軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第104話 折れない娘、突破す

「セレーネ姪よ」

ヴィルヘルムの声が、再び評議の間に響いた。

穏やかな笑みは、もうなかった。

「お前は今、侯爵家に背いている。その星苔の相手が誰であるかを隠し、家族の利益を損なっている。——これがどういう意味を持つか、わかっているか」

「叔父上の言う『家族の利益』とは」セレーネは静かに言った。「私の財産を奪うことですか」

「奪う、などという言葉は使っていない」

「では何と呼ぶのですか」

ヴィルヘルムの顔が、みるみる険しくなった。

「セレーネ。お前には縁談がある。神聖家との約定だ。もしお前が家族に協力しないのであれば——その縁談を、今すぐ進める以外に選択肢がなくなる。わかるか。二年後ではなく、今すぐだ」

室内が、静まり返った。

エルヴィンが顔を上げた。「ヴィルヘルム、それは——」

「家主。これは家族全員の問題です」ヴィルヘルムは遮った。「セレーネ嬢が協力を拒むのであれば、侯爵家は別の手段で財政を立て直さねばならない。神聖家との縁談を早める——それが最も現実的な方法です」

六人の長老たちが、沈黙していた。

反論する者はいなかった。

◆◇◆

セレーネは、膝の上の手を見た。

指先が、わずかに震えていた。

怒りではない——いや、怒りもある。だがそれよりも深いところで、別の何かが揺れていた。

レオンは今、遺跡へ向かっている。セレーネのために。テラフォーマーを手に入れるために。サーキットの損傷を治すために。あの少年は何も言わず、何も求めず、ただ動いていた。

その少年の名前を、今この場で売り渡せというのか。

——売り渡さない。

セレーネの中で、何かが決まった。

「叔父上」

声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「縁談を早めてください」

室内が、凍りついた。

「……何だと」

「神聖家との縁談を早める、とおっしゃいましたね。構いません。ただ——その方のお名前は、これからも申し上げません。どのような状況になっても」

ヴィルヘルムの目が細くなった。「……強情な娘だ」

「はい」セレーネは頷いた。「その通りです」

「わかった。ならば——」

その瞬間だった。

◆◇◆

セレーネのサーキットが、脈動した。

最初は微かだった。修練中に感じる、あの内側からの波紋に似ていた。だがそれは止まらなかった。波が重なり、増幅し、サーキット全体へと広がっていった。

「——っ」

セレーネは思わず椅子の肘掛けを握りしめた。

損傷していたはずの幹線が、熱を持っている。損傷部が修復されるのではなく——何かが、そこを突き破ろうとしている。

魔力が、溢れてきた。

抑えようとした。だが抑えられない。感情と連動して、サーキットの奥底から何かが湧き上がってくる——まるで、ずっと塞き止められていた水が、一気に決壊するように。

「セレーネ」エルヴィンが立ち上がった。「どうした——」

光が、溢れた。

◆◇◆

白に近い、淡い青の光だった。

セレーネの全身から、魔力の波紋が広がっていく。椅子の周囲の空気が、微かに震えた。燭台の炎が、一斉に揺れた。

長老の一人が、椅子を引いて後退した。

「これは——」

「魔力の放出か?いや、違う——」

ヴィルヘルムが、初めて表情を変えた。驚愕ではなく、本物の困惑だった。侯爵令嬢のサーキットは損傷していたはずだ。それがなぜ——。

セレーネはただ、目を閉じていた。

サーキットの内側で、何かが変わっていた。

損傷した幹線が、修復されている。いや、修復ではない——再編されている。損傷の痕跡を土台として、以前とは異なる形に、より強固に、より深く。

痛みはなかった。むしろ、温かかった。

やがて光が収まった。

室内が、静寂に包まれた。

◆◇◆

エルヴィンが、娘の顔をじっと見た。

「……セレーネ。今のは」

「サーキットが」セレーネは自分の手を見た。指先の震えが、止まっていた。「変わりました」

「変わった、とは」

「損傷が——消えています」

室内がざわめいた。

長老の一人が立ち上がった。「確認させてもらえるか。魔力測定石を——」

「持ってきなさい」エルヴィンが言った。

侍女が小走りで出ていき、すぐに戻ってきた。透明な測定石を、セレーネの前に置いた。

セレーネはその石に手を触れ、ゆっくりと魔力を流した。

光が灯った。

以前とは違う。以前のセレーネの魔力では、この石は薄く点滅するだけだった。サーキットの損傷で、魔力の流れが制限されていたからだ。

だが今——光は安定していた。揺らがず、途切れず、静かに満ちていく。

「二つ星後期……いや」長老の一人が、息を呑んだ。「三つ星——前期か」

室内が、完全に沈黙した。

◆◇◆

三つ星。

それがこの世界において何を意味するか、評議の間にいる全員が知っていた。

ヴァルトシュタイン侯爵家は、近年急速に衰退していた。分家の力が強まり、本家の影響力は年々低下している。それを支えていたのは、エルヴィンの個人的な実力と人脈だけだった。

