作品タイトル不明
1.あら、大変
「……セレナ……嘘……また待ち伏せですの?」
王太子の婚約者、ミレーナ・アヴリル伯爵令嬢が、潤んだ瞳を大きく揺らし、怯えるように肩をすくめてこちらを見る。
小鹿が罠にかかった瞬間のような反応で、階段の踊り場にいた生徒たちの視線までも引き寄せてしまった。
移動教室で急いでいたため油断していたわ。よりによってこの場所で出くわすなんて…。
ああ、ついていない。それにしても、自意識過剰にもほどがある。私がミレーナを待ち伏せ? 笑わせてくれるわ。
学院の壮麗な大理石の階段は、朝日を受けて淡い金色を反射し、磨き込まれた模様が床に揺れている。
生徒たちのヒールや革靴がコツコツと鳴り、ざわつきが絶えないこの場所で、足を止めているのも嫌になるほど人目が多い。
さっさと離れたいのだけれど。
「あらミレーナ、待ち伏せなんて誤解ですわ。私のAクラス、空き時間がないことを知っていまして? Cクラスのように時間に余裕があるならまだしも…ふふ。では先を急ぎますので」
「なっ! アレク様ぁ、セレナが私たちCクラスを馬鹿になさるわ!」
怒ったのか、ミレーナはわざとらしく王太子の腕に絡みつき、その細い体を押しつけながら上目遣いで甘えた声を出す。
見せつけるようなその仕草に、周囲の生徒たちがひそひそと視線を交わした。
…邪魔ね。階段の真ん中で立ち止まらないでいただける?
「学と金しか取り柄のない女が! いまだに私の婚約者になれなかったことが悔しいのか? 仕方ないだろう、見よ、ミレーナの愛らしさを! 輝く金の髪は、太陽の光を受けてきらめき、豊かな表情の中には知性と優しさが宿って……」
頭の悪い話し方……という感想しか出てこないわね。
王太子の婚約者になれなかったことが悔しい?
いいえ、むしろ“ならないように”水面下で動いていたというのに。
妬んでいるような物言い、どこからどう捻じ曲がればそうなるのかしら。この二人の中では、選ばれなかった私がしつこくつきまとっている設定なのかしら。冤罪もいいところ。
……さて。2人の世界から戻ってくる気配もないし、もう行きましょう。
「待て! 勝手に行こうとするな! ……はぁ、ヴィクターもこんな可愛げのない女が婚約者などとは可哀想に。私がセレナを婚約者に選ばなかったため、従弟のお前の幸せを犠牲にしてしまった。苦労をかけるな」
あら、ヴィクター様いたのね。大男なのに気配がなかったわ。
ヴィクター・アルマンド公爵令息。
王弟の息子で王太子の従弟。学院では何を考えているかわからない“ミステリアスな美形”として人気の、私の婚約者。
……ただの無表情で何も考えていないだけだと、私は思っているけれど。
それに、婚約者が呼び捨てにされていますのよ? 注意くらいすればよろしいのに。
それにしても、このやりとり……本当に安っぽい演劇みたい。さすがに飽きてきたわ。
軽く笑いをこらえながら眺めていると、ヴィクター様は深くため息をつき、階段の手すりに無造作に寄り掛かった。
相変わらず、他人事のようね。本当に他人に興味がない人。
あぁ、さすがに時間がない。
「ところで、お三方は、この後の授業はありませんの?」
王太子にしなだれかかっていたミレーナが、はっと顔を上げて体を離す。
「大変! アレク様! 急がないとまた遅刻してしまいますわ」
また、ね。何をやっていらっしゃるのかしら。
ミレーナは王太子の腕をぐいっと掴み、無理やり引っ張って進もうとする。不意を突かれた王太子は足を滑らせたようにぐらつき、その勢いのまま、手すりに寄り掛かっていたヴィクター様にぶつかった。
ほんの一瞬、空気が凍りついた。
ヴィクター様の体がバランスを失い――
ぐるり、と、スローモーションのように回転しながら階段を落ちていく。
「きゃっ──!」
階段にいた生徒たちが一斉に悲鳴をあげ、王太子は慌てて手を伸ばすが、指先は虚空を掴むだけで間に合わなかった。
ドンッ!
衝撃音が階段の上まで響き渡った。
「ヴィクター様!」
ミレーナが叫び、裾を翻しながら駆け下りていく。
あら、人の婚約者を名前呼び。
ヴィクター様は地面にぐったりと倒れ、頭から鮮血が流れ出していた。
白い大理石に鮮やかな赤がじわりと広がり、周囲の生徒たちが口元を押さえ後ずさる。
「大丈夫か!」
王太子も駆け寄り、焦ったように顔を覗き込む。ミレーナは泣きながら彼の手を握りしめ、必死に名を呼び続ける。
……。
あら、大変。
私の婚約者でしたわね。心の中で実況してる場合ではないわ。いけない、いけない。
階段を駆け降り、騒然とした輪の中へ入っていく。
青ざめたヴィクター様の傍にしゃがみこみ、ミレーナと同じように声をかける。
そのとき、彼のまつ毛がぴくりと揺れ、ゆっくり目を開いた。
視界がまだぼやけているのか、焦点が定まらず、きょろきょろと周囲を見回す。
そして、私と目が合うと──
ぱちん、と美しい瞳が大きく開かれた。
「うわっ!!! セレナ! ……そうだ、セレナだ! ……ぼくは、ヴィクター…だよな?! え? ……あっ、気を失う……ご、めん、セレナ、また……後で……」
と、意味不明なことを叫び、次の瞬間ふっと糸が切れたように再び気を失った。