作品タイトル不明
第96話 この幸せだけは、絶対に手放さない
俺(おれ) は 今(いま) 、 鏡(かがみ) の 前(まえ) に 立(た) っていた。
タキシードの 生地(きじ) はアストリアの 古(ふる) い 織物(おりもの) 。
銀糸(ぎんし) が 織(お) り 込(こ) まれ、 胸元(むねもと) に 守護(しゅご) の 紋章(もんしょう) が 刺繍(ししゅう) されている。
周囲(しゅうい) は 祝福(しゅくふく) の 喧騒(けんそう) に 満(み) ち、 街(まち) は 白(しろ) い 花(はな) で 飾(かざ) られていた。
風(かぜ) に 舞(ま) う 花弁(かべん) の 甘(あま) い 香(かお) りが 石畳(いしだたみ) を 包(つつ) み、 遠(とお) くの 鐘(かね) の 音(おと) が 大地(だいち) の 鼓動(こどう) のように 響(ひび) く。
ミユウは 隣(とな) りの 部屋(へや) でウェディングドレスに 身(み) を 包(つつ) まれているはずだ。
最高天使(イリゼ) の 彼女(かのじょ) が 純白(じゅんぱく) の 布(ぬの) に 包(つつ) まれる 姿(すがた) を 思(おも) うだけで、 胸(むね) が 熱(あつ) く 疼(うず) いた。
俺(おれ) は 世界(せかい) を 救(すく) う 英雄(えいゆう) なんかじゃない。
ただ、 彼女(かのじょ) だけを 守(まも) りたかった。それが 全(すべ) てだ。
異世界(いせかい) に 召喚(しょうかん) されてから、 数(かず) え 切(き) れない 戦(たたか) いを 潜(くぐ) り 抜(ぬ) けてきたが、 心(こころ) の 中心(ちゅうしん) はいつもミユウの 笑顔(えがお) だけだった。
今日(きょう) 、この 結婚式(けっこんしき) で、ようやく 彼女(かのじょ) を 永遠(えいえん) に 自分(じぶん) のものにできる。なのに、 胸(むね) の 奥(おく) に 小(ちい) さなざわめきが 残(のこ) っていた。
着付(きつ) けが 終(お) わり、 周(まわ) りの 者(もの) たちが 祝福(しゅくふく) の 言葉(ことば) を 掛(か) けてくる中、 俺(おれ) はそっと 神殿(しんでん) の 奥(おく) へ 向(む) かった。
人ごみを 抜(ぬ) け、 静(しず) かな 回廊(かいろう) に 入(はい) る。 石壁(いしへき) は 冷(つめ) たく、 古(ふる) い 苔(こけ) の 湿(しめ) った 匂(にお) いが 漂(ただよ) う。 地下(ちか) 深(ふか) くに 大切(たいせつ) なものが 封(ふう) じられているという 噂(うわさ) は 以前(いぜん) から 聞(き) いていたが、 今日(きょう) まで 気(き) にも 留(と) めていなかった。
階段(かいだん) を 下(くだ) り、 暗(くら) い 通路(つうろ) を 進(すす) む。 空気(くうき) が 重(おも) く 湿(しめ) り、 足音(あしおと) が 反響(はんきょう) する。 先(さき) に 金色(きんいろ) の 光(ひかり) が 漏(も) れていた。 柔(やわ) らかく、 温(あたた) かく、息づ(いきづ)くような 輝(かがや) き。 重厚(じゅうこう) な 扉(とびら) をゆっくり 押(お) し 開(ひら) ける。
部屋(へや) は 予想(よそう) を 超(こ) える 光(ひかり) に 満(み) ちていた。 七(なな) つの 宝玉(ほうぎょく) が 空中(くうちゅう) に 浮(う) かび、 黄金(おうごん) の 球体(きゅうたい) が神々(こうごう)しく 輝(かがや) く。 表面(ひょうめん) の 古代(こだい) の 文字(もじ) が 脈打(みゃくう) つように 明滅(めいめつ) し、アストリアの 命(いのち) そのものが 宿(やど) っているようだった。 俺(おれ) は 息(いき) を 飲(の) んだ。