だがセレーネが三つ星に達したとすれば——話が変わる。

サーキットの損傷が完治し、さらに突破まで果たした。しかも自然突破だ。外部からの強制ではなく、感情の高ぶりと意志の力によって——これは才能の証明だった。

「……セレーネ嬢が、三つ星に」

ヴィルヘルムが、喃語のように呟いた。

「侯爵家に、三つ星の術師が生まれた」

長老の一人が、ゆっくりと立ち上がった。エルヴィンの対立派の一人だった。

「……家主。お祝い申し上げます」

もう一人が続いた。「セレーネ嬢の今後のご成長を、我々一同、心よりお祈り申し上げます」

先ほどまでセレーネを追い詰めていた長老たちが、一人また一人と態度を変えていった。三つ星の術師を持つ家は、この国において一定の発言力を持つ。まして侯爵家の直系が三つ星に達したとなれば——神聖家との縁談を急ぐより、セレーネを本家で育てる方が、はるかに利益になる。

ヴィルヘルムは、黙って立っていた。

「叔父上」セレーネは静かに言った。「縁談を早める、とおっしゃっていましたね」

「……」

「どうなりましたか」

ヴィルヘルムは何も言わなかった。

やがて、一言だけ言った。

「……今夜は、これで終わりにしよう」

扉が、静かに閉まった。

◆◇◆

長老たちが去った後、エルヴィンとセレーネだけが評議の間に残された。

燭台の炎が、静かに揺れている。

エルヴィンはしばらく黙っていた。やがて、疲れた顔のまま、だがどこか晴れ晴れとした目でセレーネを見た。

「……驚いた」

「私も驚いています」セレーネは自分の手を見た。「こんな形で突破するとは思っていませんでした」

「痛みは」

「ありません。むしろ——楽になりました」

エルヴィンは娘を見た。

いつからこんなに、この子は強くなったのか。体だけではない。あの場で、縁談を盾に脅されて——それでも一歩も引かなかった。

「……その方は」エルヴィンは慎重に言葉を選んだ。「信頼できる人間か」

セレーネは少し考えてから、答えた。

「はい」

迷いのない声だった。

エルヴィンはそれ以上、何も聞かなかった。

◆◇◆

夜が深まった。

レオンは営地の外れで胡座を組み、目を閉じていた。

サーキットに意識を沈め、魔核の中心に意識を向ける。大釜の輪郭が、内側でぼんやりと浮かんでいる。まだ霞のように曖昧だ。桜の実ほどの大きさしかない。だが確かにそこにある。

魔力を吸収する。

周囲の空気に漂う 魔素(マナ) が、少しずつ魔核へと引き寄せられてくる。大釜の内側に注がれた魔力は、ただ蓄積されるのではない——溶かされ、精製され、より純粋な形で器の輪郭を磨いていく。急ごうとしても急げない作業だ。大釜とはそういう器だ。時間をかけて、投じられたものをゆっくりと変容させる。

風が、木々の間を通り抜けていく。

虫の声。遠くで枝が折れる音。焚き火の爆ぜる音が、遠く後方から聞こえてくる。

しばらくして、レオンは修練を中断した。

深夜を過ぎた頃から、吸収効率が落ちる。無理に続けても器に負担がかかるだけだ。

目を開け、サーキットの状態を内側から確認した。

魔核の輪郭が、修練前よりわずかに鮮明になっている。ほんの僅かだ。だが確実に進んでいる。

(……悪くない)

遠くに目をやると、営地の焚き火の周囲を、見張りの数人が行き来していた。交代の時間が近いのか、小声で何かを話している。

その時——。

風が変わった。

微かな匂いだった。普通の人間なら気づかない。だがレオンの感覚は、オグリの指導で常人よりも遥かに研ぎ澄まされていた。サーキットを通じて周囲の魔力の流れを感知する——その技法が、異質な匂いを拾い上げた。

獣の匂い。だが、普通の獣ではない。魔力を含んだ、濃い体臭。

そして——縄張りを示す、魔獣特有のマーキングの匂い。

営地が魔獣に襲われれば、厄介なことになる。

レオンは立ち上がり、匂いの元を辿って営地の北側の密林へと足を踏み入れた。