹部に叩き込まれた。
音は小さかった。派手な爆発音も、魔力の閃光もない。ただ、短く鈍い打撃音が一つ。
だがクラウスの体が——折れた。
三つ星中期の身体強化で守られていたはずの腹筋が、紙のように貫通された。レオンの拳は筋肉の繊維の隙間を正確に突き、内臓に直接衝撃を伝えていた。魔力を拳の一点に圧縮し、接触の瞬間に解放する——バルトンが「点穿」と呼んだ技法だった。
力の絶対量ではない。力の集中と、急所への正確な到達。前世で無数の死線を越えた知識と、バルトンの鍛錬で磨かれた技術が、一つの拳に凝縮されていた。
クラウスの得意げな表情が凍りついた。
目が大きく見開かれ、口が開いたまま閉じない。腹を抱え、膝が折れ、前のめりに崩れ落ちていく。剣が手から滑り落ち、乾いた音を立てて地面に転がった。
周囲の隊員たちが、息を呑んだ。
三つ星中期のクラウス・フォン・ベルクマンが——三つ星前期の錬金術師に、一撃で崩された。