作品タイトル不明
第105話 嵐狼
夜が深まった。
レオンは営地の外れで胡座を組み、目を閉じていた。
サーキットに意識を沈め、魔核の中心に意識を向ける。大釜の輪郭が、内側でぼんやりと浮かんでいる。まだ霞のように曖昧だ。桜の実ほどの大きさしかない。だが確かにそこにある。
魔力を吸収する。
周囲の空気に漂う 魔素(マナ) が、少しずつ魔核へと引き寄せられてくる。大釜の内側に注がれた魔力は、ただ蓄積されるのではない——溶かされ、精製され、より純粋な形で器の輪郭を磨いていく。急ごうとしても急げない作業だ。大釜とはそういう器だ。時間をかけて、投じられたものをゆっくりと変容させる。
しばらくして、レオンは修練を中断した。
深夜を過ぎた頃から、吸収効率が落ちる。無理に続けても器に負担がかかるだけだ。
サーキットの状態を内側から確認した。魔核の輪郭が、修練前よりわずかに鮮明になっている。ほんの僅かだ。だが確実に進んでいる。
(……悪くない)
遠くに目をやると、営地の焚き火の周囲を、見張りの数人が行き来していた。
その時——。
風が変わった。
◆◇◆
微かな匂いだった。普通の人間なら気づかない。だがレオンの感覚は、オグリの指導で常人よりも遥かに研ぎ澄まされていた。サーキットを通じて周囲の魔力の流れを感知する技法——それが、異質な匂いを拾い上げた。
獣の匂い。だが、普通の獣ではない。魔力を含んだ、濃い体臭。
そして——尿の匂い。縄張りを示すための、魔獣特有のマーキングだ。
営地が魔獣に襲われれば、厄介なことになる。
レオンは立ち上がり、匂いの元を辿って営地の北側の密林へと足を踏み入れた。
◆◇◆
百歩ほど進んだところで、開けた場所に出た。
直径十メートルほどの空地だった。木の枝が乱雑に散らばり、地面には獣が体を擦りつけた跡がある。周囲の木の幹に、灰銀色の毛が何本も引っかかっていた。一本一本が指の長さほどある、硬い剛毛だ。
空気には、まだ微かにマーキングの匂いが残っていた。
その毛を見た瞬間、レオンは即座に判断した。
シュトゥルムヴォルフだ。
「誰だ」
背後から、鋭い声がかかった。
レオンが振り返ると、木の陰から一つの影が現れた。ディートリヒだった。その後ろから取り巻きが二人。——そしてもう一人、見覚えのある顔。
レイノルドだった。
(……こいつ、この探索隊にいたのか)
レイノルドの名前は、出発前の名簿にはなかった。途中から合流したのか——あるいは最初から名前を隠して紛れ込んでいたのか。
レイノルドはレオンを見て、暗い目で笑った。
「ずいぶん夜更かしだな、『デキソコナイ』。こんな時間に一人でうろつくのは——何か企んでいるのか」
◆◇◆
レオンはレイノルドを無視して、ディートリヒに向き直った。
「ここに来た理由を説明する。修練中に、北の風に混じって異質な匂いを感じた。追ってきたら、ここに辿り着いた」
ディートリヒの目が、空地を一巡した。散乱した枝、地面の擦過痕、木の幹に引っかかった灰銀色の毛。
「俺の取り巻きが森の偵察中にこの空地を見つけた。確認しに来たところだ」ディートリヒは木の幹の毛を一本抜き取り、指で転がした。「……何の魔獣だ」
「シュトゥルムヴォルフだ」
レオンは淡々と言った。
「嵐狼。群れで行動するE級の魔獣だ。灰銀色の剛毛、この巣穴の規模、散乱した枝の配置——間違いない」
ディートリヒの取り巻きが顔を見合わせた。これだけの痕跡から、魔獣の種類を即座に特定した。
レイノルドが鼻で笑った。「たかが毛を見ただけで種類がわかるとは。こんな荒れた空地に魔獣が出るわけがないだろう」
レオンはレイノルドを完全に無視して、ディートリヒに向かって続けた。