一歩(いっぽ) 近(ちか) づき、 手(て) を 伸(の) ばす。 温(あたた) かい 光(ひかり) が 肌(はだ) を 撫(な) で、 呼(よ) びかけるように 輝(かがや) きを 増(ま) した。
触(ふ) れたら 何(なに) が 起(お) こるのか。 彼女(かのじょ) を 守(まも) る 力(ちから) になるのか、それとも……。 心臓(しんぞう) が 激(はげ) しく 鳴(な) る。 好奇心(こうきしん) と 罪悪感(ざいあくかん) が 絡(から) み 合(あ) い、 指(ゆび) は 止(と) まらない。あと 少(すこ) しで——。
「 勇者様(ゆうしゃさま) といえど、その 宝玉(ほうぎょく) の 秘密(ひみつ) に 触(ふ) れてはならぬ!」
背後(はいご) から 鋭(するど) い 声(こえ) が 響(ひび) き、 俺(おれ) は 凍(こお) りついた。 振(ふ) り 返(かえ) ると、 神官(しんかん) が 厳(きび) しく 怯(おび) えた 目(め) で 立(た) っていた。 勢(いきお) いよく 扉(とびら) を 閉(し) め、 俺(おれ) の 腕(うで) を 掴(つか) む。
「 本来(ほんらい) なら 死刑(しけい) です。この 力(ちから) に 触(ふ) れることは 許(ゆる) されません。 今(いま) 見(み) たものは 忘(わす) れてください!」
宝玉(ほうぎょく) が 一瞬(いっしゅん) 強く 輝(かがや) いた。
俺(おれ) は 慌(あわ) てて 手(て) を 引(ひ) き、 胸(むね) に 当(あ) てる。 触(ふ) れなかった。でも、あと 少(すこ) しだった。
神官(しんかん) の 目(め) は 本気(ほんき) で、 冷(つめ) たい 汗(あせ) が 背中(せなか) を 伝(つた) う。 世界(せかい) を 救(すく) うつもりなんてなかった。ただミユウを 守(まも) りたいだけなのに。
「…… 申(もう) し 訳(わけ) ない。 忘(わす) れるよ」
神官(しんかん) はため息をつき、 肩(かた) を 叩(たた) いた。
「 早(はや) く 会場(かいじょう) へ。 花嫁様(はなよめさま) がお 待(ま) ちです」
俺(おれ) は 階段(かいだん) を 駆(か) け 上(あ) がり、 会場(かいじょう) に 戻(もど) った。
祝福(しゅくふく) の 空気(くうき) が 包(つつ) み 込(こ) む。 大広間(おおひろま) は 花(はな) と 光(ひかり) の 結晶(けっしょう) で 飾(かざ) られ、 陽光(ようこう) が 神聖(しんせい) に 差(さ) し 込(こ) む。 祭壇(さいだん) の 前(まえ) で 息(いき) を 整(ととの) え、 彼女(かのじょ) を 見(み) た。
心臓(しんぞう) が 止(と) まった。
ミユウがそこにいた。 純白(じゅんぱく) のドレスは 天使(てんし) の 翼(つばさ) を 思(おも) わせ、 黄金(おうごん) の 髪(かみ) は 花冠(はなかんむり) で 飾(かざ) られ、 瞳(ひとみ) は 優(やさ) しく 輝(かがや) いていた。 背中(せなか) の 羽(はね) がそっと 揺(ゆ) れ、 光(ひかり) の 粒(つぶ) が 舞(ま) う。 息(いき) ができなくなる。 胸(むね) の 奥(おく) から 熱(あつ) いものが 込(こ) み 上(あ) がり、 涙(なみだ) が 溢(あふ) れた。
