作品タイトル不明
2.不思議なことってあるのね
「と、まあ、そんなことがありましたの」
私は、立ちのぼる湯気の向こうで静かに金色に輝くダージリンを一口ふくむ。フルーティーで花のように甘い香りが鼻をくすぐり、昼下がりの落ち着いたサロンにやわらかく広がった。その香気に包まれながら、今日あった出来事をゆっくりとお父様へ語っていく。
「ほぉ、それで、お前の婚約者様は大丈夫なのか?」
テーブル越しに座るお父様が、わずかに眉を上げられた。カップを置く指先に、思いのほか驚いている気配がある。
「さすがに、頭から血を流した婚約者様を見捨てることもできず、邸まで送り届けて、目が覚めるまで付き添いましたわ」
言葉にした途端、あのときの光景が脳裏に甦る。
お父様は“おや珍しい”とでも言いたげに目を瞬かせ、私の話を追うようにダージリンの入ったカップを取り上げた。湯気の向こうで、表情が少しだけ優しく緩む。
「……お父様は、転生者ってご存じ?」
ふいに声が落ち着きを帯びた。私自身、まだ信じきれず戸惑いを抱えたままの疑問だった。
お父様は眉間にほんの僅かな皺を寄せ、わからない、という曖昧な表情を浮かべられる。無理もない。私だって、まさかそんな概念が現実に存在するとは思っていなかったのだ。
「婚約者様がおっしゃるには、自分にはこの世界ではない前世の記憶があり、その記憶が急によみがえったのだそうです。今まで何に対しても無気力だったのに、目の前にかかっていた霧が晴れ、視界が明るくなってきたようだ、と、そんなことあります?」
自分で口にしてみても、作り話のようだ。けれど、目覚めた彼の瞳は確かに以前とは違い、光を宿していた。
「……興味深いな」
お父様が低く呟く。その声には、恐れよりも好奇心が勝っている。
「ええ、別人のようでした。ものすごくお話しなさるのですもの、びっくりしましたわ。転生者に関しては、お医者様もよくわかっていないようでしたが、今、失っていた人格が混ざり合って、混乱状態なのかもしれない……のですって。ふふふ、ヴィクター様がこれから、どうなるか楽しみですわ」
思わず微笑がこぼれる。驚きの連続ではあったが、妙に胸が高鳴るのを抑えられなかった。
「可哀そうに、もう少し心配してやったらどうだ。」
お父様が苦笑しながら、半ば呆れたように私へ言う。その声音が温かくて、胸の奥が少しだけくすぐったい。
私はそっと視線を落としながら、自然と考えは昔のことへと遡っていく。
この国では、王子の婚約者候補は幼い頃に三人選ばれる。
そして学院入学前までに、最終的な正式婚約者が決まるというしきたりがある。そのため、選ばれた三人は皆、同じ王子妃教育を受けながら育ってきた。
――ええ、幼い頃は皆、名前で呼び合うほど仲が良かったのに。けれど、ミレーナは……。
私と、そしてレティシア・サンチェス侯爵令嬢は、自分より愚かな王子の妃になどなるつもりはなかった。
ミレーナは、王子妃教育から逃げ続けているくせに、私たちを一方的にライバル視し、蹴落とそうと躍起になっていた。そして、執拗にその座に執着していた。
「そんなに婚約者になりたくないのなら、辞退できる力くらいはあるぞ」
ただで最高峰の教育を受けられるのだ。辞退するなどという選択肢は、最初から私の中にはなかった。
……にもかかわらず。
『婚約者の座のため必死でしたのにね、残念でしたわね』
今でもミレーナはそんな皮肉を口にする。ほんとうに理解しているのかしら?
あなたの成績がいちばん悪いという事実を。妃になるつもりなら、これからがどれほど大変か、想像すらできていないのでしょうね――。
胸の奥でそっとため息が落ちる。けれど、目の前のお茶はまだ温かく、香りは穏やかに私を包んでいた。