「シュトゥルムヴォルフの習性について説明する。こいつらは一年の半分以上を山岳の洞窟で休眠して過ごす。春の終わりから夏にかけて、群れで低地の森に降りてきて狩りをする。——ちょうど今の時期だ」
ディートリヒの目が細くなった。
「この空地のマーキングの匂いがまだ残っている。去年のものなら、とうに風雨で消えている。——つまり、最近のものだ。群れはまだこの森の中にいる。近いうちに、この巣に戻ってくる」
取り巻きの一人が青ざめた。「E級でも十頭以上の群れとなれば——」
「今すぐ営地を引き払って移動するべきだ」レオンは言い切った。
「シュトゥルムヴォルフは嗅覚が非常に鋭い。我々の匂いに気づけば、縄張りへの侵入者として攻撃してくる。我々の戦力なら一頭二頭は倒せるが、十頭以上に囲まれたら死傷者が出る。——目的は遺跡探索だ。魔獣と無駄に戦う理由はない」
◆◇◆
レイノルドが声を上げた。
「馬鹿馬鹿しい。空っぽの巣を見て大騒ぎしているだけだ。夜中に営地を動かすほうがよほど危険だろう。朝まで待てばいい」
レオンは何も言わなかった。
ディートリヒは黙って二人を見比べていた。やがてレオンに聞いた。
「お前はどう判断する」
「今夜中に、最低でもここから二キロは離れるべきだ。シュトゥルムヴォルフの行動圏は半径一キロ。巣から十分に距離を取れば、遭遇を避けられる」
ディートリヒは数秒間沈黙した。
「……全員を起こせ。今夜中に移動する」
「ディートリヒ、こいつの言葉を真に受けるのか——」レイノルドが声を荒げた。
「移動する。以上だ」
ディートリヒの声は静かだったが、有無を言わせなかった。レイノルドは歯を噛みしめて黙った。
◆◇◆
営地に戻ったディートリヒは、即座に全員を叩き起こした。
「何だよ、真夜中に——」
「なぜ移動するんだ?」
「説明は後だ。荷物をまとめろ。五分で出発する」
不満の声は出たが、全員が動いた。
レオンは隊列の後方を歩いた。エヴィゥが隣に並んできた。銀色の髪が夜風に揺れている。
「……何があったの?」
「シュトゥルムヴォルフの巣がすぐ近くにあった。群れが戻ってくる前に離れる」
エヴィゥの顔が引き締まった。「E級の群れ。——あなたがいなかったら、朝になって囲まれていたわね」
「俺がいなくても、ディートリヒなら判断できただろう。気づくのが遅れたかもしれないが」
エヴィゥはしばらくレオンを見てから、静かに言った。「……やっぱり、あなたを連れてきて正解だった」
「ディートリヒも同じことを言うだろう」
「私が言うのとは意味が違うわ」
レオンは答えなかった。
エヴィゥは少し間を置いてから、前を向いた。その横顔には、何かを確かめたような、静かな表情が浮かんでいた。
◆◇◆
一行が森を抜け、開けた丘陵地帯に出た直後だった。
背後の森の奥から——低い唸り声が響いた。一つではない。二つ、三つ、四つ——やがて十以上の声が重なり合い、夜の森を震わせた。
地面が、僅かに振動した。群れが移動している。
全員が足を止め、振り返った。
森の暗闇の中で、何十もの灰銀色の目が光っていた。だがその目は、すでに人間たちから遠ざかっている方向を向いていた。巣に戻ってきた群れが、縄張りに侵入者がいないことを確認し、そのまま巣穴に落ち着いたのだ。
もし三十分遅かったら。あの営地で眠っていたら。
誰もが、同じことを考えていた。
「……ディートリヒ様の判断は正しかった」
「危なかった……あの数に夜襲されていたら——」
「助かった……」
隊員たちがディートリヒに感謝の言葉を述べた。
だがディートリヒは、レオンの方を見た。
夜明け前の薄明の中で、二人の視線が交わった。ディートリヒは何も言わなかった。——だがその目には、先日とは違う色が浮かんでいた。値踏みではなく、率直な関心だった。
レオンは黙って前を向いた。