召喚(しょうかん) されたあの 日(ひ) 、 最初(さいしょ) に 手(て) を 握(にぎ) ってくれた 温(あたた) もり。 戦場(せんじょう) で 癒(いや) してくれた 光(ひかり) 。 死(し) にかけの 俺(おれ) を 抱(だ) きしめ、「 龍夜(りゅうや) くん、 絶対(ぜったい) に 諦(あきら) めないで」と 囁(ささや) いてくれた 夜(よる) 。 彼女(かのじょ) が、いなければ 俺(おれ) はとっくに 折(お) れていた。ただ、この 温(あたた) もりを 失(うしな) いたくなかった。
足(あし) が 動(うご) き、 震(ふる) える 手(て) で 彼女(かのじょ) のもとへ。ミユウの 瞳(ひとみ) が 俺(おれ) だけを 映(うつ) し、 頰(ほお) が 桜色(さくらいろ) に 染(そ) まる。 細(ほそ) い 体(からだ) を 抱(だ) き 上(あ) げた。 羽(はね) のよう(よう)に 軽(かる) いのに、 胸(むね) に 伝(つた) わる 温(あたた) もりは 魂(たましい) を 満(み) たす。 天使(てんし) の 羽(はね) が 背中(せなか) に 触(ふ) れ、 聖(せい) なる 香(かお) りが 鼻腔(びこう) をくすぐる。 心臓(しんぞう) の 音(おと) が 重(かさ) なる。ドクン、ドクン。
「ミユウ……」
声(こえ) が 震(ふる) え、 涙(なみだ) が 伝(つた) う。
「 綺麗(きれい) だよ。 本当(ほんとう) に、 綺麗(きれい) だ。 俺(おれ) のミユウ……お 前(まえ) が、 俺(おれ) の 全(すべ) てだ」
彼女(かのじょ) の 頰(ほお) が 赤(あか) く 染(そ) まり、 胸(むね) に 顔(かお) を 埋(うず) める。
「 龍夜(りゅうや) くん……ありがとう。 龍夜(りゅうや) くんも、かっこいいよ。ずっと、ずっと 待(ま) ってたの」
心(こころ) が 爆発(ばくはつ) した。 喜(よろこ) びと 愛(あい) と 感謝(かんしゃ) が 波(なみ) のように 駆(か) け 巡(めぐ) る。
彼女(かのじょ) を 守(まも) れた。この 笑顔(えがお) の 前(まえ) ではどんな 力(ちから) も 無力(むりょく) だ。 抱(だ) きしめながら 誓(ちか) った。たとえ 世界(せかい) が 滅(ほろ) びようと、 彼女(かのじょ) だけは 絶対(ぜったい) に 守(まも) る。
鐘(かね) が 鳴(な) り 始(はじ) めた。 重厚(じゅうこう) な 音(おと) がアストリアを 祝福(しゅくふく) する。 拍手(はくしゅ) と 歓声(かんせい) が 沸(わ) き 起(お) こり、 勇者(ゆうしゃ) と 最高天使(イリゼ) の 結婚式(けっこんしき) が 始(はじ) まる。
ミユウの 手(て) を 取(と) り、 祭壇(さいだん) へ。 指(ゆび) が 絡(から) みつく。 温(あたた) かい。 永遠(えいえん) に 離(はな) さない 約束(やくそく) のように。
光(ひかり) が 二人(ふたり) を 照(て) らし、 鐘(かね) の 音(おと) が 響(ひび) き 続(つづ) く。アストリアの 空(そら) は 優(やさ) しく 見守(みまも) っていた。 俺(おれ) の 人生(じんせい) はここから 始(はじ) まる。 世界(せかい) を 救(すく) う 英雄(えいゆう) じゃなく、ただミユウの 夫(おっと) として。この幸せ(しあわせ)を、 絶対(ぜったい) に 手放(てばな) さない。