レイノルドは隊の中ほどを歩いていた。暗い目で地面を見つめている。本当にシュトゥルムヴォルフが現れた。——あの出来損ないの言う通りだった。ディートリヒはレオンを信じ、レイノルドの意見を退けた。二十人の前で。
また、負けた。
レイノルドの歯が、音を立てて噛み合わされた。
◆◇◆
夜が明けた。
朝靄の中、ディートリヒがレオンの隣に歩み寄ってきた。
「昨夜は助かった。あのまま眠っていたら、初日から死傷者が出ていた。——借りができたな」
「ディートリヒもすぐに判断を下した。俺は情報を伝えただけだ」
「情報がなければ、判断もできん」ディートリヒは肩を竦めた。「レオン。お前を連れてきて正解だった」
レオンは薄く笑った。
だがその笑みは、すぐに消えた。
◆◇◆
声を落とした。
「ディートリヒ。一つ伝えておくことがある」
ディートリヒは前を向いたまま、目だけを動かした。
「我々は尾行されている。後方に三人。いずれも三つ星の実力と見る」
ディートリヒの歩調が、一瞬だけ乱れた。だがすぐに元に戻った。
「……三つ星が三人。この隊の平均よりも上だ。——いつから気づいた」
「昨夜の修練中から。最初は森の獣かと思ったが、シュトゥルムヴォルフの巣を見つけた時点で確信した。獣とは別に、人間の気配が三つ。我々の後方、約二百歩。ずっと距離を保ったまま追跡している」
「気配の消し方は?」
「素人ではない。だが完璧でもない。風向きが変わった瞬間に、一瞬だけ魔力の残滓が漏れた。——手慣れた連中だが、最上級ではない」
ディートリヒの目が鋭くなった。
「シャッテンギルデか」
「……おそらく」
シャッテンギルデ——王都の裏社会に巣食う闇ギルドだ。暗殺、脅迫、破壊工作——金さえ払えば何でもやる。どの貴族家にとっても公敵だが、裏では利用する者もいる。
「……俺を狙っているのか。お前を狙っているのか」
「わからない。だが距離の取り方から見て、隊全体ではなく特定の個人を追跡している」
ディートリヒは前を向いたまま、数秒間考えた。
「——この件は俺に任せろ」
ディートリヒはレオンの肩を軽く叩き、何事もなかったように隊の前方に戻っていった。
◆◇◆
「ディートリヒ。一つ伝えておくことがある」
ディートリヒは前を向いたまま、目だけを動かした。
「我々は尾行されている。後方に数人。——いずれも四つ星の実力と見る」
ディートリヒの歩調が、今度は乱れなかった。だが前を向いたまま、その目が僅かに細くなった。
「……四つ星が複数。——いつから気づいた」
「昨夜の修練中から。最初は森の獣かと思ったが、シュトゥルムヴォルフの巣を見つけた時点で確信した。獣とは別に、人間の気配が複数。我々の後方、約二百歩。ずっと距離を保ったまま追跡している」
「気配の消し方は?」
「相当に上手い。風向きが変わった瞬間に、一瞬だけ魔力の残滓が漏れた。——それがなければ、俺も気づかなかった」
四つ星が複数。この探索隊の中で、それに単独で対抗できる者は限られる。ディートリヒ自身を含めても、数えるほどしかいない。
ディートリヒの目が、鋭くなった。
「シャッテンギルデか」
「……おそらく」
「……俺を狙っているのか。お前を狙っているのか」
「わからない。だが距離の取り方から見て、隊全体ではなく特定の個人を追跡している」
ディートリヒは前を向いたまま、数秒間考えた。
その沈黙は短かった。
「——この件は俺に任せろ」
ディートリヒはレオンの肩を軽く叩き、何事もなかったように隊の前方に戻っていった。
その背中には、先ほどまでとは違う種類の張りがあった。四つ星複数を相手にすることへの怯えではない——むしろ逆だ。この男は、こういう状況で目の色が変わる人間だった。
レオンは黙って前を向いた。